第47話 診療所の異変

 診療所の白い壁に囲まれた個室で、ビビは耳を横にピーンと張りながらルードベキアの額をぺたぺたと触っていた。ここに何かある……これはとても危険なものだ。早く取り出さなければいけない。危機感にかられて右前足の爪に力を入れた。


 だが、ふと弦をはじくような振動を細い髭に感じて、ピタッと動きを止めた。……ざわざわする不快な感触が体中を駆け巡っている。


 ーー笛吹ヴィータが出現ではなく、誕生だなんて!? そんな……。


 脳裏で更新された大型アップデートの情報に驚きを隠せず、焦りを覚えた。眠らせたルードベキアを現実世界に戻すことに失敗した挙句……狙われている他のプレイヤーを今だ見つけることができていない。大体の予測でログインできないようにしようとしたが、それも上手くいかなかった。


 全て、相手に見透かされているーーということなのだろうか。そう思えるほど、ことごとくビビのやる事為す事は裏目に出ていた。


 ーーならば、この子だけでも守らないと……。あの人の考えは絶対に間違ってる!


 哀しそうな表情を浮かべた女性の姿がカナデの瞳に映った。彼女は右手でルードベキアの頬にふんわりと触れている。びっくりしたカナデは両目をゴシゴシと手で擦った。


 ゲームの診療所に幽霊が出るなんて、そんな馬鹿な……。それとも治療の演出なのだろうか。困惑しながらも、再びぱちっと目を開けたが、もう見えなかった。


「あれ? 消えた? いまの何だったんだろう……」


 幼いころに亡くなった母の面影に何となく似ているような気がした。父にもらった写真を見ようとスマホを取り出したがーールードベキアの顔の傍に座っている錆猫の行動に驚きすぎて思わず放り投げた。


 眠るルードベキアの額にビビがにょきっとだした爪を食い込ませている。さらに、掘るようにえぐっていた。


「あああぁ! ビビ、そんなことしちゃだめだよ! 」


 カナデは慌ててビビを抱いて引き離したが、ルードべキアの額から血が噴き出していた。ゲームの傷表現ってこんなにリアルだった? そう思うほど、白い枕を赤く染めている。タオルかガーゼを当てないと! 慌てふためくカナデの腕の中で、ビビは何とか逃れようと藻掻いた。


「あるじさま、何するにゃ! 離すにゃ! 早くアレをーー」

「ビビ、大人しくして。急いで、応急処置をしないと……」


「ーーなんか……痛い」


 ぼそりとつぶやきながら目覚めたルードベキアはぼんやりとしたまま、ゆっくりと額を触った。


「……っうわ。なんだこれぇぇえ! 」

「ルードベキアさん! 」


「え? どういうコトだ? なんで血まみれ? ってここ何処!? 」


 ルードベキアはガバッと飛び起きると、サッとベッドの上にしゃがんで戦闘姿勢をとった。目を大きく見開きながら、胸元にあるスクロールに手を伸ばして、リフレクトヒール魔法壁を展開した。


「ルードベキアさん、ここは診療所です!」


 そう言われながらも、ルードベキアはカナデを慌てたように抱きかかえた。危険がないかどうか周囲を警戒するように見渡している。


「モンスターはいません、大丈夫です。ここはガロンディアです」

「カナデ、状況がイマイチ飲み込めないんだけど……」


「良かった。ルードベキアさんが起きて、本当に……」


 ぐすぐと泣き出したカナデの頭を撫でながら、ルードベキアはこんがらがった頭の糸をほどき始めた。イベントダンジョンにいたはずなのに、なぜこんなところに? 事情を聞きたいところだが……カナデはしっかりと胸に抱き着いたまま、ずっと泣きじゃくっている。


 カナデの腕から逃れることに成功したビビはじっと……ルードベキアの額をベッドの上から眺めた。何とか見つけようと凝視しているが、起きてしまったせいなのか馴染んでしまったのか、反応を見つけることができない。


 ーー絶対に阻止しないと……。カナデのためにも。


 彼女はルードベキアには見えない身体で愛おしそうに、泣いているカナデをそっと後ろから抱きしめた。閉じた左目から一滴の涙が……カナデに存在を伝えるようにポトリ落ちた。


 自分たち以外に誰かがいるような感覚を覚えて、カナデは後ろを振り向いた。そこには誰もいなかったが、不思議と怖いと感情は湧かなかった。それどころか、優しいユリの残り香が幸せな気持ちにしてくれた。


