2.救いの形は一つじゃない
威嚇するお萩を前に、卯月は慌てて刀を構えた。
どう見てもその態度は誘いを拒むものである。タマの反応からしてみても、それは間違いない事だろう。
卯月は失意の中にいた。化け猫として何の罪もない人々の命までも奪ってしまったことは罪深いことである。しかし、その経緯は同情を禁じ得ないものだった。何とかして怒りと悲しみから解放してやりたい。本気でそう願っていただけに、タマの誘いが拒絶されることは残念でならなかった。
しかし、気持ちは切り替えなければならない。卯月はそう思い、「猫ノ手」を握り締めた。八子はかつてこの刀を用い、タマの身体を斬ってしまったという。同じ事が自分に出来るか分からないが、もたもたしていればタマが傷ついてしまうかもしれない。そう思うと焦りも生まれた。
だが、そんな卯月に対し、タマは冷静に振り返ったのだった。
「待て」
短いその言葉に、卯月は戸惑った。
問い返そうとするも、その前にタマは続けた。
「様子を見るのだ。そう恐れずとも奴にはもう力はない。お前さんの斬った八尾こそが奴を化け猫にしていたものだ。それを切り落とされた今、彼女はもう化け物でも物の怪でもない。お前さんに害をなすことは出来ない」
タマの冷静な言葉を受け、それでも卯月は半信半疑だった。
お萩は威嚇を続けている。その尾からはまだ墨のような血が漏れ出している。タマから出来るだけ身を離し、触れられるのを全身で嫌がるその姿には敵意しかない。タマの方はというと、そんなお萩の態度を静かに受け入れ、離れようとする彼女を引き止めたりしなかった。威嚇しながら後退するお萩を注意深く見つめるだけだった。
──本当に、大丈夫なの?
卯月は心配になった。
力をなくしているといっても、爪や牙は鋭利に見える。その力に脅威はなかったとしても、齧られたり引っ掻かれたりすれば傷は出来るだろう。急に飛び掛かってこないだろうか。それによってタマが傷ついたりはしないだろうか。そんな事を心配しながらも、卯月はタマの言いつけを守った。
「そうだ。見守ってやってほしい」
タマは小声で言った。タマにはお萩の気持ちが分かるのかもしれない、と卯月は思った。同じ化け猫だから。もちろん、だからと言って何もかも読み取れるわけではないだろうけれど、少なくとも人間である自分よりは分かってやれるはずだと卯月は感じた。
そして、それはあながち間違いではなさそうだった。
お萩はタマから十分すぎるほど距離を取ると、そこでふと立ち止まり、威嚇をやめると夜空を見上げて大きな声で鳴いたのだ。
にゃあん、と、いう猫の声が夜の公園に響いた。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ誰かに呼びかけているような声だった。
そして、次の瞬間、卯月にとっては動揺する出来事が起きた。空を見上げるお萩の姿が一瞬にして骨になってしまったのだ。
「えっ……」
卯月は思わず声を漏らした。遅れて生まれたのは深い悲しみだった。卯月の想いは届くことなくお萩の骨は地面に転がり落ちた。その骨をただただ見つめていると、タマがそっと歩み寄っていった。
「尾を斬れば、化け猫の力は失われる。そうなれば、我らはこれまでよりもずっと捉えどころのない存在となる。あたしのように確かにここに存在し続けるには、誘いを受けなければならなかった。お萩はそれを分かった上で、拒んだ」
「どうして……?」
卯月は思わず訊ねてしまった。
「どうして拒んだのですか?」
「あたしはお萩ではない」
タマは振り返り、卯月にそう言った。
「だから、あたしには正確な答えは分からない。だが、そうじゃないかと想像することは出来る。良いか卯月。これは飽く迄もあたしの推察だ。それを分かった上で、聞くのだぞ」
卯月が頷くと、タマは口元に笑みを浮かべ、続けて言った。
「やはり、許せなかったのではないだろうか」
それは卯月にとって重たいひと言だった。
