第六話『弱い自分が頼れるものは』
「っ、いったい何があった⁉︎」
帰ろうとしていた俺だが、悲鳴を聞いて無視して帰れるほど図太い精神はしていない。くるりと振り返ると、声がした方を探してあちこちを見渡す。えーと、さっき声が聞こえてきたのは……?
「いやぁぁぁー!来ないでーー‼︎」
「あそこか……!」
2回目の悲鳴が聞こえ、俺はその方向を咄嗟に振り向く。……そして俺の目に入ったのは、複数の飛行生物から逃げ惑っている赤毛の少女だった。今のところなんとか追いつかれないではいるが、遠くから見ても足取りが明らかに怪しい。あのままではいずれ追いつかれてしまうだろう。俺が走って飛び込んで行っても、何か状況が変わるわけでもないが……
「おい魔物、こっちを見ろ‼︎」
……気がつけば、俺は少女の元へと走り寄りながらそう叫んでいた。少女を一心不乱に追っていた魔物達の視線が、一瞬にしてこちらに集中する。……背筋に、冷たいものが走った。
「……っ、追いついてみろよ!」
怖気付く心をどうにか奮い立たせ、俺は少女とは反対方向に走り出す。……頼む、俺の方を追ってきてくれ……!
「……来た来た来たぁっ‼︎」
幸い、魔物のヘイトは完全にこちらに向いたようだ。まぁ追いかけていた獲物を守るように入ってきたんだ、不快に思うのも当然か。……幸い、まだ群れとは距離がある。今のうちに、図鑑から情報を……!
魔物から視線を外さないように後ろ走りしつつ、俺はページをペラペラとめくる。さっきのキバブタの時といい少し乱暴な扱いになってしまっているが、緊急事態ということで許してほしい。
あとで手入れはちゃんとするから、と図鑑に語りかけつつ、俺は『マルデロ平原の生態系』と書かれたページを開く。これはさっきキバブタを調べた時にたまたま見つけたもので、この平原に住む魔物や動物、植物の情報が一目でわかるように整理されている優れものだ。魔物の欄に比べると一体一体への掘り下げは少ないが、それでもこうやって冒険者として対峙するには十分すぎる。
「ええと、アイツはなんだ……?」
視線を図鑑と魔物の間で往復させつつ、俺は図鑑を流し読みする。小型で群れを作る鳥型の生物がまさか特別な種なわけがない。確実に普段からここに住み着いているはず。なら、絶対にこの中に答えはあるはずで…
「……っあった、『キヘイドリ』!」
追ってきている奴らに似た絵を見つけ出し、俺はそう叫んだ。あたりをつけた通り、ここら辺に群れで暮らす魔物のようだ。基本的には平穏な生活を好むが、自分たちの領域を侵すものには容赦なく攻撃を加える……
「って、ん?」
今、何かが頭の中に引っかかったような……
『ピィヤァァァッ!』
「……いや、今はそんな場合じゃねぇ!」
違和感がふと脳裏をよぎったが、それを考えるのは後回しだ。俺にターゲットが移った以上、どう凌ぐかを考えないと…‼︎
魔法でなんとか足止めするか?いや、さっきのキバブタのことを考えろ!なら走って逃げる?…無理だ、あっちの方が圧倒的に速い!くそ、後先考えずに飛び出したのがここにきてキッツイことになってやがる……!
図鑑を抱えて必死に走りながらアイデアを探すが、どれもこれも決定打には程遠い。…そして、シンキングタイムは無限ではないのだ。
『ピィヤァァァァァーッ‼︎』
「やべっ、もう距離が…!」
かなりあったはずの距離はもはや数メートルほどにまで縮まり、キヘイドリの群れは翼を広げて高らかに鳴き声を上げた。その姿は想像してたよりも一回り二回り大きく、襲い掛かられればタダでは済まないことが容易に想像できる。……というかこれ、命の危険まであるんじゃないか……⁉
「くそっ、何か、何かやれることは…‼︎」
脳内をひっくり返して使えそうな知識を探すも、ここはまだ降り立って半日も経っていないくらいの異世界だ。知らないことだらけの世界で、こんな無茶なんてするもんじゃなかったらしい。そんなぼんやりとした後悔が浮かんでくる中、キヘイドリは俺に向かって一斉に飛び込もうとして……
「……炎よ、お願いっ‼︎」
……横合いから突然飛んできた炎の弾丸に驚き、その動きを止めた。バレーボール大のそれは、魔物を足止めさせるには十分だったらしい。……だけど、一体誰が……?
