第46話 リディ消失

 VRシンクロゲーム神の箱庭が大型アップデートをした当日、そう……カナデがビビと共に診療所にたどり着くほんの1時間ぐらい前、銀の獅子商会の団長リディは現実の世界で妻と昼食を楽しんでいた。ダイニングテーブルにはトマトと茄子のパスタ。それとサラダに卵スープ、デザートのシフォンケーキが乗っている。


「このパスタ、美味しいな」

「うふふ。拓真、ありがとう。通販で買ったイタリアントマトをつぶして作ったのよ」


「このバジルも通販なのか? 」

「それは、近所のスーパー。最近、ハーブの品ぞろえがいいの」


「そうなのか。これもなかなかーー」

「気に入ったの? じゃあ、あとで一緒に見に行かない? 」


「いいね。ーーあっと……ちょっとだけゲームしたいんだけど。駄目かな……。今日は大型アップデートの日でさ、その……」


 職場で愛妻家と言われているリディこと熊谷拓真はゲームと現実での生活をきっちりと分けていた。仕事が忙しく出張が多い妻を気遣い、ことのほか彼女との時間を大切にしていた。ゆえに一緒にいる時はできるだけゲームをしないようにしていたのだが……。


 待望の大型アップデートが気になりすぎて、今日は朝からずっとそわそわしていた。申し訳なさそうな顔でじっと妻を見つめている。玲奈は夫とVRシンクロゲーム神の箱庭に行ったことがあった。しかし、ゲーム内で姿が違う妹の春香と会うという不思議な感覚がどうしても馴染めなかった。


 さらにモンスターと戦うことが怖くて、とても続けられないとすぐに断念してしまった。その後、2人に何度も誘われたが……現実で会う方が数倍良いといって断り続けている。


「春香と商売しているゲームだよね? ーー1時間だけよ」


「ありがとう玲奈。用事をすませたらログアウトするから、その後、一緒に買い物に行こう。あ、食器は俺が洗うから、そのまま座ってていいよ。ゆっくりしててーー」


 拓真は食事を終えた食器を手際よく下げると、鼻歌交じりに洗い始めた。頭の中で1時間で済ませるための手順をあれこれと考えているーーということが手に取るように分かった。玲奈は思わず顔をほころばせて、百面相をしている夫を眺めた。


 ーーゲームをしている時も同じように表情に出るのかしら? こっそりスマホで録ってみようかな。


 暖かいお茶に口を付けた玲奈は『ふふふ』と楽しそうに笑った。無防備な姿を動画に残されてしまうなどとつゆにも思っていない拓真は食器洗いを終えると、『1時間だけ行ってくるから』と言って自称仕事部屋に篭った。



「あ、団長が来たみたいだね」


 フレンドがログインした時のお知らせ着信音に気が付いたマーフがスマホ画面をじっと見つめている。その隣でヨハンはさっき屋台で購入したばかりの御手洗団子をパッケージから1つ取った。


「お昼をゆっくり食べてたんですかね? 奥さんの手料理……良いなぁ」

「こら、ヨハン! ここでリアルの話をするのはご法度だよ」


「あっと、すみません」

「団長から12時40分に集合ってメッセが来てるね。じゃあ、本部に戻ろうか」


「あ、待ってください! あの屋台の新作アイスを団長のお土産にーー」

「ええ!? もうかなりいっぱい買ってるのに? 」


「すぐですからっ! 」


 テイクアウト用の袋を両手にいっぱい持っているというのに……ヨハンはまだ足りないと感じているらしい。マーフの制止を振り切って、ヨハンは全速力で走っていった。



 その頃リディは妻の玲奈との約束を守るために、マーフ達に見せるための新たな事業展開企画書に奮闘していた。


「この不動産システム導入はなかなか面白いな。だけど、競売所がオープンするのはまだ先か……。購入できる土地はーー公開されているな。よし、今のうちに値上がりしそうなところをチェックしてーー」


 スマホに表示している大型アップデートの情報と、パソコンのモニターを交互に見ながら、現実世界で仕事をしているようにキーボードをカタカタと指で鳴らしている。


「それとキャンペーンボスとユニークNPCの情報はいち早く欲しいな。いつも通りに調査担当のヨハンの活躍に期待したいところだが……」


 事前情報サイトにはユニークNPC3体、そしてキャンペーンボス1体が初日に登場すると記載されていた。さらに1週間後にそれぞれ1体ずつ追加されるらしい。


「さすがに、1人で全部は負荷が大きすぎるな……。今回は俺もカメラマンになるか」


 リディは忙しく動かしていた指を止めて、スマホから具現化したカメラを机の上に乗せた。このカメラは神の箱庭に5台しかないうちの1つだった。


 製作者であるルードベキアに初めてコレを見せられた時、驚きが隠せなかった。そのことを思い出すと、フッという笑いが漏れてしまう。リディは大事そうにそっとカメラに触れた。



