第35話 待ち合わせってドキドキしちゃうよね!
「坂上さん、これなんだけどーー」
「ごめんなさい、もう定時なので急ぎじゃなければ、明日お願いします! 」
パキラこと坂上莉子はそそくさと会社から退出すると、勢いよく電車に駆け込んだ。うんざりするようなぎゅうぎゅう詰めの車内を気にすることなく、窓から見える街の明かり眺めている。
ーー今日は14日だから、早めにログインしなきゃ。
やるリストをぽわんと思い浮かべているうちに、ミニミニパキラが満面の笑みを浮かべてぴょこっと現れた。今の莉子の心情を表すかのように、くるくると回って、ぴょんぴょんとジャンプしている。家路に向かう駅からの道のりも、いつもと違って景色が鮮やかに見えた。
気を許すと顔がふにゃっと緩んでしまいそうだった。目に力を入れてアニメに出てくる眉毛が太い教官のイメージを思い描いて、キリリとした表情で自宅の玄関の扉を開けた。
「姉ちゃん、お帰ーー」
「大吾、何? なんでそんな変な顔してんのよ」
「いや、だってさ。いかついおっさんみたいな顔してたから……」
「えっ。い、嫌だなぁ。そんなことないぞっと。はい、バレンタインのチョコ」
どうやら、キャラクターになりきりすぎていたようだ。弱々しく笑う弟にチョコレートを渡していると、リビングにいる母親から次々に声をかけられた。莉子はソファー前のテーブルに、父親のために買ってきた青い包みに白いリボンがついた箱を置いた。
「お母さん、ごめん。ご飯はいらないや、お風呂は後で! 」
「ええっ。今日は莉子の好きなビーフシチューなのよ? 」
「あっ。う、うう……。明日の朝、食べるからちょっとだけ、残して欲しいなぁ……なんてーーだめ? 」
「もう、しょうがないわね」
困ったような顔をしながらも、母親はガラスの保存容器に取り分け始めた。莉子は嬉しそうな笑顔を零しながら、自室に駆け込んだ。だぼだぼのスウェットに着替えながら、コンビニで買ってきたサンドウィッチにかぶりついている。忙しなくアイスコーヒーで流し込むように食べると、すぐにVRシンクロヘッドを手に取った。
「早すぎちゃったな……」
パキラは約束の50分も前にガロンディアの街にあるイベント会場に足を踏み入れていた。昨日手に入れたばかりのバレンタイン限定衣装セットに身を包み、軽やかにそして優雅に移動していたーーと思っていた。くすくすという笑い声に気付くまでは……。
ーー手足を同時に出していたぁああ! は、恥ずかしいぃぃぃ。どきどきが爆発しすぎるせいだわ。やっばい、めまいを起こしそう……。
炎竜が暴れているんじゃないかというぐらい身体中が熱かった。気を紛らわせようと思って、屋台の看板を眺めていると、正面から歩いてきたプレイヤーに変な顔をされてしまった。いつの間にか頬が緩んでニタニタ笑っていたようだ。
だが、そんなことはまったく気にならなかった。それくらいパキラは浮かれていた。
「約束の時間よりも早く来るかもしれないしぃ、時計塔に行こっかなっ」
待ち合わせ場所に指定した時計塔は会場入り口からショコラダンジョンのあるテントまで、真っすぐに伸びた大通りの中間付近にあった。パキラは大通りのセンターラインに沿って歩き、屋台の誘惑に負けないように等間隔で並んでいる植栽に目線を移した。
赤い花が、浮かれポンチなーーおっと失礼……。恋する乙女のパキラを盛り上げるように、鮮やかに咲いていた。すぐ傍らを可愛らしい2頭身の花の妖精が踊っている。よくあるエフェクトだが、パキラは応援されている気分になった。
「今日はなんでもキレイに見えちゃうなぁ」
人目をはばからず、ぐふっという笑いを漏らした後に、植栽の隙間に設置されている横に長い大きな掲示板の前で立ち止まった。適度に休みながら遊ぼうねっと書かれた公式萌えキャラアイドルらいなたんのポスターやショコラダンジョンの案内に関するチラシの他に、パーティ募集のメモが貼ってあった。
