第一話『好きなものに囲まれて』

――俺、花谷大翔は世にいうオタクだと自覚している。それも重度の。つける薬がないくらいの。



「はあ……やっぱりこの重さがたまんねえんだよなあ……」



 俺は図書館の椅子に腰かけ、図鑑を膝の上に乗せながらうっとりとしていた。



――あいや、引かないでほしい。というか引かないでくれ頼むから。確かに客観的に説明すると「うわあ」って言われても仕方ない絵面だと思うけど。俺もそれを自覚しているからこそ隅っこに腰かけているのだけど。



 図鑑というのは、情報の宝庫だ。古今東西あらゆるジャンルの情報が紙の上に集約され、そこには世界のすべてがあるといったって過言じゃない。膝の上にのせてみれば、そこはもう世界が広がっている。……膝に伝わる重みに、そんな感動を覚えるのだ。



 友人は『スマホの方がすべて乗ってる』とかいうが、そういう問題じゃないのだ。紙という区切られた空間の中に世界の断片が刻まれ、ページをめくるごとにその世界は断片的に俺のもとへと届く。同じ調べるという行為でも、図鑑とスマートフォンでは大幅な差があるのだ。目的の情報に出会う前に寄り道するのも簡単だしな。



 まあつまり、俺にとって図鑑というのは心のオアシス。出会うたびに心に新しい感慨をもたらしてくれる、言ってしまえば食事のようなものなのだ。そう熱弁するたびに、大げさだと呆れられてしまうのだが。大半の人間に言わせてしまえば、俺は変人のカテゴリーに分類されるらしい。



 普段はそれほど気にしていないのだが、前に「ママ―、あの人変な顔してるー!」なんてすれ違った子供に言われた時にはさすがに心に来た。まさか漫画とかでよく見かけるあれがこんなにも堪えるものだったとはな……もちろん、「しっ、見ちゃいけません!」って止める母親の言葉までセットだ。



 いやどうみたって図鑑読んでるだけだろ。なんなら子供に見習わせるべき姿ですらあると思うのだが。……あいや、俺みたいになるのは非推奨か。どうか只の図鑑好きでとどまってくれよ、幼い子供たちよ。



 ……とまあ、そんなことがあってからはこうやって奥まった椅子に座っているのだが。…………それが、とんでもない不運につながるとは思っていなかった。



「あ、ここの表記変わってる……いつの間に改定入ったんだ」



 かすかに表現が変わった個所を見つけて、俺はほおを緩める。これが意外と面白いのだ。たとえるならば、年単位越しの間違い探しをしているような――って、それは鬼畜ゲーが過ぎると思うが。なんにせよ、そういう変化を見るのは楽しい、だから、ついつい夢中になってしまう。……それが俺の気質で、だからこそ。



『火事だ―――――っ‼』



 その声が俺の耳に届いたときには、もう手遅れだった。



「は……火事……?」



 誰かの叫び声にふと我に返り、視界を図鑑から外して周りを見渡す。……すると、数十メートル先に炎の壁ができているのが見えた。……そしてそこは、唯一外につながる通路で。



 ……つまり、逃げるのがほぼ不可能ということだった。



「……おいおいおい、ちょっと待てよ……」



 頭を抱える。気が付けば煙はすぐそこに迫っていて、俺はすぐさま体勢を変えた。防災について記してある図鑑だって少なからずあるからな、そこらへんはしっかり記憶済みだ。……もっとも、『炎の壁を突破する方法』なんてのが書かれた図鑑はいくら何でもないわけだが。



「ゴホッ……やべ、息、が……」



 通気性が悪いからか、煙はすぐさま俺のもとにも届く。ごまかしようのないくらいに火事は深刻になっていて、意識がかすむ感覚を味わった。――図鑑でさんざん言われてた一酸化中毒だけど、こうやって体験するのは初めてだな……



 だんだん意識が薄れてきた。頭が痛い。もう音もほとんど聞こえない。ふらふらと足を動かすが、どこに向かっているのかももうわからない。たぶん、意味もない。



 そんな風にふらついていると、ミシッという嫌な音が響いた。耳が遠くなってきている俺にも聞こえるくらい、明確に。その音がした方向を、どうにか振り向いて……



「…………あはっ」



 俺は笑った。絶望からの乾いた笑み――などではない。あるいは強がりと、そういうべきなのかもしれないが。……だけど、俺はあえて断言する。俺は、心から笑えていた。なぜなら――



 俺の方に向かって、図鑑がたっぷり収納された本棚が倒れこんできていたのだから。



 図鑑が、俺の大好きなものが、俺に向かって降ってくる。俺の終わりは、大好きなものによってもたらされる。降ってくる図鑑の一冊一冊が、それにまつわる思い出が、明確に思い出されて――



 『こんな終わりなら、まあ悪くないんじゃね?』……と、そう思ったのが最後だった。



  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



『…………目覚めよ……』



 ……ふと、声が聞こえる。聞いたことがあるような、でも聞いたことがないような、しわがれた声。言ってしまえば、『老人』というテンプレートにはまりまくったような声だ。



『目覚めよ……』



 そいつはやたらと俺を起こそうとしてくる。……何か忘れている気がするが、仕方がない。その声に従って、俺は目を開いて――



「…………え、誰?」



 目の前にいた見知らぬ老人に、俺は思わずそう声をかけた。……いや、ほんとに誰だ?



