第38話 は~い、ナ~イスアベック! イエ~イ、ヤッフ~ッ
後藤雅士は仕事に追われ、遅くまでの残業でクタクタになっていた。お帰りと言うパジャマ姿の母親に返事をして、冷蔵庫を開けた。手作りのおにぎりを頬張り、ペットボトルのお茶を飲みながら、自分の部屋に入った。
「ーーやっぱりここにあったか」
ゲーミングチェアの上でポツンと留守番をしていた携帯を取ってホッとしたような笑みを浮かべている。画面を表示するためにホームボタンを押した。
「あー。バッテリー切れてる。まいったな……。ОLМに連絡が来てるかもしれないのに……」
デスクトップパソコンの電源を入れると、真っ先にОLМコミュニケーションツールのアイコンをクリックした。ーーイリーナからメッセージが来ている。
「ええっと、レストラン長槍兵で0時までなら待つーー。あそこの焼き鳥は美味いからな。おっと、急がないとーー」
かなり疲れていたがゲーム内でイリーナと楽しい会話をしながら、ビールを1杯飲みたかった。1度も現実で対面したことがない相手で、見た目もゲームのキャラクターだと分かっている。それでも、彼女の微笑みは元気を与えてくれる特効薬のようなものだった。腕時計の時間を見た雅士は慌ててベッドに転がりーーVRシンクロヘッドを装着した。
ディグダムになった彼は拠点にしているランドルの街の西市場に向かった。屋台ランプで照らされた市場には、まだ多くプレイヤーが行き来していた。財布の紐が緩んでしまいそうな匂いが漂っている。
「これはやばい、おにぎり1個だけだったから……腹が鳴りそうだ。急いで通り抜けないとーー」
チャーハンを調理しているような音が聞こえているが、見ないように急いで人混みを通り抜けた。焼きとうもろこし、お好み焼き……そして何かを揚げている様々な音や香りがモンスターのように、とめどなくディグダムを襲った。
「し、心頭滅却すれば火もまた涼し……くぅ……きっつい! 」
よだれを拭きながら、市場の奥にあるレストラン長槍兵にたどり着くと、半野外のテーブル席にイリーナが座っていた。彼女はすぐにディグダムに気が付き、嬉しそうに手を振っている。ディグラムに絡みついていた食え食えモンスターたちは、彼女の眩い笑顔でさらさらと粉になって消え去った。
「間に合って良かった」
「ディグは今日も残業だったんでしょ? 来てくれてありがとう」
「家に携帯忘れちゃってさ。メッセージを見たのはさっきなんだよ。ごめん」
「気にしない、気にしない。これ食べる? 美味しいよ。茹でたものより好きかも」
イリーナは左手の傍にあった木製の深皿に入った焼き枝豆を中身が見えるように持ち上げた。ディグダムに食べて欲しそうに、焦げ目がついた緑色の鞘に入った枝豆がコロンと転がった。これはリクエストに応えるべきだろう。
ディグダムは右手で1つ取ると、親指で豆を押し出して口の中に滑らせた。
「旨いなコレ。焼いた枝豆なんて初めて食べたよ」
「へへへ。私の最近のお気に入りなんだぁ」
思わず手が出るという言葉通りにディグダムは残りを全て平らげてしまいそうな勢いで食べている。人が美味しそうに食べてる姿というのは、不思議と笑みが零れるものらしい。イリーナはほっこりしたような表情で彼を眺めた。
「それ気に入ったみたいだね」
「あっ、すまん。つい、歯止めが利かなくなっていた」
「いいよいいよ。また頼むから」
ふふふと楽し気に笑うイリーナに釣られてディグダムも微笑んだ。彼らは萬屋商会の団長と副団長という間柄で、商人職仲間として苦楽を共にしてきた仲間だった。
特別な関係ではないが……ディグダムはバレンタインイベントの最終日にログイン出来なかったことを、ほんのちょっぴり悔やんでいた。頭の中で『仕事が忙しかった』という札に五寸釘を釘を打ち付けている。
イリーナは真剣な眼差しを向けながら、メニュー表をパラリとめくった。現実世界ではタブレットで注文できる店が増えているようだが、このゲームの世界では見た目は紙媒体のものが多い。現実と違う点はーーメニューの料理名の横にあるボタンを押して、スマホをかざして決済すれば注文が完了するというトコロだろうか。
もちろん店員NPCを呼び止めて注文しても問題ない。イリーナは来店したディグダムのために冷たい水を持ってきた男性店員NPCが来たことに気が付いて、メニューをぱたんと閉じた。長槍兵1番頭タスケというネームカードをつけた店員がにっこりと微笑みながら、ディグダムの前にグラスを置いている。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか? 」
