12章 墓参りの夕暮れ

1.あれからしばらく経って

 卯月が幻覚に悩まされることがなくなってから、あっという間に月日は経った。お萩との決着から数えても、三か月近くは経っていた。季節は巡り、初夏からあっという間に初秋へと移り変わっていた。

 お萩が骨となって消えて以来、この時雨原では死亡事故がぴたりと止んだ。新しい脅威もなく、ただただ平穏な日々が続いている。そんな中にあっても、しばらくの間は相変わらず大人も子どもも面白おかしく都市伝説を語り合ったものだった。

 しかし、人の噂も七十五日という言葉の通り、その噂の勢いも段々と薄れていった。事故も起きなくなり、化け猫を目撃する人もいなくなり、新しい噂が生まれなくなったためだろう。そうこうしているうちに学生たちは長期休暇を挟み、いつの間にか化け猫騒動のことを忘れてしまうものも増えてしまった。

 そして、秋の足音が近づいて来る頃には、もうすっかり平和な町に戻っていた。

 卯月はそんな時雨原を歩いていた。

 向かうはその東の果て。時雨神社からだいぶ歩いた先へと向かっていた。手には摘んだばかりの花が握られていた。思い草と呼ばれるその花は、時雨神社にて八子に持たされたものだった。

 ──このお花を手向けて欲しいの。

 そう言った八子の表情は切なげだった。

 卯月はその顔を思い浮かべながら、平和になった時雨原を歩き続けた。

「皆、忘れちゃったのかな……」

 長期休みが明けて、久しぶりの学校で耳にしたのはどのように過ごしたのかという話ばかりだった。賑わうのは当然かもしれないが、誰一人としてかつての化け猫騒動について語っていないことを卯月は少しだけ寂しく思ってしまった。

「覚えておかねばならないわけでもない」

 卯月の脳裏にその声が響く。

 影の中に潜む、タマの声だった。

「感じるだろう。何処を歩いていても、今の時雨原はとても穏やかな空気に溢れている。トキサメ様が歩んだ場所だけでなく、そもそも穢れが少ないのだろう。時が過ぎれば恐怖だけでなく、怒りも恨みも悲しみも薄れていくものなのだ。人々が化け猫騒動に怯えた心が薄れたお陰で今の澄んだ空気がある。良い事だ。良い事だ」

 ひとりで納得したようなタマの言葉に耳を傾けつつ、卯月はそれでも少しだけ憂鬱な気持ちになってしまった。

 知っているのは自分たちだけ。タマと八子を除けば、自分だけだ。お萩の悲しみや感情と向き合った者は他にいない。この気持ちを分かち合える生きた仲間がいないことに、卯月は少しだけ孤独を感じてしまった。

 だが、そんな卯月を寂しくさせないのが、常に傍にいるタマの気配だった。

「お前さんのお陰だよ。あたしらだけではどうにもならなかっただろう」

 囁く彼女の声に、卯月は少しだけ揶揄うように囁き返した。

「私が断っていたらどうなっていたでしょうね?」

「さあね。どうなっていただろうね。一応、それでも最善は尽くしただろうさ。近隣にも土地神はいて、その土地の協力者がいるところもあるからね。彼らの手が空いていたならば、土下座でも何でもして来てもらっていたかもしれない。しかし、来てくれるとは限らない。彼らも暇とは限らないし、そもそも手伝ってくれる者ばかりじゃないからね」

 もし、誰も来なかったならば、今もなお化け猫の噂は耐えていなかったかもしれない。

 卯月は少しだけ、早くも記憶から薄れつつあるお萩の姿を思い出した。

 協力を要請されたあの時に、もしも自分が断っていたら、今もまたお萩は苦しんでいたのだろうか。そう思うと卯月はつくづく「猫ノ手」を受け取って良かったと感じたのだ。それに、受け取っていなかったら、自分自身も今やすっかり忘れかけているあの悩み──幻覚症状に苦しみ続けていたかもしれない。

