3.黒猫を追いかけて
「お萩?」
卯月がその名を呼ぶと、黒猫は動き出した。ひょいひょいと身軽な動作で跳ねていき、下り坂の途中にある小高い丘へと続く脇道を登っていく。そして、その途中で立ち止まると、くるりと卯月を振り返った。
奇しくも、お萩によく似たその黒猫が逃げた先は、卯月が向かおうとしている場所だった。恐る恐る歩みだすと、黒猫はしばらくじっと卯月を見つめて座っていた。
まるで導いているようだ。
そう思うのは気のせいだろうか。
ある程度近づいてくと、黒猫は逃げるようにその先へと進んでいく。辺りは舗装も疎かな一本道だ。進んだ先にもまた墓場が広がっている。しかし、獣ならば道を外れて丘を登り、茂みの向こうへと去っていくことも出来るだろう。身軽な猫ならば尚更だ。しかし、黒猫はそうしなかった。人の歩む道をただ進み、ある程度距離を離したところでやっぱり卯月を振り返るのだ。
「案内しているのかな」
卯月が呟くと足元でタマの小さな笑い声が聞こえてきた。
「さあ、どうだろうね。ついて行ってみるといい」
妙に楽しそうな彼女の言葉に背中を押され、卯月はその黒猫を追いかけた。
お萩かどうかはまだ分からない。しかし、その特徴はお萩によく似ていた。まず尻尾がない。それに、お面を外していた時には見えなかったことから考えて、普通の黒猫ではないことは確かだ。
あれはやはりお萩ではないのだろうか。
ついて行った先はいったいどこだろう。
考えているうちに、黒猫は道を進んでいった。ついて行った先に現れたのは、もともと卯月が向かう予定だった場所だった。階段を降りた先の下り坂の途中で、猫はまたしても待っている。
「お萩……だよね?」
呼びかけると黒猫はじっと卯月を見つめてきた。
だが、答えたりはせずに後ろ足で頬を掻き始めた。その仕草は普通の猫だ。道端で出会う普通の猫たちと何も変わらない。
「本当にお萩なのかな」
疑う卯月に対し、足元からタマは囁いた。
「さてね。お前さんはどうあって欲しい?」
「どうって……どういう意味です?」
「お萩であってほしいのか、そうでないのか」
タマに訊ねられたその意図がよく分からず、卯月はしばし黙してしまった。けれど、少しだけ考えてから、卯月は静かに答えた。
「そうですね。私は……お萩であって欲しいのかもしれません」
ただの黒猫なのか。お萩なのか。
お面越しに見えたから特別な猫である。そう思った卯月だが、それは本当だろうかと卯月はふと考えてしまった。単に気づかなかっただけで、ずっとあの場所にいたのかもしれない。導いているように感じたのも気のせいかもしれない。猫はただの近所の猫で、道なりに進んでいるだけだったのかもしれない。尻尾がないのも元々そういう猫であって、卯月との戦いとは全く関係がないのかもしれない。
全ては偶然。そうでないことを証明できるだろうか。
卯月は静かに考えて、心の中で静かに首を横に振った。
「気のせいなのかもしれませんね」
少しだけ寂しさを覚えながらそう言うと、タマは小さく言った。
「まだ判断するのは早いぞ。もう少し近づいてみたらどうだ?」
そう言われ、卯月は恐る恐る近づいてみた。
卯月が歩みだすと、黒猫は待っていたかのように再び立ち上がった。そして、しばらく下り坂を進んでいった。
そのままずっと真っすぐ行くようならば、相手はただの猫である。しかし、途中で曲がったりしたらどうだろう。卯月が花を手向ける予定の女性の墓は、下り坂の途中にある。坂の途中にある水道を目印に左へと曲がって行けばあるのだと八子が教えてくれたのだ。
目印の水道はすでに見えている。そこに向かって黒猫は小走りに進んでいく。
──どうせそのまま真っすぐ行くに違いない。
卯月はそう思った。
あれがお萩だったらいいのに、というのは単なる卯月の願いであると分かっていた。願いならば願いとして抱いていたっていいとも思うのだが、卯月は怖かったのだ。期待をして、それを裏切られる辛さを、他ならぬお萩との対立の中で卯月はこれでもかというほど味わってしまった。だから、願うと共に期待を持ってしまうことが怖かったのだ。
