4.猫には猫の意思がある

 タマが全てを語り終えると、辺りは少しの間だけ静寂に包まれた。

 訊ねてみたいことはたくさんあった。けれど、しんとしたその空気を壊してしまうことに戸惑い、卯月はなかなか口を開けなかった。

 そうしているうちに、タマの方がぽつりと言葉を続けた。

「あたしは……何に怒っていたのだろう。今となっては疑問に思う。けれど、冷静になることは出来なかった。燃え広がった炎がなかなか消えないように、あたしの心もなかなか鎮まらなかった。怒りに身を任せているうちに、怒りの対象は広がっていった。あの時のあたしには、この地の人々の全てが敵に見えた。けれど、敵をいくら殺したとしても、あたしの心の苦しみは消えなかった」

 淡々としたその語りに、ようやく卯月の戸惑いは薄れ、訊ねることが出来た。

「今は……どうなんですか? 今も苦しい時はありますか?」

 すると、タマはじっと卯月を見つめ、口元に微笑を浮かべた。

「今は苦しくないよ。あの頃のあたしに宿っていた溢れんばかりの負の感情は、全て八子様に断ち切られたのだ」

「じゃあ、何も感じないのですか?」

 卯月が訊ねると、タマは軽く首を傾げながら答えた。

「今のあたしにだって心はあるだろう。でなければ、お前さんとの会話を楽しいと思う事もない。けれど、だとしても、かつてのような生き物として、そして化け物としての猫らしい心はなくなってしまったのかもしれない。今のあたしの役目は八子様の手助けをすること。それだけのために存在しているのだよ」

 生き物として、化け物として。

 その言葉を反芻しながら、卯月は考えた。

 感情に囚われてしまうということは、死んだ者たちも同じなのだろうか。しかし、その感情を断ち切られて生きていた頃のような心を失うというのも、まさに今を生きている卯月にしてみれば、少々怖いような気もした。

「懐かしいって思いませんか?」

 卯月の率直な問いに、タマは短く問い返した。

「懐かしいとは?」

「生き物として、化け物として、当たり前の心を持っていた頃の事です」

 今の卯月は生き物としてここにいる。

 その存在理由は誰かに決められているわけではない。何を感じ、何を選択しようと自由であるし、自分で決められる。人とは違うものを持って生まれ、それを生かしてタマたちに協力しようと決めたのも自分自身だ。

 しかし、八子やタマは違う。八子の過去は分からないが、少なくともタマはごく当たり前の猫だったものがこうなっている。好き勝手に暮らしていた頃と、今とではその暮らしも大きく変わっているだろう。

 卯月はそこに一種の同情のようなものを覚えてしまったのだ。

 けれど、タマは微笑みを崩さずに答えた。

「懐かしいといえば懐かしい。けれどね、だからと言って、今の自分に不満があるわけではない。ひょっとしたら、不満というものすら忘れてしまっているのかもしれないがね。八子様はお優しいし、空腹や悲しさで辛く感じることもない。それに、今はお前さんが一緒だ。いつまでもずっと、とはいかないが、今のところは寂しさとは無縁でいられるよ」

 お面越しに向けられた猫の目を、卯月は見つめ返した。

 初めて見た時は不気味だと思ったその目も、今は親しみ深く美しいものに感じられる。寂しさとは無縁でいられるのは自分もまた同じだと卯月は心から思った。八子やタマが本当に存在してくれていたお陰で、卯月は孤独にならずに済んだ。彼らが幻覚でなかったからこそ、今の自分がある。そう思うと、協力者として身を挺しただけの価値があったと心から思えた。

「それは良かった」

 卯月は言った。

 けれど、すぐにまた卯月はお萩の骨を見つめてしまった。

 もう襲っては来ない。感情をぶつけては来ない。脅威ではなくなったその姿は安堵をもたらすだけでなく、寂しさももたらしてくる。見つめれば見つめるほど、やはり卯月は誘いに乗ってくれなかったことを悔やんだ。

