11章 それぞれの決めた道
1.猫の手はいくつあってもいい
墨のような血を流し、お萩は地面に横たわっている。その光景はまるで交通事故にあった猫のようだった。きっと、お萩が命を落とした際も、このような景色が生まれたのだろう。そう思うと卯月の心がぎゅっと締め付けられた。
だが、そんなお萩に近づいていくタマはいたって冷静だった。カランコロンと下駄の音を響かせて近づいていく間に、タマはいつの間にかその手元にあの鈴を忍ばせていた。
チリン、チリンと優しい鈴の音が卯月の耳朶に響き渡る。その音は痛みに苦しみお萩を慰めているかのようだった。チリン、という音と共に、タマは立ち止まった。お萩の横にしゃがみ込むと、お面越しに墨の血を流し続けるその姿を見つめた。
「苦しいな」
タマの優しい声色が夜の公園に響く。
卯月は固唾を飲みながら見守った。
「今だけではない。今も昔もずっと苦しいのだ。そうだろう、お萩」
その声にお萩の身体が少しだけ反応を見せた。ざっくりと斬られた尾の根元が、墨の血を垂らしながらぱたりと動いたのだ。返事をしているかのようだった。
タマは尾の動きを受けて頷き返すと、呼吸をするその腹部にそっと手を置いた。
「お前さんは心の何処かで気づいていたのだろう。いつかはこうなるだろうと。それでも暴れずにはいられなかった。それが、お前さんがこの世でやり残したことでもあったからだ。しかし、今はどうだ。もう十分、怒っただろう」
お萩は返事をしない。地面に横たわったまま、呼吸をしているのが卯月には分かる。しかし、その反応は薄く、タマの言っていることが通じているのかどうかも見た目からは分からないままだった。
「おハギ。良い名前だな」
タマは言った。
「あたしも今でこそタマと名乗っているが、かつてはおタマと呼ばれたのだ。最近では女性の名前に『お』を付けたりしないと聞いていたが、古風な名前を貰ったのだな。愛情を込めて呼びかけられたのだろう」
優しく語り掛けるタマを、お萩はちらりと見上げた。
通じている。卯月は理解した。ちゃんと聞いていることは間違いない。
「あたしもね、お前さんみたいに人間に可愛がられた過去がある。お前さんは若い女性だったが、あたしは若い男性でね。お前さんを愛してくれた人のように優しい人だったのだ。その頃は幸せだったよ。そこから転落した状況もまた、お前さんはあたしに似ている。だからね、お萩よ、これは私情でしかないと分かっているのだが、あたしはお前さんを放っておけないのだ。そこにいる人間──お前さんの尻尾を切った卯月と同じだ」
お萩はタマを見上げている。
その内心を探るような眼差しだった。
そんなお萩にタマは言った。
「あたしが何故、こうしているのか知りたくないか? 知りたくなくとも、どうか聞いておくれ。あたしもね、かつてお前さんのように暴れ、今のお前さんのように討伐されたのだ。斬られたのは尻尾ではなくて胴体だったのだがね、斬ったのは人間ではなくここの土地神のお使い狐だった。だからだろうね。あたしは斬られても滅びることなく、そのお使い狐──八子様に選択を迫られたのだ。やり直したくないか、と」
そして、タマはやり直すことを選んだ。
恐ろしい化け猫であったタマを切り倒した退魔の刀に封じられ、八子の手助けをする猫の手として支え始めた。
タマがそれを選んだことで、八子が神社から動けなくなった後もこの時雨原と時雨童女は守られ続けている。タマと共に協力すると卯月が選んだことで、今回の騒動も無事に治まろうとしている。全ては偶然の事ではあるが、その偶然を生み出すのがこの誘いなのだろうと見守る卯月は理解した。
「お萩。お前さんにもその道は残されている。『猫ノ手』はお前さんを切った。この地で犯した罪は、呪詛をためたあの異様な八尾と共にすでに切り落とされている。今のお前さんにはやり直す事だって出来る。その意思を必ず確認するようにと、あたしは八子様から命じられておるのだ」
お萩はじっとタマを見上げている。
しかし、沈黙したままだった。考えているのだろうか。卯月は静かに見守った。