「ルードベキアさん、いっぱい泣いてごめんなさい。なんか安心しすぎちゃってーー」


 カナデは顔を上げて、オッドアイの瞳を見つめながら照れくさそうに笑った。ルードベキアはその笑顔に救われたような気がした。さっきまで精神的錯乱に陥りそうになっていた心は、カナデのおかげで落ち着きを取り戻している。本当に傍にいてくれて良かった……。


 ルードベキアは微笑みながら『ありがとう』と言うと、カナデをそっと優しく抱きしめた。



「なるほど……だから外が賑やかなのか」


 カナデから話を聞いたルードベキアはやっと現在の状況を理解することができた。ベッドの上で胡坐をかいて、少し首をかしげながら腕を組んでいる。最後の記憶は、ショコラダンジョンで胸元にある緊急支援の笛を握って、鎖を引き千切ったことまでだ。まさか大型アップデートが来る日まで寝ていたは……。


「ーーで、僕のおでこが血まみれになっていたのは? 」


 敵から攻撃を受けたと勘違いするほど混乱した原因は何だったのだろうか。向かい合わせで胡坐をかいているカナデはちらりとビビに目を向けた後に、申し訳なさそう表情を浮かべた。


「そ、それはビビが……。ルードべキアさんを……無理矢理、起こそうーーとして? 爪で引っ搔いちゃって……ご、ごめんなさいっ」


「そうだったのか。ーービビ、ありがとう? 凄く痛かったけど。あはは」


 愉快そうに笑っているルードベキアに安心したカナデは口元がふにゃっと緩んだ。師匠のいつもの笑顔と声を聞けることが飛びつきたい衝動にかられるほど、嬉しくなった。だが父親にするようなことを、彼にするのは失礼な気がする……。気持ちを抑えるために、右手で左指をぎゅっと握った。


「本当に良かった……。ルードべキアさんが眠ったままで現実に戻れなくなったどうしようかと思ってました」


「心配かけて、ごめんねーー。じゃあ、カナデ、僕はリアルの身体が心配だから帰るよ。いろいろありがとう」


「うん、またね」


 少し寂しそうな笑顔を浮かべたカナデの前で、ルードベキアはスマホを取り出したが……なぜか固まったように動きが止まってしまった。真顔で画面をじっと見つめているかと思うと、眉間にしわを寄せてた。何か問題が起きたことを察することができるぐらい、険しい表情に変化していた。


「カナデ……どうやら帰れないらしい」

「えっ……?」


「ログアウトボタンがーーどこにも無いんだ」


 そのルードベキアの言葉を聞いた途端に、錆猫ビビの毛が逆立った。ぼわっと尻尾を膨らませて、カナデよりも速く、ルードべキアの膝に潜り込んでスマホを覗き込んだ。データを読み取るために画面に置いた右前足をぷるぷると震わせて、左前脚で左目を覆った。


「にゃ、にゃんてこったにゃ! ーーこれはまずいにゃ……。先手を取られたにゃ? どうしたもんかにゃ」


 誤魔化しがきかないほどの大声で叫んだ後に、ビビは矢継ぎ早につぶやき出した。プレイヤーに喋れることは秘密だと言っていたはずなのに、どうしよう!? あわあわとしているカナデと裏腹に、ルードベキアは楽し気にビビを抱き上げた。


「ビビ、喋れようになったのか。今回の大型アプデは凄いな! マキナが知ったらめっちゃ喜ぶぞ」


 ルードベキアに頭を撫でられたビビは、両前足で器用に口元をぱっと抑えた。ちらりと見たルードベキアはまったく気にすることなく、破顔している。大型アップデートで追加された仕様だと信じ切っているようだった。これがゲーム脳というやつなんだろうか。


 ほっと胸を撫でおろしたビビはぴったりとルードベキアにくっついて、存在が分からなくなってしまったアレを探し始めたーー。小さな声で忙しくデータを処理しているパソコンのようにウンウン唸っている。


「ビビ、どうした? カナデんとこにーー」

「行かにゃい。ここがいいにゃ」


 自分の膝の上が良いなんて……嬉しすぎるビビの言葉にルードベキアは顔をほこらばせた。ふわっとしたビビの背中をそっと撫でて、誰から見ても分かる通りの幸せそうな表情で浮かべた。