「えっとですね。とりあえず生ビールを1つと、出し巻き卵、それと大根サラダをーー」
ディグダムはメニュー表にある料理名を言いながら、スマホの決済アプリのバーコードを表示した。男性店員NPCは左手のひらに表示された注文内容と金額をディグダムに見せて、間違いがないか確認すると、バーコードに左手をかざした。支払い完了のピッという音が主張するように響いた。
イリーナは面白そうにクスクスと笑って、テーブルに両ひじをついて手を組んだ。
「ディグ、肉、食べないの? 」
「ここに来るまでに匂いで満足しちゃったというか。肉っていう気分じゃ無くなったというか……」
「あはは。そうなの? あ、店員さん、私に焼き鳥のぼんじりとーーつくねを2本ずつ! それと焼き枝豆を1皿、お願いします」
素早く注文を完了したイリーナは男性店員NPCの背中からディグダムに目を移して、白い歯を見せてニカッと笑った。開いたメニュー表の写真を右手の人差し指でトントン叩いている。
「ディグ、やっぱ肉だよ、肉! すべての~活力は~にっくぅ、ってねーー。あ、それとね。これあげるっ」
イリーナがテーブルに置いたピンク色の箱に赤いリボンが付いたプレゼントボックスに、ディグダムは目を丸くした。お礼を言って開封ボタンを押すと、具現化されたのはーー20センチほどの大きさの、ハートのチョコレートを持った、らいなたん縫いぐるみだった。
「可愛いでしょ? らいなたんが背負ってるリュックに、チョコが入ってるんだよっ」
ディグダムは嬉しさのあまり、声がなかなか出なかった。イリーナにとって自分は大勢いるゲーム仲間の内の1人だろうと思っていたのに、こんなものを貰えるなんて……。マジックテープでくっついているリュックのフタをべりっと剥がして、ひと口サイズのチョコレートを取り出した。
ハート型のチョコレートが動揺している心のようにテーブルの上でころころと転がった。ディグダムは零れた
「このチョコ、アーモンドが入ってるのかーー美味いな」
「ホント? 1個ちょ~だいっ。ーーおっ! いけるねぇ、さすが有名なチョコメーカーがコラボしてるだけはある」
「イリーナ、俺……、何も用意してなかっーー」
「私がディグに貰って欲しかっただけだから、気にしないっ。えへへっ」
今まで色んなゲームをイリーナと共にプレイしてきたが、ディグダムがイベント事でプレゼントを貰ったのは初めてだった。意表を突かれすぎて、目玉焼きが焼けるんじゃないかと思うほど顔が熱い。イリーナは満足そうに笑っているがディグダムは心が騒ぎだして落ち着かなかった。
「は~い、ナ~イスアベック! イエ~イ、ヤッフ~ッ」
突如、妙なテンションの女性店員NPCがテーブルの前に現れた。レトロゲームでモンスターとエンカウントした時の戦闘曲が流れているのではないかと錯覚するほど、軽いフットワークで次々にポーズを決めている。彼女はにっこりと微笑み、右手のひらを上空に掲げたキメポーズをとったまま、何事かと唖然としている2人に見せるように左手に持っているトレイを出した。
「こちら、男女ペアで来店された方へのサービスです。アベック限定チョコレートシフォン! をどうぞ。ではごゆっくり。はばぁ、ないす、でぇいっ」
女性店員NPCはカチンと固まっているディグダムとイリーナを気にすることなく、テーブルセッティングを済ませると、笑いを漏らしているプレイヤーたちに手を振りながら去っていった。
「……アベックって、いつの時代の言葉だ? 」
「ぶはっ、ぶははっ。可笑しくて涙が出てきちゃった。笑い過ぎてお腹痛い。ーーこれだから、このゲーム好きなのよ」
イリーナは人目をはばからず、レストランのサプライズに声を上げて笑っている。確かにこのゲームのノリは少し可笑しいところがある。しかもSNSにNPCセリフ集のまとめが載るほど多い。
あの女性店員のおかげか、ディグダムの顔の赤みと心臓が破裂するかと思うほどのドキドキは引いたようだ。入れ替わりで運ばれてきたビールと料理に目を移して、待っていましたという風に両掌を擦り合わせている。いつも思うことだが、このゲームの料理の再現力は素晴らしい。