 救いの形は一つじゃない。お萩にとっての救いはこの道ではなかったのだろう。そう思おうとしても、すぐには受け止めきれなかった。

「お萩は……あの子は寂しくないのでしょうか」

 卯月が呟くと、タマは静かに答えた。

「さあね。あたしには分からないな。あたしはこちらの道を選んだ。あちらの道を選んだ者がどう感じるのかを知らない」

「あの子はこれからどうなるのですか? 消えてしまうのかな」

「それもあたしには断言できない。ただ、もしかするとしばらくは魂の一部が何処かに残るかもしれないね。この場所かもしれないし、時雨原のあちこちかもしれない。あるいは、彼女がかつて幸せに暮らした家のある場所かもしれない。何処かに行けば、お萩と呼ばれていた黒猫の気配を感じられるかもしれない」

「残るんですか? 確かに斬ったのに?」

「お前さんが斬ったのは、お萩の罪と負の感情だ。それらは八尾となって彼女に多大な力を与えていた。しかしそれはもう切り落とされた。二度とくっつくことはない。肉体はとうに滅んでいる以上、遺されたのは思い出と魂のみ。それも、日に日に薄れていくだろう。そして、やがては完全に消滅する。それが全ての死者の辿る道だ」

 そこに今のタマのような永遠はない。

 けれど、卯月はふと思った。タマの誘いを受けても、あらゆる物事を許せなかったから拒んだお萩は、むしろ滅んでいく方が幸せなのかもしれないと。それが分かっていたからこそ、拒むことに躊躇いもなかったのかもしれないと。

「いつ、お萩はいなくなってしまうのでしょうか」

「それも分からないね。ただ、明日、明後日ではないはずだよ。何故なら、お前さんは全てを見届けたのだ。その記憶は強烈だっただろう。お前さんがお萩の事を覚えている限り、彼女もまた消え去ることはないだろう」

「私が?」

「そうだ。ああ、言っておくが、それはお萩が苦しみから解放されないというわけではない。彼女の苦しみは全て『猫ノ手』が祓ったのだ。今のお萩はあらゆるものから解放されて、自由気ままな猫の亡霊としてあるのみだ」

「自由気ままな猫、か……」

 それは、尊い役目に従事するタマとは全く違う存在だろう。限られた時のなかで自由気ままに存在し、いつの間にか消えてしまう亡霊。そこに尊さは感じられないけれど、猫らしいと言えば猫らしい。ひとりぼっちでさまようことは寂しいかもしれない。しかし、他ならぬお萩自身がそれを望んだのだから仕方がない事でもあった。

 卯月は深く息を吐くと、お萩の亡骸へと歩みだした。

「どうした?」

 タマに問われるも、立ち止まることなく卯月は答えた。

「せめて、骨だけでも」

「骨を拾ってどうする?」

「埋めてやりたいんです。ちゃんとお墓を作ってあげたい」

「なるほど。人間風の弔いだな。ああ、それでお前さんの心が満たされるのなら、やってみるといい」

 タマの言葉に背中を押され、卯月は骨となったお萩の傍へと近寄った。

 近くでまじまじと見てみれば、切ない気持ちがこみ上げてくる。目玉も毛皮もなくなってしまったけれど、その骨を見ていると生前の彼女の姿が頭に浮かんだ。

 ──人間風の、か。

 骨に触れようとして、卯月はふとタマの口から出た言葉を思い出した。

 確かにお墓を作るというのも、人間ならではの考え方なのかもしれない。少なくとも猫にはない文化と思われる。けれど、それが卯月に出来る精一杯でもあった。

「ごめんね。もしかしたらお節介かもしれないけれど」

 そう断った上で、卯月はお萩の骨に触れようとした。すると、触れられるより先に夜風が卯月の手を払いのけるように吹いた。その途端、お萩の骨が強風に吹かれた砂のようにさらさらと崩れていった。

「あ……」

 茫然とする卯月の目の前で、お萩の骨は崩れていく。そしてついには、その全てが風に攫われ、何処かへ消え去ってしまったのだった。

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