第56話 黄金の宝箱(上)

 瞼を開けた銀の獅子商会の団長リディは乳白色のごつごつした壁を眺めながら、ひんやりとした空気を吸い込んだ。執務室にいたはずなのに……それにあの男はーー。そのことを思い出そうとすると、片頭痛のように、こめかみがズキズキと痛んだ。


 しばらくの間、頭を右手で頭を押さえて思考を停止させると、痛みがすぅっと和らいでいった。どうやらあの時のことは考えない方が良いらしい。……そう言えば、夢の中で人形劇を見たような気がする。人間の兄妹から心を貰った人形が幸せになる……そんな内容だった。


 あれは大型アップデートのテーマになっている『オーディン王の人形物語』か? リディは腕組みをして首をかしげた。ゲームの事前情報サイトで新登場するユニークNPCのページは何度も見ていたが、物語については夢に出るほど読み込んではいない。


 クエストを配布するという登場人物のヴィータとクイニーはプレイヤーのふりを歩いていると記載されていた。彼らからクエストを貰うには身体のどこかにあるタトゥー目印にして探すだし、合言葉を言わなければならない。『かくれんぼシステム』っていうやつらしいが、リディはかなり面倒だと感じていた。


 クエスト報酬が相当良くなければ誰も探そうとしないのではないだろうか? 


 そのことはゲーム会社も分かっていたのか、報酬の目玉の1つとして『ヴィータの救援カード』というものを発表していた。それを使えばヴィータがどんな敵でも一瞬にしてなぎ倒してくれるらしい。メインストーリーの理不尽なほど強く、未だにクリアできていないプレイヤーが多いと言われる最終ボスでさえ倒せるならば……そのカードの価値はかなり高い。


 そのボスのことを少し考えたリディはうんざりしたようにため息を吐いた。語り出せば長くなる……そんなことよりも現状把握が先だ。ここは一体どこなんだ? リディはぼやきながら、くるりと振り返ると慌てたように身をかがめた。


 ーーゴブリンがいる! しかも1体や2体じゃない……。


 乱立する鍾乳石の石筍隙間から、石斧を持ったゴブリン5体が10メートルほど先でウロウロしているのが見えた。耳を澄ませばギャッギャッという声が反響しているのが分かる。幸いなことに、彼らはリディにはまったく気が付いていないようだ。


 ほんのり明るいエリアの上空には空や疑似太陽が見当たらない。巨大な柱鍾乳石が天井を支えるように伸びていることから、ここは洞窟のようだ。さらにオプションでゴブリンがいるということは……現実世界ではなくゲーム内なのだろう。


 ーーダンジョンに飛ばされたのか? ここ最近、戦闘なんてやってないってのに……まいったな。


 取り合えず、愛用していた杖を出そうとスマホを探した。ジャケットの内ポケットに入れていたはずなのだが、どこにも見当たらない。


 ーースマホがないってどういうことだ!? それにこんなウエストバッグを身に着けた覚えは……おっとヤバイ……。


 ごそごそとスマホを探していたせいか、何かを察知したゴブリン・メイジが近寄ってきた。慌てたリディが地べたに這いつくばるように身を伏せていると……ゴブリン・メイジは少し首をかしげた後に、立っていた場所に戻っていった。


 ゴブリンといえども侮れない。ダンジョンの探索レベルによってはかなりの強敵になる。特にメイジが混ざっているパーティは回復やバインドなどの魔法を使うため、なめてかかると……痛い目にあってしまうこともーー。


 ーーバッグの件は後回しだ。ソロじゃ分が悪いし、武器がないんじゃどうにもならない。急いでこの場から逃げないと……。


 石筍に沿って左側に進んだ先の壁にぽっかりと穴が開いているのが見えた。身をかがめたまま、静かに移動すればこのエリアからの脱出できそうだ。


 ーーステルスゲームは苦手だってのに。あ、そうだ。大型アプデでデスペナ無くなったんだよな。デスリターンすればーーいやいや。痛覚が1/3とはいえ、痛いのはさすがに嫌だな。なんとかここから脱出しよう。


 抜き足差し足忍び足の代表を務めさせていただきますっ。そう主張できるほど、リディは地下水で湿っている地面をそっと歩いた。もう少し行けば鍾乳石の柱に隠れられる。心臓が暴れ出しそうだったが、ぽんと浮かんだ妻の笑顔が緊張感を解きほぐしてくれた。


 リディは口元を緩ませながら柱に背中をつけると、ゴブリンたちの様子を窺った。彼らは退屈なのか大あくびをしている。


 ーーここからは通路までダッシュすればいいな。見つかったとしてもどうにかなる。


 エリアに縛られているモンスターたちは帰還ラインというものがあった。そこを抜けさえずれば彼らは追ってこない。しかも鍾乳石の柱から通路の入り口までは約5メートルほどだ。リディは深呼吸をすると一気に走り出した。