「さてさて、困ったもんだっ。ログアウト出来ないなんて、バクかな……。カナデは大丈夫? 」


「あ、えっと、だ、大丈夫です」

「そうか、ならやっぱ不具合なんだろうなぁ。診療所のNPCに聞いてみるか……」


 バグや不具合については、運営が管理している診療所の看護NPCに相談するのが1番だろう。オープン当初は駆け込み寺とも言われていた。ここに来れば大抵の不具合はすぐに対応してくれる。大丈夫だ……深刻になることは無い。


 不安がないと言えば噓になるが……囚われ過ぎずに、ゲーム会社を信じて楽観的にいこう。


 だが……真っ白い壁と窓が1つだけある部屋のドアを笑顔で開けた先は想定外の風景が広がっていた。ルードベキアの頬が引きつったようにひくひくと動いている。カナデはビビを腕に抱えている彼のコートを掴んで、不安そうに見上げた……。


「ルードベキアさん……」

「カナデ、ここに来た時こんなんだった? 」


「いいえ……。だって、僕……このイングリッドさんに部屋まで案内してもらったからーー」


 カナデは指を差した看護NPCは扉の前で仰向けで倒れていた。さらに糸が切れたマリオネットのように看護服姿のNPCが、2人が立っている廊下に点々と転がっている。誰かに襲われたのだろうか……。そう思ってイングリッドという名札をつけたNPCの身体を確認したが、瞳に光がない以外は外傷はどこにもなかった。


「接続が切れてるにゃ」

「ビビ、接続って? 電気の? 」


「診療所エリアが落ちてるにゃ」

「えっ!? 落ちて……? ブレーカーが? 」


「違うにゃ。なぜかオフラインになってるにゃ」


 ビビは目を丸くして不思議そうにしているカナデの頭をポンと軽く左前足で叩くと、またルードベキアの腕の中にうずくまった。なぜそんなことが分かるのか、ちょっと気にはなったが……それは後回しにした方が良さそうだ。この光景はどう見ても尋常じゃない。


「鯖落ちしてることなのか? これは……かなりヤバイ気がするな」


「来るときにちゃんと見てなかったから分からないですけど、ヘルプセンターは大丈夫かもしれません」


「そうだな、そっちに行った方が良さげだな」


 外に出るためには受付を通らないといけないのだが、やはりここも3人の看護NPCが倒れていた。パットみたところ、イングリッドと同様に外傷はないようだ。それでも様子を確認しようとするカナデに、ルードベキアは無駄だという風に首を横に振った。


「ここのNPCって、サポートセンターに繋がっててさ。オンラインアシストでオペレーターと話せるシステムだったはずなんだけど、これじゃぁどうにもならないな」


「そういえば診療所に入った時に3人ぐらいプレイヤーがいたんですけど、いないですね」


「う~ん、おかしな状況に驚いてヘルプセンターに行ったんじゃないかな。カナデ、僕らも外に出よう」


 カナデの目の前をクレープを食べながら歩いている二人組のプレイヤーが通り過ぎた。ピエロから風船をもらっている女性プレイヤーの横を、子どもNPCがはしゃぎながら通り過ぎて行った。誰もかれもが楽しそうな笑顔を見せていた。


 この人たちは無事にログアウトできるのだろうか。心配そうに彼らを眺めているカナデの背中をルードベキアがポンと叩いた。


「カナデ、ちょっとこれ見てくれ」

「こ、これって……」


 不思議に思いながら振り返ったカナデの瞳に……ドア前に出現したCLOSEというプラカードが映った。


「僕が来た時にはこんなのなかったです。なんで……」

「だからNPCが倒れてたのか。カナデ、ヘルプセンターに急ごう」


 そう言って数分後……ルードベキアとカナデは困ったような顔を互いに見せながら、がっくりと肩を落とした。CLOSEという文字は彼らの『ヘルプセンターに行けばどうにかなる』思考は完全に粉々になってしまった。カナデは困惑しすぎて、どうしたらいいかプチパニック気味になっていたが、ルードベキアは意外にも冷静だった。


 彼は慌てることなく、取り出したスマホ画面をタタタと軽く叩いている


「カナデ、銀の獅子商会のヨハンのところに行こう。あそこなら、いろんな情報が入って来るから、どうすればいいか分かるかもしれない。本部があるランドルに行くけど、紅石は持ってるかな? 」


「はい……」


 ルードベキアは錆猫をカナデの頭に乗せると、泣きそうな表情をしている彼をぎゅっと抱きしめた。


「カナデ、心配するな。大丈夫さ」

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