「リディ、ちょっとコレ見てくれないか」

「おいおいおい! これって……まさかカメラか? 」


「そのまさかだよ」


 この世界のスマホには写真機能がない上に、カメラというアイテムは存在しない。どうしても写真が欲しい場合は写真館のカメラマンNPCに依頼しなければならなかった。だが……レアモンスターやボスなどの写真はネタバレ防止策のため撮ってもらえない。


 そのことで悶々としていたリディはこのカメラは革命的なアイテムだと感じた。目を大きく見開いて、ルードベキアの手にあるカメラをしげしげと眺めている。形状は現実世界で見たことがあるポラロイドカメラによく似ていた。


「職人クラスには確かに開発スキルがあるけど、こんな物が作れるなんて……。驚きすぎて顎が外れそうだよ」


「うん、まぁ……ちょっと大変だったけどね。どうしてもカメラを作りたかったんだ。ズーム機能もあるから、いろいろ使えると思うよ」


「撮った写真はどうなるんだ? ポラロイドカメラみたいに出てくるのか? それともパソコンやスマホにデーが送られるのか? そのデータって共有できるのか? 」


「待て待て! 落ち着けって」

「いやいや、こんなものを見せられたら、落ち着けないだろう! 」


「ハハハ……。えっと、残念ながらデータはスマホやパソには送れない。いずれ、そうできるようにはしたいと思っているけどね。……で、画像については、このボタンを押すと、こういう風にーー」


 レンズの下にある溝からプリントされた写真が次々と吐き出された。その様子を見たリディはすくっと立ち上がると、3人掛けソファに腰を下ろしているルードベキアの隣に座った。


「ルー、ちょっと触らせてくれ」

「うぇえ!? 」


「なに驚いてるんだ? カメラだよ」

「え、あぁ……うん。どうぞーー」


 その言い方は誤解を招くとルードベキアは言いたかったが……カメラに夢中になっているリディには聞こえなさそうだった。諦めたような表情を浮かべて、マーフが淹れてくれた紅茶に口を付けた。


 リディはファインダーを覗いたりボタンを押したりしている。


 ーーネタバレ防止で画像が手に入らないモンスターの姿をデータ化できるな。現実世界の攻略サイトにはプレイヤーが描いたイラストしかないから……。ゲーム内で画像付き攻略冊子を作れば……売れるかもしれない!


 真剣な表情をしたかと思えば、にんまりと不敵に笑い、さらに眉間にしわを寄せるなど、リディは表情をころころと変化させていた。そして最後に朗らかな笑顔をルードベキアに向けた。


「ルー、これは面白いぞ! 商会のパソコンにスキャンできるようにして、データ化して、それとーー」


「あはは。こんなに興奮しているリディは久々だな」


「そりゃあ、そうさ! 今まで我慢していたことが出来そうなんだぞ。興奮しない方がおかしい」


「わ、分かった、分かったから、そんなに顔を近づけなくていいよ」


 ルードベキアは抱っこされるのが嫌な猫のように、詰め寄って来るリディの顔を手で押しのけた。頬をほんのりと赤らめて、鼻息が荒いリディなんて滅多にお目にかかれるものではないが、間近では遠慮したい。ソファの端まで逃げるべきか、それとも向かいのソファに行くべきか……。


 移動したとしても、リディは隣にやってきて座り直すだろう。そう思ったルードベキアはコマンド『諦める』のボタンを押した。だが突然、興奮冷めやらぬ状態だったリディは無表情になった。手の中にあるNо.0の刻印がされたカメラを見つめている。


「いまボタンを押しまくったけど反応しないってことは……これ、帰属アイテムなんだな」


「そうだよ。武器とかと同じ扱いになるかな。発注してくれれば、同じものを作るよ。いくらで買ってくれる? 」


「言い値でーーいや待て、ちょっと考える。素材は? あっとそれは秘密だよな。ええっと……」


「ごゆっくりどうぞ」


 やっと平常心に戻ったのか、リディはテーブルにカメラを置くと、執務机に向かった。モニターに表示したテキストに製作費、材料費、レア度などなど、適正な値段を算出するための要素と数値を書き込んでいる。その間、ルードベキアは新しい紅茶と茶菓子を持ってきてくれたマーフと優雅なティータイムを楽しんだ。



「あの時は本当に、ルーに驚かされたよな」


 リディはグーにした左手を口元に当てて愉快そうに笑った。彼の瞳にはNо.1という刻印が映っている。ルードベキアの顔を思い浮かべて、良い友人に巡り合ったことを心から感謝した。


「おっと、のんびりしてる場合じゃなかった。もうすぐマーフとヨハンが来るだろうから、それまでにこの企画書をーー」


 カメラから離した手を黒いキーボードの上に置いて、モニターに表示されている文章に目を移した。静かな執務室にカタカタという音が響いた。


「まぁ、取り合えず、こんなもんでいいか……。あとはマーフと相談してこれに肉付けすればーー」


 チリン、チリン……。


「鈴? 執務室に呼び鈴なんて付けたっけ? いや、この音は……外からじゃないな」


 音の出所が気になったリディは立ち上がって机から離れた。チリンという音は連続で鳴り響いている。大型アップデートの影響か、それとも何かのアイテムが発動しているのだろうか。3人掛けソファの下から聞こえているようだった。不思議に思いながら、しゃがんだーー。


「ザザッお前はーー知り過ぎザザザ余計なことをザーザザザザッ、ザザザザ」


 砂嵐のような音が混ざった声に驚いて顔を上げると、すぐ傍らに顔が黒く塗りつぶされたスーツ姿の男が立っていた。リディの本能がこの人物は危険だと囁いている。絶対にこれは大型アップデート関連のイベントなんかじゃない!