「今のうちに、ほら!」
状況を飲み込まずに俺が立ち尽くしていると、いきなり後ろからその手を取られる。声の主は、魔法を使ったのと同じ人物らしかった。その手に引かれるままに振り向くと、そこに立っていたのは赤毛の少女。……俺がヘイトを買う前に、キヘイドリに追われていた人物だった。
「どうして…!」
結局逃げ切ることはできなかったが、そこそこの時間は稼いだはずだ。その間に、いくらでも逃げることはできただろうに……
「どうしてって、当たり前でしょ⁉︎見ず知らずの人に助けられて、そのまま逃げ帰るなんてダッサいこと出来るわけないじゃない!後で犠牲者一名とか、そんな寝覚めの悪くなるニュースも聞きたくないの!」
戸惑いを隠しきれない俺に、少女が怒ったようにまくし立てる。……要約すれば、俺の身を案じて残ってくれていたらしい。すごく回りくどい言い方ではあったが、それでも明確にわかった。……こんな状況だってのに、俺の口から笑みがこぼれる。
「……優しいんだな」
「アンタ話聞いてた⁉︎あくまでこれは自分のため!後で思い返して嫌な気分になるくらいなら今ここで共倒れした方がまだマシよ!」
俺がそう言うと少女は顔を真っ赤にしながらそう反論する。素直になりきれない性格なのかな、なんて思いながらも、付け加えられた言葉に背筋が冷えた。
「共倒れは……ごめんだけどな」
しかし、それが今のところ一番あり得る可能性だ。このまま逃げてもスピードで負ける俺たちはいつか追いつかれるし、そうなった時に無事でいられる保証はない。魔法でのこけおどしだって、一体いつまで通用することか。
「こっちだってそんなの勘弁よ!だから、なんとかしてアイツらをどうにかしないといけないんだけど……」
そこまで言って、少女が口ごもる。それは、ここまで気丈に振る舞っていた彼女が初めて弱気をのぞかせた瞬間だった。
「父さんに憧れて冒険者になろうって決めて、ようやくここまでこぎつけたのに。……やっぱりあたしじゃ、ダメだっての……?」
一度こぼれた弱気は止まらず、それに引っ張られるようにして足取りも重くなる。……それを責めることは、俺にはできなかった。
どうにかしないといけないのは分かっている。だけど、もう打ち止めだ。俺の知識も、彼女の魔法も届かなかった。……それは、純然たる事実なのだから。
足取りはどんどん重くなり、ついには止まる。俺たちは、ただぼんやりと草原に立ち尽くしてーー
ーーパタリと、図鑑が小脇から落ちた。
「……‼︎」
それを見て、俺の中で何かが弾ける。そして、今までの自分の馬鹿さ加減に内心頭を抱えた。
自分の知識ではどうにもならず、武力も足りない。……そういう時こそ、図鑑の出番だというのに。死の恐怖のあまりそれを忘れるなど、図鑑オタクとしてあってはならない事だった。ここまできてやっと、思い出せた。
「……なぁ、少し賭けに出る気はないか?」
「……賭け?」
俺はゆったりとかがんで図鑑を拾いながら、少女に語りかける。俺よりも後ろにいるため少女の表情は見えなかったが、その声は弱々しく震えていた。……そりゃそうだろう。何もかも通じず、今にも魔物に襲われる直前なのだから。俺だって、本音を言えば怖い。うっかりすればちびりそうなくらいにはビビりまくってる。……だけど、不思議と俺の心は落ち着いていた。だってーー
「……俺が、あの魔物の弱点を探す。……時間稼ぎに、付き合ってくれるか?」
ーー俺の持つ全てが魔物に敗北しても、図鑑はまだ敗北していないのだから。道標は、まだ確かにちゃんと輝いている。それが分かっている限り、大丈夫だ。まだ、やれる。俺の心は、折れないでいられる。
剣も魔法も使えなくても、知識だけは皆が使えるから。図鑑とは、弱い俺たちがそれでも生き抜くために作られた、知識の結晶なのだから。……それは異世界でも変わらないと、俺はそう信じている。
「まだ、何も終わっちゃいない。一世一代の大勝負と行こうぜ」
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