 だが少し考えが甘かったようだ。そう……地下水で濡れた地面はーー非常に滑りやすい。リディはつるっと豪快に転んで、尻もちをついてしまった。しかも『おわっ』と叫び声を上げて、ゴブリンたちの注目を一気に浴びた。


 ぎゃっぎゃという合唱がリディに近づいている。立ち上がるのに手間取ったせいで、距離を詰められてしまったが、何とか逃げ切って薄暗い通路に飛び込んだ。安心したように息を吐き出したのも束の間、ゴブリンたちの進撃は止まっていなかった。


 彼らはエリアから飛び出してリディを追いかけている。


「まさか通路まで!? 嘘だろぉぉ! 」


 道に沿ってしばらく走り続けていると、後ろから聞こえていた足音はいつの間にか消えていた。やっとゴブリンたちの帰還ラインを超えたらしい。リディは肩で息をしながら、冷たい洞窟の壁に右手をついた。


「……スマホがあればここがどこか分かるんだけどな。頑張ってQRコード集めたのにーー。あ、そうだ、このバッグの中にあったりとか? 」


 額から流れる汗を拭うと、リディは腰から左の太ももに固定されている見覚えがない茶革のウエストバッグに手を突っ込んだ。途端に視界にインベントリ画面が出現し、手帳とスケッチブックらしきアイコンが表示された。


「なんだこれ? 今までのバッグの仕様と違うな。こんなのアプデ情報に載ってーーいや、もしかして……シークレット系か? 」


 ブツブツとつぶやきながら、表紙に宝箱のマークが空押しされた茶色の手帳を取り出した。この手帳にヘルプ説明があるかもしれないと期待してページを開いたがーー。


「……文字化けと黒く塗りつぶされている箇所が多くて読めないな。3ページ目からは白紙だし……何に使うんだこれ? うーん、とりあえず出口を探すかーー」


 手帳をパラパラとめくって1歩踏み出した瞬間に、リディはドンッと何かにぶつかった。プレイヤーと遭遇したのか? それならばここがどこだか聞けるから、ちょうど良い。


「すみません。よそ見をしてーー」


 リディは申し訳なさそうに顔を上げてすぐに、表情を強張らせた。自分を見下ろしている相手はどこからどうみてもプレイヤーではない。はちきれんばかりの筋肉がついた体躯に、牛のような頭からは大きな角が生えていた。背丈はリディの2倍ほどありそうだ。


「ミ、ミノタウロス……」


 だらんとたらした右手に持った大きな両刃斧を見たリディは恐怖のあまり、その場にへたり込んでしまった。頭が真っ白になりすぎて『逃げる』というコマンドを実行することができない。


 黄色く光る眼が、震えるリディを探るように見つめている……。


 斧で縦に真っ二つにされるのか? それとも首を跳ねられて……『死』という嫌なイメージがリディの脳裏を走りまわり、血の気がサーッと引くような感覚を覚えて身体が震えた。


 ーー絶体絶命、デスリターンキタコレ!! 


 怖さに対抗するためなのか、心中は開き直りに近い状態に変化しつつあった。どうにでもなれ! そう思った矢先……ぶほぉぉという鼻息の後にガシャンという音が通路に響き渡った。


 ーー武器を地面に落とした!? ま、まさか素手で殴りにくるのか? 


 リディは身体を硬直させて、じわりと濡れた目をぎゅっと閉じたーー。だが痛みはいくら待ってもやってこなかった。それどころか、なぜか頭を撫でられている……。疑問を感じて瞼を開けると、ミノタウロスの大きな手が両脇にスッと差し込まれた。


「えっ!? 」


 ミノタウロスは転んだ幼子を起こすように優しくそっとリディを立たせると、地面に落ちた手帳を拾った。さらに『落としましたよっ』と言わんばかりに、リディの身体に手帳を押し付けている。


「あ、ありがとう……」


 『この辺りは滑るから気を付けろよっ! じゃあ、またな! 』というようなセリフはなかったが、ミノタウロスはムッキムキの肉体を見せるようにポージングした後に、両刃斧を持って通路の奥へ立ち去っていったーー。


 輝く白い歯と、にこやかな黄色い目を脳裏に焼き付けられたリディは……しばらくの間ポカーンとその場に立ち尽くした。


「え、えええ……? 助かった? いや、助けられたのか? いや、え? ぇええええ!? 」


 ミノタウロスに抱き起された上に手帳を拾ってもらうなんて、そんなことありえるのだろうか? しかも、彼は別れ際の挨拶代わりに、満面の笑みを浮かべてポーズをとっていた……。何が何だかよく分からない。


 混迷したリディは頭を抱えた後に、海外ドラマの俳優のようにオーバーアクションで、両手のひらを上に向けて肩をすくめた。


「死ぬかもしれないと思ったのに……こんな展開になるなんてな。それにしても、ドヤ顔って……。世界広しと言えども、あんなお茶目なミノタウロスを見たのは俺だけじゃないか? ぶっ、ぶはははは」