パキラはたくさんあるパーティ募集の項目の『彼女募集』と記載されたタイトルを流し読みして、ふふんと鼻を鳴らした。14日で切羽詰まっているのか、他にも同じようなものがあった。もちろん、下心がない純粋な募集も数多く貼られている。パキラが通り過ぎた後にやってきたプレイヤーは真剣な表情でメモを眺めていた。
このパーティ募集メモは、便利なパーティ検索機能がないこのゲームでは当たり前のやり方だった。メモを取って掲示板の傍らにいる募集受付NPCに、3ゴールドの手数料を払えば相手に連絡してもらえる。オーソドックスで古めかしい方法だというのに、攻撃力や運がアップするなどの冒険に役に立つバフが複数付与されるためか、プレイヤーからの評判はそんなに悪くないようだ。
「それにしても、バレンタイン当日なだけあって人が多いなぁ。ゲームのゴールデンタイムなったら、もっと増えるのかな」
人混みの間を縫って、パキラはなんとか時計台に到着したが、座れる場所は見当たらなかった。立ったまま、会場に入ってすぐに購入したアイスコーヒーのストローを咥えた。
「あれ? これリアルよりも美味しいかもっ。看板ちゃんと見てなかったな。どこのやつだろ」
チルドカップをくるりと回してプリントされている提供元を探してみるとーー。
「あ。いつも飲んでるやつだ……」
アイスコーヒーのスポンサーは毎日といっていいほど立ち寄るコンビニエンストアだった。場所が変わると味が違うように感じるらしい。いや、ウキウキワクワクエッセンスによって、さらに美味しくなっているのだろう。胸が高鳴って落ち着かないのか、バッグを開けてバレンタインチョコがちゃんと入っているか指差し確認している。
「えへへ。本命チョコを用意したのは何年ぶりだろ。今日はいっぱい、話をしたいなぁ」
パキラは推しフィルターが何枚もかかっているルードベキアを思い浮かべて、仲良く語り合う自分を想像した。空を見上げながらニヤニヤしていたのだが、急に顔を真っ赤にして眼前の何かを追い払い始めた。どうやら妄想が過激になりすぎたようだ。
そわそわと辺りを見渡しながら、簡単に乱れることがない髪の毛を気にしている。大きく深呼吸をしながら、時計塔の現実時間が表示されているアナログ時計に目を移した。
「そろそろ19時……。ものすごく楽しみだなぁ」
20分後。パキラはチルドカップに刺さっていたストローで渦巻きを描くようにくるくると回していた。しゃがんだまま左手の中にあるスマホの時刻をじっと眺め、じわっと浮かんだ涙を右手でごしごしと擦った。
ーードタキャンされたかな。ログインしてないし……。
さっきまでバラ色な世界だったというのに、真っ黒な沼に沈んでいくような気分だった。ポコンと浮かんできた泡が同じようなことがあった悲しい過去をさらけ出している。嫌な記憶に振り回されて、パキラはさらに落ち込んだ……。
「ちぇっ……いっつも上手くいかないんだよね」
面白くなさそうにつぶやき、右手で持っていたストローをぐしゃっぐしゃに握りつぶした。
「パキラさん、仕事が押して遅れました。すみません」
パキラは地面を監視するように見つめていた瞳をパッと上に向けた。待ち焦がれていたルードベキアが目の前にいると分かった途端に、真っ黒になってしまったバラが虹色に輝きだした。プレイヤーだらけの大通りは2人だけの世界に切り替わり、そこら中に桜の花が咲くエフェクトを感じた。
ぼうっと彼を見つめて……幸せな妄想に浸った後、パキラは何事もなかったように、すくっと立ち上がった。
「大丈夫です! ちょびっとだけ……すっぽかされちゃったかなと思いましたけど……」
「ええっと、カナデとスタンピートさんは……帰ってしまったのかな。すぐに謝罪メッセージをーー」