「そうだ。八子様の事も少し話しておこう」
タマは言った。
「変わった御方ではあるが、嫌な狐ではない。神の使いと言うと、傲慢なお方を想像するかもしれないが、そうでもない。とても優しい御方だよ。この選択をして良かったと心から思えるくらいに信頼できる御方だ。狐と猫の価値観は若干ずれがあるかもしれないがね、そんな事も大した問題にはならないはずだよ」
そう語るタマの口元には自然な笑みが浮かんでいた。
卯月はふと今も神社で待っているだろう八子のことを思い出した。タマが語る、優しい御方というのは本当だろう。彼と直接話した機会はそう多くない。それでも、説得力を感じるほど卯月の持つ八子の印象は非常に良かった。
彼のもとならば、きっとお萩も不幸にはならないはず。卯月は説得が上手く行く事を願いながら様子を見つめた。どうか、お萩にもそれが伝わりますように、と。
卯月が静かに願う中、タマの口説きは続いた。
「お前さんはずっと惹かれていたのだろう。トキサメ様の存在に。今もこの地のどこかで、あたし達の事を見守っておられるかもしれない。その清い気配に引き寄せられて、残り香のあった卯月を襲ったのだろう。あたしにはなんとなくわかるのだ。何故なら、あたしもまたかつて、お前さんのようにトキサメ様を追い求めたからね」
すっとお萩の身体を撫でながら、タマは囁いた。
「同じようにトキサメ様を狙う者はたくさんいる。かつてのあたしやお前さんのように、どんなに説得しても通用しない輩ばかりだ。どんな相手だろうと侮れない。いつかは本当にトキサメ様が食べられてしまうかもしれない。そうならないように、八子様はここでお勤めを果たしているのだ。そして、あたしは化け猫のまま手伝いをしているというわけだ。この地を守ることその新しい目的と共に数え切れないほどの時を過ごした」
タマはお萩の顔を覗き込みながら言った。
「悪くないぞ、目的があるというのは。それが多くの者のためになるとなれば尚更の事。だがね、非常に忙しいお役目でもあるのだ。お前さんが静かになっても、必ずやトキサメ様を狙う者は現れるからね。複数同時に現れるかもしれない。だから、八子様はいつも仰せになる。猫の手はいくつあってもいいってね」
お萩はじっとタマを見つめている。
そんなお萩に、タマは片手を差し伸べた。
「猫の手はいくつあろうとも困らない。むしろ、たくさんあった方がいい。犬の手でもいいし、狐や狸の手でもいい。兎の手でも、猿の手でも、人の手でも何でもいい。とにかく、この地を守ってくれる仲間が増えることを八子様は望んでおられる。もちろん、あたしも同じだ。これはただの気持ちでしかないが、あたしはお前さんに仲間になって欲しい。同じ化け猫として、一緒にこの地を守る友になって欲しいのだ。いつかお前さんが八子様の手伝いに慣れてくれば、あたしのように相棒が出来るかもしれない。良いぞ、相棒というのは。無償の愛をくれた飼い主とはだいぶ違うけれどね、会話ができるし寂しくないぞ。だから、どうだ?」
手を伸ばし、タマは誘う。
「あたし達と共に、その力で時雨原を守ってはくれないか」
明確な誘いがお萩に向けられる。
卯月は願い続けた。お萩の過去の強烈な印象が今も卯月の頭に焼き付いている。同情なんてお萩は求めていないのかもしれない。けれど、放ってはおけなかった。どうしても、お萩を救いたかったのだ。
勿論、強制は出来ない。飽く迄もお萩の気持ち次第だ。どれだけタマの気持ちが通じたか、どれだけ、自分の気持ちとすり合わせられるか。
卯月は願った。良い返答があるようにと。
しかし、お萩は──差し伸べられたタマの手を前足で振り払った。反射的にタマが手を引っ込めると、お萩は立ち上がり、身体を丸くする。威嚇だ。言葉ではなく、その表情と全身の動きで意思表示をする。
その答えの意味は、猫の言葉を知らない卯月にもよく分かった。どうやら祈りは届かなかったらしい。
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