3.愛する人の仇

 その昔、時雨原の山中に一人の男が暮らしていた。

 とても愛情深く心優しい青年だった。

 ある日の事、彼が時雨原の山道を歩いていると、茂みの中にすっかり弱った三毛の子猫が倒れていた。猫はとても小さく、すっかり衰弱しており、放っておけば長くはないだろうとすぐに分かるほどだった。

 そんな猫を彼が見捨てられるはずもなく、躊躇いもなく拾うと身体を温めてやりながらそのまま家に連れ帰った。

 家には老いた母もいたが、彼の母らしくやはり心優しい老婆で、死にかけている猫を見るなり赤ん坊を相手にしているかのようにせっせと世話を焼いたという。

 そのお陰だろう。子猫はすぐに元気になった。元気になれば、遊び盛りの子猫らしくはしゃぎまわるようになった。お転婆なその子猫は、多少人々を困らせようと、彼にとっても彼の母にとっても愛らしいことには変わりなかった。いつしか彼女は「お玉」と呼ばれ、それこそ宝玉のように大事にされたのだった。

 そう、それが、かつてのタマである。

 卯月は静かに彼女の話に耳を傾けた。

「とても温かな家でね。ああ、今思い出してみれば、お前さんの部屋くらいの大きさだったかもしれないな。作りもどこか簡素だった気がするな。しかし、その頃のあたしはなんせ子猫だったからね、とてつもなく広い我が家だったのだよ。ひとりでいれば心細くなってしまいそうなほどにね。でも、家には必ずおかあがいたし、家で待っていれば必ずおにいが帰ってきた。だから、どんなに果てしなく広い家だと感じても、寂しくなんてなかったんだよ」

 懐かしそうにタマは言った。

 その青年──お兄がどのような暮らしをしていたのか、タマにはもう分からないのだという。何せ、彼女は猫だった。普通の猫であった。人間たちがどのように暮らしているかなんて知らなかったし、知る必要もなかった。タマの幸せはそんな大きな世界の真実の中にはなく、お母がいて、お兄がいる家があれば十分だったのだ。

 その頃のタマは幸せだった。そのまま穏便に時が過ぎていれば、幸せのままにお兄やお母に看取られてこの世を去っていったはずだっただろう。だが、そうではなかった。残酷なことに、幸せの終わりはある日突然やってきたのだった。

「その日の事は今も忘れられない」

 タマはぽつりと言った。

「お兄がいつものように朝早くに出かけて行ってね。いつもなら日が暮れる頃には戻るはずだった。けれども、待てど暮らせどお兄は戻ってこない。さすがにお母もおかしいと気づいたんだよ。それからしばらくして、知らない連中が家にやってきてね。何やら難しい話をお母にしたんだよ。そしたら、お母は客人の前だというのに取り乱してね。これまで見たこともないようなその様子にあたしも驚いた。でも、その時のあたしは何があったかちっとも分からなかったんだ」

 結局、タマには分からないまま、時は進んでいった。

 お兄はその日から家に戻ってこなかった。そして、家にいるお母の様子はその日から日に日におかしくなっていく。

 タマは不思議に思いつつも、お母を慰めようとした。すると、お母は撫でてくれたりもしたが、それだけだった。一瞬だけ笑みを見せても、次の瞬間には泣いてしまう。そんなお母を相手にどうすればいいかタマは分からなかった。

「そして、その時は来てしまったのだ」

 ぷっつりと糸が切れたように、希望を失ってしまったのだろう。ある日、タマがうたた寝から目覚めてみると、お母は包丁を使って自害していた。いつもとは違うお母の様子に戸惑いつつも、タマは何度か起こそうと試みた。けれど──。

「その身体は石のように冷たくなっていてね。ああ、これはもう駄目なのだと、誰に教えられたわけでもないに、あたしは分かってしまったんだ。それでも、寂しくてね。優しいお兄も、優しいお母もいなくなってしまったって信じたくなくてね。あたしはしばらくその家に居続けたんだよ」

 タマは何度も起こそうとした。

 しかし、傷をどんなに舐めても治りはしなかったし、お母は目覚めなかった。

 諦めなければならないと、タマにそう教えたのは、本能的な欲求だった。空腹と喉の渇きに耐えられなくなったタマは、ついに家を離れて時雨原の野山へと歩んでいった。

 野山を知らないわけではなかった。よく散歩に行ったし、何処に何があるかもタマは知っていた。それでも、その頃の時雨原は今よりずっと物騒でもあった。狸やアナグマだけではない。山犬はいるし、猪もいる。狐もいるし、猿もいた。さらには熊なんてものもいて、帰る家を無くしたタマには辛い環境だった。だが、何よりも辛いことは、ご飯を食べられるということが当たり前ではなくなったことだった。そして、日に日に孤独は彼女の心を蝕み、生きるための狩りをする気力さえも奪っていったのだ。

「きっと、お母と一緒だ。あの時のあたしも生きる気力を繋いでいた糸がぷっつりと切れてしまったのだろう」

 タマは野山で行き倒れた。

 奇しくもそこはお兄に拾われた茂みだったという。

 その死に際に、タマは不思議な夢を見た。それは、誰かに選択を迫られるような夢だったという。このまま何も知らずに楽になるか、何があったかの真実を知るか。

「もしもあそこで楽になる方を選んでいたならば、今のあたしはいなかっただろう」

 けれど、タマは真実を選んだ。何があったのか、どうしてこうなったのか、知りたいと願ったのだ。

 その結果、タマは知る事になった。

 大好きなお兄が何故帰って来なくなったのか。何故、お母があんなにも取り乱していたのか。その真実の後継が、死に至るまでの微睡の中で脳裏に浮かんだのだ。

「お兄は……彼はね、殺されたのだよ。お兄は悪くないはずだ。悪いとすれば運が悪かった。その憎き男が何者かなんて知らないけれどね、大層な身分の御方だったらしい。その御方が必死に謝るお兄をあざ笑い、斬り殺す場面をあたしは見てしまったのだ」

 それは、きっと真実だったのだろう。

 誰がタマに見せたのかは分からない。時雨童女だったのかもしれないし、死を司る何者かだったのかもしれない。あるいは、死せる者だけが知る事の出来る現象だったのかもしれない。ともかく、タマは真実を知ってしまった。そして、そのために安らかに死ぬことが出来ず、化け猫となってしまったのだ。

「その後の事は、八子様がすでに語った通りだ」

 タマは暴れた。

 理不尽にも彼女から幸せを奪ったこの世を呪った。

 怒りも、悲しみも、憎しみも、全てが呑気に暮らしている人間たちに向かい、もっとも隙の多い旅人たちが犠牲となった。集めた人の死が増えると、タマには新たな力が宿った。人間に紛れて過ごせるようになり、犠牲者はますます増えていった。しかし、殺せば殺すほど卯月の心は歪んでいった。いつしか怒りを晴らすのではなく、快感を得るために旅人狩りをするようになり、犠牲者が増えていけばいくほど当初の恨みも分からなくなっていったという。

「そもそも、本当の目的を覚えていたとて、あたしにはもう何も出来なかったのだ」

 タマは言った。

「その頃のあたしは知る由もなかったけれどね、あたしが時雨原でたくさんの旅人を殺しているうちに、本当に憎んでいた相手の命を姿も見えない死神が流行り病によって持ち去ってしまっていたのだ。そんな事も知らず、あたしは暴れ、時折、本来の恨みの相手を思い出しては、奴を殺すためにもっと力を付けようとしていたのだ」

 そして、狙いは時雨童女へと向かい、八子と戦うこととなり、最後には討伐された。

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