 緊張感が緩んだせいか笑いが止まらなかった。ダンジョンから出たら、この可笑しな土産話をマーフとヨハンに聞かせたい。マーフはさらっと『へぇ』と一言だけ発して信じてくれないだろうが、ヨハンならきっとかなり食いつくはずだ。すぐにでもメモに書き込みたいというのにスマホが無いのが口惜しい。


「さて、ミノタウロスにおかげで、どこにいるの絞り込めたぞ」


 ミノタウロスはレベル50のダンジョンにしか出没しない。しかも通路の番人として巡回しているのはソルトバ宮殿、ラムーン神殿、暁の島……そして螺鈿洞窟だけだ。


 銀の獅子商会で攻略冊子を作製していたおかげでーーというわけではなく、つい最近、ルードベキアが巡回ミノタウロスからしかドロップしない素材を欲しがっていたため、覚えていたのだ。だがさすがにマップまでは覚えていなかった……。


「螺鈿洞窟ならQRコードマップを持ってたんだけどなぁ……。『あぁ、スマホ……リアルもゲームも必須です! 』よし、だいぶ頭がスッキリしてきたぞ。さっきのアレは大型アップデートの一環なのかもしれないな」


 ミノタウロスが向かった反対側に歩き出したリディは腕組みをしていた右手をほどいて顎に当てた。等間隔で設置されている壁松明がそんなリディの姿を照らしている。長くて白いひげが生えていたら、思わず撫でてしまうのではないかと思うほど真剣な表情だ。


「モンスターの意外な一面を見られるイベント的なやつか? 戦闘が無いなら出口まで楽に行けそうだが……一応、検証してみるか」


 自分がいるダンジョンが螺鈿洞窟だと分かった途端に、リディの気持ちはだいぶ楽になっていた。マップや出現するモンスターについては、全くと言っていいほど覚えていないが、襲われることがないなら出口までは楽勝だ。


 しかしまだ仮説段階であって、確証したわけではない。慢心しすぎて、瞬殺される恐れも視野に入れておかねばならない。


「先ずは、小型モンスターでお試しだな……。できれば最弱なやつと遭遇したいものだ」


 巡回ミノタウロスが歩いて行った反対側にしばらく進むと、少し開けたエリアに到達した。そこにはコモドドラゴンのような形態で体長1メートルぐらいの小型モンスターが3体、それぞれ離れた位置で散歩を楽しんでいた。


虹彩こうさいトカゲなら、検証するのにちょうどいいな。噛まれてもダメージはそんなに無いーーはず……」


 リディは足元に落ちていた小石を拾うと、1番近くにいる個体に向かって投げた。ぽこんと背中に石が当たった虹彩こうさいトカゲはしばらくキョロキョロと辺りを見渡していたが、虹色の尻尾を大きく揺らしながらリディに突進した。


「うげっ、は、速いっ! 」


 思ったよりも素早い移動に仰天してしまったリディは咄嗟に通路に走った。小型モンスターと言えども真っすぐに向かってくる様には、やはり恐怖を感じてしまう。サムライ職のディスティニーならば、ひるまずに不敵な笑みを浮かべるのだろうが、商人職であるリディはそうもいかない。


 リディはモンスターをパラディン職のように釣ったこともなければ、カウンタースキルがある日本刀を使ったこともなかった。ハンタークラスに守られながら、安全圏で魔法を飛ばす時々サポートという戦闘しかしたことがない。


 ーーもうちょっと真剣にいろんな武器を触っておけば良かったぁああ。


 お試しと言えども、いきなり慣れないことをしない方が良かったのかもしれない。『びびり』と言われれば反論できないが、ミノタウロスの時には動かなかった身体が、今度は自然と『逃げる』というコマンドを実行していた。


 帰還ラインまで逃げれば仕切り直せる。そう思ったが少し遅かった。リディは背中に強い衝撃を受けて、硬い洞窟の地面に転がってしまった。頭を庇った両腕と膝に痛みが走っている。


「い、いたたっ……。ホントに痛覚1/3なのか!? 」

「きゅ~ん、きゅ~ん」


 腕を擦りながら地べたに座っているリディの膝に虹彩こうさいトカゲがよじ登っている。潤んだ黒い瞳に顔を覗き込まれたリディは……うろたえた。後にリディ本人がカナデにこう語ったのだが、実際はどうだったのかは言うまでもない。


「えっ!? 何、何、何!? ちょっ、待った! いつの間にか増えてるしっ。1体だけ釣ったはずなのにーー。いやいやいや、登らなくていい。登らなくていいから、ってかなんで頭に登ろうとするんだっ。重い、1匹でも重いのに、3匹は無理ぃぃい! 」


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