「あっ、ルードベキアさん、私から伝えるので大丈夫ですよ! えっと、その……お時間が大丈夫なら……一緒にショコラダンジョンに潜ってくれませんか? 」
ルードベキアは涙が滲んでいるパキラに気付いて、とても申し訳なく思っていたが……急に明るい声で喋り出し、上目づかいしている彼女に違和感を覚えた。しかも、ダンジョンに行こうと必死にルードベキアの袖を引っ張っている。
ーーこれは……カナデたちは最初から来る予定に入ってなかったな。くそっ、してやられた……。
だまし討ちをされたと気が付いたものの、事前にカナデに聞かなかった自分も悪かった。さらに遅刻したという後ろめたさが追い打ちをかけて、逃げるに逃げられなくなってしまった。同じような手口を現実世界での仕事仲間が使った話を聞いたことがあったが、まさか自分がされるとは……。
諦めに似た笑いをルードベキアが浮かべていると、いつのまにやら、パキラは彼の右腕に手を滑り込ませていた。距離感が近すぎることにルードベキアが困惑している一方で、パキラは女性から積極的に腕を組まれて嫌がる男性はいないと思っていた。
満面の笑みを浮かべながら、この日のためにカナデから聞き出して用意した話題を披露している。
「ーーそれで、うちの猫ったら目を離すとすぐに、ノートパソコンの上に乗っちゃうんですよ。画面に文字が連打されててびっくりしちゃいました」
「パキラさん、腕を離してーー」
「ルードベキアさんも猫好きなんですよね? うちの子はスコティッシュなんですよ。あ、よく見るとルードベキアさんって、ロシアンブルーみたいな雰囲気がありますよね! なんで? って言われると困っちゃうけどーー」
パキラは人の言葉を切ってまで、とめどなく流れ落ちる滝のように喋り続けていた。ルードベキアが隣にいることが嬉しくてたまらず、歯止めがきかなくなっている。彼のうんざりしたような顔はポジティブ変換によって『推しってばツンデレさんなんだからっ』に切り替わっていた。
「あ、そうだ。ルードベキアさんに渡したいものがあるんです……」
「いえ、何もいらなーー」
「この日のためにぃ、用意したんですっ。受け取って下さいっ! 」
「パキラさん、申し訳ないけどーー」
「これ美味しいって評判なんですよ! 」
目の光彩をハートにしたようなパキラがピンクのハート柄の包みに赤いリボンが付いた手のひらサイズの箱を、ルードベキアの顔の前に突き出している。ルードベキアは鼻から荒い息を吐き出している彼女にたじろいで身体をのけぞらした。
「あの、まじで遠慮しまーー」
「ゴリラのチョコなんです! 」
「え。ゴリラ? 」
視界の左から、ごりらがうほうほと胸を叩きながら歩いてきたかと思うと、カッコイイチョコレートになってどや顔をしている。ルードベキアはそんな想像をぽんと浮かべて、チョイスが渋いと思わず感心してしまった。だがパキラがトマトのように真っ赤になっているところを見ると、言い間違えのようだ。
「すみません。ゴニィナンのチョコです……」
「あ。ぁあ……。あのよく聞く老舗のやつ」
ルードベキアは断るつもりが、恥ずかしそうにうつむいたパキラが少し可哀そうになって受け取ってしまった。本当にゴリラ型のチョコレートだったら良かったのにと残念そうに見つめている。
ーー昨年、リアから貰ったチョコレートはラッコの顔だったな。
カナリアは自然保護協会が協賛している店で売っていたと言っていたが、きっと今年も絶滅危惧種募金のついでに買うのだろう。ルードベキアはぼんやりとそんなことを考えながら、賑わう大通りをショコラダンジョンのある大型テントに向かって歩いて行った。
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