だし巻き卵を口に入れた時のふわっとした食感。そのままでもかなりイケるが、大根おろしと醤油を垂らして食べるとさらに格別な味になる。現実と変わらず、いや現実の世界のものよりも旨いんじゃないかと錯覚するほど箸が止まらない。
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ビールでのどを潤したディグダムがほっとしたような表情を浮かべた。イリーナも焼き鳥を美味しそうに食べていたのだが……急に思い出したように言葉を吐き出した。
「ねぇ、ディグ、ОLМにも書いたけどさ……。運営、酷くない? 」
「迷惑行為をした相手をブロックして対処してくれーーっていう返事の件か? 」
イリーナは自分たちの護衛クエストを受諾したザイガンの依頼者を無視した行為が許せなくて、ヘルプセンターでゲーム会社に通報をしていた。しかし……後日、メッセージアプリに届いた返事はテンプレートそのものような文章だった。
「そう! それだけなのよ。フレンドになってないから、ブロックなんて出来ないのに! そういうとこがこのゲームは甘いのよね」
鬱憤を晴らすかのように、イリーナは焼き鳥の串をバキっと半分に折った。さらに焼き枝豆を両手にもって口の中に押し出した後に、チョコレートシフォンにフォークを突き刺したーー。ぷぅと頬を膨らませる彼女に苦笑いしながら、ディグダムが大根サラダを2つの取り皿に分けている。
「冒険者ギルドがハンターの依頼不履行ってことで、違約金を払ってくれたから多少は救われたかな」
「それだって、雀の涙じゃん! 商会としては大損だよぉ」
イリーナがそう言うのも無理はない。魔具師ルードべキアと取り引き契約が成立していれば、大きな金を動かせたはずだった。それに比べたら確かに冒険者ギルトの賠償金は微々たるものだ。しかもルードべキアの信頼は今後、回復するかどうかも分からない。
ディグダムは職人ギルトから、萬屋商会に対してペナルティ通達が来るんじゃないかと不安を募らせていた。職人クラスプレイヤーの間でこの事件が囁かれるようになれば、萬屋商会は窮地に立たされるかもしれない。何よりも早く、ルードベキアの誤解を解くために、マキナと連絡を取りたいと思っていた。
「そうだな、確かに大損だ。ゲームを始めて以来のピンチに遭遇しているかもしれない……」
「マキナさんはログインしてないの? 」
「ログインする度に確認していたんだが、ずっとオフライン表示なんだよ。明日は大型アップデートが来るからログインするんじゃないかなーー会えたら、速攻で謝罪しにいくよ」
「うんうん。あたしも一緒に……って言いたいところなんだけどーー。ごめん、明日の午後から出張なんだ。しばらくログイン出来ないと思う。今日、会えてホントに良かったよ」
イリーナは焼き鳥のつくねとぼんじりをそれぞれの手に取って、交互にかぶりついた。幸せそうな笑みを浮かべて、もぐもぐ口を動かしている。現実世界の時刻は0時を回っているが、ゲームならばいくら食べても問題ない。それならば鳥皮となんこつも頼めば良かった。いや、いっそのこと、焼き鳥メニューのすべてを網羅するのもアリだ。
咀嚼しながら焼き鳥のことだけを考えていたというのに、なぜかポンッとザイガンがニヤニヤ笑っている顔が浮かんでしまった。忘れようとしているのに、嫌な思い出というのはなぜ、こうもしつこく脳内に留まろうとするのだろうか。焼き鳥を食べ終わってしまったイリーナは焼き枝豆の鞘を摘まんだ指に力を入れた。
「それにしても、あのシーフ……腹立つなぁ。迷惑料よこせってのっ」
「……もう終わったことだ。考えない方がいい」
「始まりの地から近いインデンにいる気がする」
「イリーナ……」
「ーーはぁい。もうお口チャックしますよ~だ」
迷惑料をザイガンに払って貰いたいとディグダムもちょっとは考えた。しかしどこにいるか見当もつかないし、見つけたとしても、話し合いよりも先に殴ってしまいそうだ。職人クラスがハンタークラスに喧嘩を売るという無謀なことは出来るだけ避けた方が良い。話題にはなるだろうが、つまらない意地で勝てる見込みがない相手と戦ってデスペナルティをくらうのはバカの極みだろう。
イリーナは納得がいかないという表情を浮かべて、もぐもぐと口を動かしている。ディグダムは少し困ったような顔をしながらメニューを開くと、和牛ヒレサイコロステーキ200グラムの注文ボタンを押した。
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