「協力して良かった」

 卯月は静かに呟いて、歩き続けた。

 抱えているのは八子に持たされた小さな花束である。神社に生えていた思い草は、秋の訪れだけでなく「追憶」を意味するという。花屋で買ったものでなくていいのかと問いそうになった卯月だったが、その草花の意味を聞かされると、そこに神社から動くことの出来ない八子の想いが詰まっていることに気づかされ、黙って運ぶこととなった。

 向かう先は、市営墓地である。時雨原と隣町との境に位置するそこは、朝日が良く見えるとても静かな丘だった。卯月の家の墓がある場所でもあるが、この度に向かうのは卯月の家の墓ではない。知っている人物の墓とは言えるが、生前に親交のあった人物というわけでもない。そのために、卯月はやや緊張しながら墓地へと向かっていた。

「緊張しているのか?」

 不意に足元からタマに訊ねられ、卯月は問い返した。

「分かりますか?」

 すると、くすくすと愛らしい笑い声を漏らしてからタマは答えた。

「何度も溜息を吐いておるからね。そういうものなのか。墓参りというのは」

「そうですね……やっぱり縁もゆかりもなかった人のお墓ですし……。知らない人の家にお邪魔するような緊張があります」

「家か。なるほど、死者の家であるのは間違いないな」

 タマに納得してもらったところで、卯月は深呼吸を挟んだ。

 向かう先で眠っている人物。それは、お萩の飼い主の女性である。卯月とタマが目撃した記憶を手掛かりに、八子が探り当てたのだ。親兄弟は生きているようだが、皆、多忙でそう頻繁に手を合わせに来ているわけでもないらしい。ゆえに鉢合わせる心配もないだろうということで、卯月はこっそり向かっていた。

 思い草を手向け、手を合わせたら帰るだけ。何も悪い事をするわけではないはずなのに、妙にドキドキしてしまうのは何故だろう。そんな事を考えつつ、卯月は歩いた。歩きながら、八子が教えてくれた彼女の話もまた思い出していた。

「本当に彼を愛していたんですね」

 卯月は言った。

「彼と、そしてお萩と一緒に、新しい家庭を築くことを夢見ていた。それがあんな事になってしまって──」

 取り残されたお萩は可哀想だ。しかし、愛していたはずの猫の事さえ考えられなくなるくらい、彼女は追い込まれていたのだろう。

 ──極悪人がいたわけではないの。ただ誰も彼も少しずつ弱い部分があっただけ。

 八子はそう言った。自ら命を絶った女性も、その女性を思い悩ませた恋人も、二人の関係に割って入れなかった周囲の人々も、皆それぞれ不完全だった。その不完全さこそが生き物なのだと八子は卯月たちに説いた。

「大人って難しいんですね」

 思い出しながら卯月がぽつりとそう呟くと、すぐにタマが反応した。

「難しいか?」

「はい……だって、幸せになるために恋をするはずなのに、あんなことになっちゃうなんて。お萩まで不幸になってしまって、彼も死んでしまって……。じゃあ、どうしたらそうならずに済んだんだろうって考えると、私にはやっぱり明確な答えが見つからないんです。たぶん、お互いの為に早く別れれば良かったなんて簡単に言えたことじゃないのだろうし。だから、難しいなって」

「そうだな、難しい話だな。あたしにも分からないよ。あたしは猫だからね。人間の恋は分からないのだ。猫の恋は刹那的だ。激しいかもしれないが、その分、さっぱりとしたものだ。少なくとも相手との関係に悩んで死に追いやられるなんてことはないだろう」

「……猫ってなんかいいですね」

 思ったままにそう言う卯月を、タマは軽く咎めた。

「これ、安易に羨むもんじゃない。羨ましいほど単純かもしれないが、その分、猫の暮らしは過酷だぞ。関わる人間次第で運命は大きく変わる。それこそお萩のように。人間は人間の社会でしっかり守られておろう。だが、それこそが思い悩む要因の一つなのかもしれんね。他の獣と違って、存分に思い悩む時間が許されている。許されている分だけ、新たな苦しみもまた生まれてしまうのだろう」

 タマの言葉を静かに聞きながら、卯月は歩き続けた。

 そして、時雨神社からだいぶ歩き、足がそろそろ疲れてきたという時になった頃、ようやく卯月の視界に市営墓地の入り口が見えてきた。

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