『……目覚めたか、花谷大翔』



 戸惑う俺に、目の前の老人は声色を変えずに声をかける。……え、なんで俺の名前知ってるんだ?


「……あの、なんで俺のこと……」



『…………そなたに、問わねばならぬことがある』



 こちらの問いをガン無視して、老人は俺に質問しようとする。……耳が悪いのか?



「あの!あなたは――」


『…………そなた、異世界に興味はないか?』




 …………今なんて?




「……異世界?」


『そうだ。そなたには異世界へと転生する資格がある。故に、私がこうしてそなたに直々に声をかけに来たのだからな』




 突拍子もなく出てきたそのワードに、俺はオウム返しすることしかできない。……だが、その問いに対する返答で、ようやく一つ思い当たることがあった。人の話を聞かなくて、異世界とか言い出して、そういうそれっぽい姿の老人。つまり――



「あ、うち無宗教なんで……」


『そなた、凄まじい勘違いをしておるな⁉』



 くるりと振り返る俺に対し、老人は素っ頓狂な声を上げる。この程度の対応で焦るあたり、この人は勧誘し慣れていないのかもしれない。



「いやだってそうとしか思えないじゃん。そうじゃないって反論できるならしてみろよ……」


『すさまじい強気じゃな⁉ そなた、自分の身に何があったのかを覚えてはいないのか!』



 肩口をひっつかんで引き留めてくる老人を払いのけようとすると、老人はそう叫んだ。……何がって、俺は図書館にいて、それで……



「…………俺、死んだんじゃねえの……?」



 そうだ。俺は火事に巻き込まれて、本棚に押しつぶされて――



『そうだ、そなたは死んだ。…………だが、そなたには命をやり直す権利がある』


「……やり直す……?」



 命は一つだ。図鑑に載るまでもない当たり前の事実なのに、こいつは何を言っている……?



『そなたの魂は特別だと、私はそう判断した。故に、地球ではない別の世界で、もう一度そなたは生きなおすことができる』



 特別……ねえ。



「俺、なんかしたわけでもねえぞ?」


『いや、私の基準では特別に当たるのだ。『大切なものに囲まれて死んだ』という、その特異性が原因だがな』



 確かに、俺は図鑑に囲まれて死んだ。そんな死に方なら悪くないと、そう思ったものだが――



『何かへの思いが強い人間というのはそれだけで特別だ。その思いの力は、今までに何度も変革を生んできたからな』



 なるほどな……好きなものへの思いの強さなら、確かに誰にも負けない自信がある。



「理解はできないけど、一応納得はした。……それじゃあ、なんで一回俺をここに呼んだんだ?」



 生きなおさせるにしたって、異世界に送ってからそこら辺の説明をしてもよさそうなものだ。それをわざわざこんななにもねえ場所に一旦呼んだのだから、何か意図があるはずで――



『それに関しては単純だ。……そなたに、力を与えたい』



「……力?」


『そうだ。今から送る世界は少し危険性も孕んでいてな、丸腰で送ると一週間も保たないケースがよくあるのだ。……それを避けるために、転生者には少しばかり強めの力を与えることにしている』



 なるほど。えっとあれだ、確か友達が言ってた……



「異世界チート、ってやつか」


『……まあ、その認識で正しい。……さあ、何を望む?』



 少し神妙に、老人は問う。普通の人だったら悩むところなのだろうが、俺が異世界に何か持っていけるとしたら、返すべき答えは一つだ。





「じゃあ、俺のために図鑑を作ってくれよ。それも転生先の情報が一冊にギュッとまとめられてるような、大ボリュームなヤツをさ」




『なるほど、図鑑……図鑑?』



 オウム返しをしようとして、老人は素っ頓狂な声を上げた。



「ああ、そうだよ。俺が好きなの、知ってるだろ?」



 というか、神様が俺に目を付けたのは図鑑に囲まれて死んだということに執着心を見出したからなわけで。それを知ったうえでこの狼狽えようは、少々オタクの熱量を甘く見過ぎているとしか思えなかった。



『いや、そうだが……もっとこう、聖剣とか無限の魔力とか、そんな感じの――』



「いらねえ。図鑑がいい」



『お主は正気か⁉ 何の力も持たずに、本当に後悔しないのだな⁉』



 慌てたような態度で、老人は何度も質問してくる。……正直、しつこかった。



「神様お手製の図鑑がもらえるチャンスなんだぜ? 俺が見逃すわけがねえだろ。特典も決まったことだし、早く次の段階に行かないか?」



『人が善意で聞き直しているのにそう急かすでない!……まあいい、では私が編んだ図鑑とともにそなたを異世界へ送ろう。……一応、私との繋がりは残しておく。困ったことがあれば呼ぶといい。図鑑だけではままならぬことがあってはいけないからな』



「ああ、ありがたいよ。……それじゃ、頼む」



 そう言うと、神は頷いてこちらに手を向ける。すると、俺の周囲が光に包まれて――



『神の名においてこの魂に導きを……そして、幸運があらんことを』



 その言葉を最後に、俺の意識は再び途切れた。

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