それでも、黒猫が水道のある場所にたどり着いた時には、卯月は妙に緊張してしまった。期待していないなんて自分で思っていながらも、どこかで期待を捨てられなかったのだろう。そして、その黒猫が水道のある場所で、急に方向転換をした際には目を見開いてしまった。
曲がった。
それも、左へ。
卯月は思わず駆けだした。坂に足を取られそうになりながらも、水道を目指して走り、そして、黒猫の曲がっていったはずの場所を覗いた。
「お萩!」
違ったっていい。猫違いだとしても、何も恥ずかしい事なんてない。それよりも、卯月は相手がお萩であるならば、もう一度会いたかった。会ってどうするのかと問われれば、明確な答えはすぐに見つからない。しかし、とにかくその姿をもう一度見て、安心したかったのだ。
何に安心したいのだろう。
卯月はふと考えた。
お萩の魂が安らかであることを確認したかったのだろうか。もう苦しんでもなく、悲しんでもない。憎んでもいないお萩の姿をその目でしっかりと見たかったのだろうか。
では、それは何のためだろう。
ただの自己満足かもしれない。自分がやったことは間違いでなく、お萩の為になったのだという事を確認することで、自分を納得させたいだけだったのかもしれない。卯月は素直にそう思った。
しかし、理由がどうであれ、答えはすぐに見つからなかった。
「いない……」
墓の立ち並ぶその小さな道もまた一本道である。猫が誰かの家の墓へと隠れたのだとしても、全く姿が見えないなんてことはあるだろうか。だが、確かにそこには誰もいなかった。生き物の気配一つない。まるで忽然と消えてしまったかのようだった。
虫すら飛んでいないその寂しい雰囲気に、卯月はすっかり戸惑ってしまった。そんな卯月の足元より、タマは声をかけた。
「ほら、見えるか。八子様の言っておった家の墓だ」
そう言われ、卯月はすぐに気づいた。
八子様に言われた通りの名前の墓誌が見える。黒味の強いその色の墓は、道の右側にあり、眺めの良い景色に向かって建てられていた。
来てしまった。
卯月は緊張しながら墓へと近づいていった。そして、八子から教えられた名前が、墓誌に刻まれていることを確認した。
──間違いない。
日付も聞いた通り。二十代半ばという年齢もだいたい合っている。ここで間違いないようだ。そうと分かると、卯月はすぐに預かってきた思い草を手向けようとした。そして、何処に置こうかときょろきょろ見渡した際に、香炉と水鉢の間に置かれていたものに気づいたのだった。
──あれ……。
それは、思い草だった。
卯月が八子に持たされたものと同じものが既に手向けられていた。
──一体誰が。
首を傾げたその時、卯月の視界の端に何かが移り込んだ。走り去る子どものような影に、一瞬だけドキッとしてしまう。しかし、すぐに卯月は我に返り、影の見えた場所を確認しようと覗き込んだ。
先ほど通ってきた小さな道から水道の方角へ、まっすぐ駆けて行く子どもの姿がそこにあった。その後ろ姿を見て、卯月はハッとした。
「……トキサメ様」
タマの呟きが聞こえ、卯月もまた息を飲んだ。
時雨童女だ。間違いない。前に見た時とはまた違うその辺りで見かける園児と変わらぬ服装だった。周囲に家族でもいれば、そこの家の子だと思ったくらいだろう。しかし、そうでないと卯月は知っていた。
しばらく走ると時雨童女は卯月を振り返った。神出鬼没の彼女に対し、あまり恐ろしさを感じないのは、その顔に浮かぶ朗らかな笑みのせいかもしれない。そんな温かな笑みを今回も向けてきたのだが、その姿に卯月は目を奪われてしまった。
──お萩……。
その腕に、先ほどの黒猫が抱かれていたのだ。
時雨童女は愛おしそうに黒猫を抱きかかえ、無邪気な笑みを卯月に向ける。そして、その笑みを崩さぬままに忽然と消えてしまった。
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