 ーーログアウトして逃げろ!


 リディはすぐさまスマホが入っているジャケットの内ポケットに左手を伸ばした。だが、その手をスーツ姿の男が掴んだーー。


「ザザザザッ祝福をザザザザ拓真。ザザ、ザザザザ」

「何を言ってーー。くっ、手を離せ! 」


 不審者の顔は黒く塗りつぶされていて全く分からないというのに、不敵に笑っているように見えた。背筋が凍るほどのゾッとするよう感覚に襲われ……殴りつけるよりも、逃げだしたいと言う気持ちが先行した。


 そんな危機的状況の真っただ中……執務室の扉が開いた。


「団長、失礼します。屋台でお土産をーー」


 リディが顔が分からない不審者と争っている。その光景を目の当たりにしたマーフは持っていたものを放り投げて、腰にぶら下げていたレイピアを抜いた。リディの『マーフ逃げろ! 』という言葉を無視して駆けだしている。


 スーツ姿の男は予想していなかった人物の登場にひるんだのか、リディの手首を掴んでいた力が緩んだ。その瞬間を見逃さなかったリディは彼を突き飛ばそうと右手を押し出した。しかし、胸元に当たったはずの手のひらは何もない空間を突き抜けてしまった。


 バランスを崩して倒れそうなリディの眼前に黄金色の鈴が飛んでいる。これが鳴っていたのかと漠然と思っているうちに、リディの視界は真っ暗になった。



「くっそ、逃げられた! 今のは誰? なんで、執務室にポータルが……。 団長、無事ですか! 団長? 」


「マ……マーフさん、だ、だ、だ……団長が何かに、飲み込まれて……消え、消え……」


 ヨハンは目を大きく見開いたまま、小刻みに震える右手でリディがいたはずの空間を差している。


 果敢にもレイピアで不審人物にアタックをしたマーフはリディが消える瞬間を目撃していなかった。ついさっきまでいたはずなのに……。


 何が起こったのか不可解過ぎて、理解が追い付かない。そういう顔をしながら、誰も座っていないソファの背もたれに手を置いた。大型アップデート初日になぜこんなことが?


 マーフはジャケットのポケットから取り出したスマホを見てすぐに、眉間に深い溝を作った。


「ヨハン、フレリストの団長の所在地が何処か確認してくれる? 」

「は、は、はい。ーーあ、あの、団長は、ログアウト表示になってます……」


「ありがとう……。リアルのリディ団長を確認してくるから、ログアウトするね」

「あ、じゃあ、俺は現場検証してます……」


「ヨハン、無理しなくていいからね」

「だ、大丈夫です! ホントに……」


「分かった……。任せたよ。何かあってもなくても、明日はログインするから」


 かなり動揺してるはずのマーフは青ざめた顔で優しく微笑んだ。ヨハンはログアウト時のエフェクトをぼうっと眺めながら、じわっと浮かんできた涙をぐっとこらえた……。


「リディさん、マーフさん、いざという時に……全然、動けなくてすみません……」


 防犯システムにひっかからない強盗だったのだろうか。リディは咄嗟にログアウトしたのだと、自分に言い聞かせた。黒い何かに飲み込まれただなんて、そんなことは絶対にありえない。ヨハンは角がにょきっと生えた恐怖心という小人が歩き回る姿を見ないように目を背けた。


「ここにポータルを開けるなんて普通はできないはずなんだけどーー」


 やっと少し落ち着きを取り戻したというのに……執務机に置いてあるカメラを見た途端、ヨハンはみるみるうちに青ざめた。


「このカメラ……まさか団長の? いや、帰属アイテムはログアウトしたら消えるはず。置きっぱなしになるなんてことあるわけがない。これはルードベキアさんがーー」


 ルードべキアは4は縁起が悪いと言っていたから、新たに納品されたものならば刻印はNо.6のはずだ。確認しなければと思っているのに、見たくないと言う気持ちが大きく膨らんでいた。


「こ、刻印は……Nо.1!? 嘘だ……これは団長がーー」


 カメラというアイテム名称の下に帰属者の名前がなかった。そんなわけはないと訝しんでじっと見ていると……ぼやっと文字が浮き出てきた。


「そんなばかな! 何で帰属者が俺になるんだ!?」


 言葉を失ったヨハンは震えが止まらなくなった。目の前で起きたことが納得がいかな過ぎて、思考がうまく働かない。さらに過呼吸のような症状で息ができなくなってしまった。ヨハンはシャツの胸元を右手で握りしめてーーその場に倒れ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る