「お萩とて、知らなかったわけではないだろう。自分を救ってくれようとした人間がいた可能性も、猫には分からずとも化け猫になら分かるかもしれない。お前さんが寄り添おうとしてくれたことだって、お萩には理解できたはずだ。化け猫というものはね、意外と賢いのだよ。並みの猫でなくなった分、猫の頃よりももっと多くの事……時には並みの人間よりも世を見つめ、理解することが出来るのだ。だからこそ、あたしは思う。お萩は分からなかったのではない。分かった上で、やはり許せなかったのではないか」
「許せない……」
その言葉を卯月が茫然しながら呟くと、タマは静かに頷いた。
「許せなかった対象は、人間たちとは限らない。もっと広くて曖昧な、この世の中全体だったかもしれない。あるいは、自身の運のなさだったかもしれない。前に進むということは、過去と決別し、踏ん切りをつけるということでもある。あたしはそうすることで救いを得た。今もこうして時雨原のために奔走しているが、それを辛いと思ったことはない。だが、それは飽く迄もあたしの救われ方に過ぎない」
卯月は俯いた。お萩をタマと一緒に新しい道を歩ませられたら。そう願った思いはなかなか捨てられない。だからこそ、タマのように冷静に受け止めることが出来ずにいたのだ。
しかし、タマは言った。
「これも一つの選択だったのだろう。あたしは過去と別れ、お萩は過去と共に去った。あまりに幸せだったからこそ、その幸せを上書きすることが出来なかったのかもしれない」
淡々と語るタマの言葉を聞いているうちに、卯月の目からはぽとりと涙が零れ落ちた。
自分が泣いていることを自覚すると、涙はもう止まらなかった。お面の下で次から次に溢れ、ぽたりぽたりと地面に落ちていく。俯いたままその様をただ見つめながら、卯月は何度も何度も自答した。
それでも自分は助けてやりたかった。
救ってやりたかった。
新しい未来を共に歩みたかった。
違う幸せもあるのだと知って欲しかった。
──私は役に立てなかった。
その全ては口から漏れ出すことなく卯月の心の中に渦巻き続けていた。しかし、口に出さずともタマには伝わったのだろう。彼女はふと卯月を見つめると、腕を組みながら小さな声で囁いてきた。
「泣いているのか、卯月。そうか。お萩は幸せ者だな。己の為に泣いてくれる他者がいるというのは幸せ者だよ。あたしもね、かつて八子様に泣いてもらったことがある。その涙を見て、あたしは心が洗われたのだ。しかしね、卯月。お前さんは少し勘違いをしている」
「勘違い……?」
震える声で訊ね返すと、タマは優しい笑みと共に頷いた。
「お萩はもう不幸じゃないんだ。お前さんはね、十分救ってやったのだよ。新しい未来も歩ませてやれている。いいかい、卯月。救いの形は一つじゃない。あたしにはあたしの救われ方があったように、お萩にはお萩の救われ方があったのだ」
だから、と、タマは卯月に歩み寄りながら言った。
「お前さんは役立たずなんかではない。時雨原の、トキサメ様の、八子様の、あたしの、そして、お萩の役に立てたのだよ」
その言葉に卯月は顔を上げた。勇気づけるような力強いその言葉は、卯月にとって救いとなるようなものでもあった。しかし、その救いもすぐには効かない。落ち込んだ心が上向くには時間がかかるものである。
タマもそれは分かっているのだろう。俯く卯月のすぐ傍までやってくると、傍にぴたりとくっついて、骨となったお萩の姿を静かに眺めた。
「気持ちが落ち着くまでこうしていよう。その間、昔話でもするか」
「昔話……?」
卯月が問い返すと、タマは頷いた。
「ずいぶん前に、お前さんに訊ねられて答えられなかった話だ。あたしの過去の話。聞いてくれるか?」
卯月は顔を上げ、タマをじっと見つめた。お面で素顔の半分を隠す彼女が正確にはどんな表情をしているのか、それは正確には分からない。けれど、心なしか、前よりも近しいものを感じる表情に見えた。
「……はい。聞きたいです」
そう答えると、タマはゆっくりと頷いた。
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