4.猫の手を借りて

「お萩」

 化け猫を見つめながら、卯月はもう一度その名を呼んだ。力強く、けれど、親しみを込めて。まるで共に暮らす猫に呼びかけるように話しかけてみた。すると、黒猫はますます卯月を凝視した。

 聞こえている。通じている。卯月がその確かな手ごたえを感じていると、変化は訪れた。黒猫を抱きながら同じように目を丸くしていた女の幻影がスッと消えていったのだ。ふわりと猫は地面に着地する。愛する人の幻影が消えても尚、猫は動揺したままだった。

 その様子を見て、タマが卯月を振り返った。

「今だ。今が勝機だ」

 そう言われ、卯月もまた我に返った。

 深呼吸をして刀を身構える。その瞬間、ありとあらゆる情景が頭の中に浮かんだ。浮かび上がるのはかつて同じように刀を構えた人物の姿。狐のお面で素顔を隠すその人物は、間違いなく在りし日の八子の姿であった。戦う術のない神の使いとしてこの地を守ってきた八子と、その八子に対して静かに力を貸してきた「猫ノ手」の記憶。それが卯月の脳裏に瞬く間に広がると、卯月の中でどっと漲るものがあった。

 卯月に起こった異変を感じ取ったのか、化け猫──お萩も我に返った。黒くて小さなその身体を大きく見せながら、蛇のように口を開いて威嚇する。吊り上がったその目からは敵意しか感じられない。それでも、飼い主の幻影は二度と現れなかった。八本の尾を苛立ちのままに揺らし、にじり寄って来る。その動きを、兎のお面は正確に捉えていた。

 ゆらゆらと揺れて見えるのはお萩の持つ霊力というべきものなのだろうか。蛇のようにうねる尻尾と同じく揺らめいて、その小さな身体にまとわりついている。だが、その動きすらお面にとっては貴重な情報だったらしい。

 卯月には見えた。

 お萩がこの先に辿るはずの動線が、はっきりとした形で見えたのだ。

 見えたところで通常ならばどうにもならない。運動部でも何でもない卯月には、対応できなかっただろう。しかし、今の卯月には「猫ノ手」が一緒だ。手に持っているその刀がただの武器ではないということを、卯月はすでに実感していた。影の手から守ってくれたあの時のように、いや、あの時以上に、刀は導いてくれるだろう。

 だが、その力もまた卯月次第でもあった。

 刀を構え、迫りくるお萩を迎え撃とうという本当に僅かなはずのその間に、卯月は頭の中でタマに話しかけられたような気がした。

「お前さんは、どう思った?」

「どうって?」

「あのお萩という猫のことだ」

「可哀想……だと思いました」

「ああ、そうだな。確かに可哀想な奴だ。じゃあ、お前さんはその可哀想なお萩をどうしてやりたい?」

「止めたいです」

「止めるとはどういう事だ?」

「この刀で、勝負に勝つという事です」

 力強く卯月が返答すると、タマの声はしばし黙してから再び訊ねた。

「勝つとはどういう意味がある。お前さんが勝利を望むその意味は何だ?」

「勝利の意味……それは」

 刀を持ったまま、異様にゆっくりと時が過ぎるのを感じながら、卯月はふと考えた。

 浮かび上がるのは、幸せな日々から絶望へと落ちていったただの猫としてのお萩の姿だった。命を落としたその瞬間まで、お萩が捜し求めていたのは愛する飼い主の温もりであり、そこにあるはずの安らぎだった。

 救おうとした人はいた。けれど、救えなかった。だから、今もさまよい続けている。今も呪いを吐き続け、それによってむしろ苦しんでいる。

 卯月はつくづく思った。

 今のお萩を見ているのは辛すぎた。何もかもがエゴに過ぎないのだとしても、救ってやりたいという気持ちは変わらない。止めたかったし、終わらせたかった。その力がこの刀にあるというのならば、縋りたかった。

 時雨原を守りたいからというだけではない。

 卯月はお萩を楽にしてやりたかったのだ。終わりのない苦しみから、自分が解放してやれるのならば、その力を借りたかった。

「それは、お萩を苦しみから解放するということ」

 卯月が力強くそう言うと、声はすっと消えた。

 ゆっくりと過ぎていた時の流れが元に戻り、八本の尾をなびかせたお萩が矢のように迫ってきた。それでも、お面は全てお見通しだったし、ついて行かないはずの身体は刀が導いてくれた。どう動けばいいのか、考えなくても分かる。たいして鍛えているわけでもない身体は、それこそ猫や兎のようにひょいと動いた。

 お萩は地を蹴って卯月に飛び掛かる。ただの猫に比べると異様に大きなその前足から、鎌のような爪が現れる。同時に、その八尾の先にある手も、それぞれが卯月を狙っていた。まともに食らえば一瞬にして体を引き裂かれるだろう。そこに待っているのは重傷すら生ぬるい。即死に違いなかった。

 それでも、卯月には恐怖を感じる暇すらなかった。夜の公園のひやりとした空気は卯月を怯えさせるどころか冷静にしてしまっていた。妙に頭の冴えた状態で、卯月は刀を動かして、襲い掛かるお萩を迎え撃った。

 刃がその八尾の根元に当たった瞬間、卯月の脳裏にはまたしても光景が浮かんだ。

 にっこりと笑うのは、消えてしまった幻影の女──お萩の飼い主であった。卯月には見慣れぬ台所に立ってこちら振り返るその姿は、不幸などまだ知らなかった頃の彼女である。その姿を見ている卯月に──いや、正確にはお萩に対し、彼女は声をかけてきた。

「お萩。おやつの時間だよ」

 優しいその声が卯月の耳に響き渡った直後、鈍い手ごたえが卯月の手に伝わった。力任せに刀を振るうと、墨のような黒い液体が噴き出して卯月の視界を覆った。激しい水しぶきの音と共に夜の公園に響き渡ったのは、化け猫の──お萩の悲鳴だった。

 反動でしばし硬直していた卯月は、ふと我に返って振り返った。真っ先に見えたのは、うねうねと動いている蛇のような物体だった。八尾だ。根元から切り落とされたそれらが動いている。しかし、段々とその動きも鈍くなっていった。やがて、動きが完全に止まると、砂のように崩れていった。

 卯月はそれを見届けてから、改めて尻尾の主を捜した。墨のような液体は、恐らく化け猫の血なのだろう。足跡のように続く黒い血を視線で辿ると、その先でお萩はのた打ち回っていた。尾の斬られた場所から黒い血を流し、痛みにもがいている。しかし、もがき疲れたあとはぐったりと横たわり、じっとしていた。

 卯月は戸惑った。

 一瞬で楽にしてやるつもりだったのに、仕留めそこなったのだろうか。

 だが、不安を覚える卯月のもとへ、タマは近寄って行った。

「よくやったぞ、卯月」

 囁くその声に、卯月は思わず訊ねてしまった。

「これで本当に良かったのでしょうか」

 すると、タマは小さくため息を吐いてから卯月に答えた。

「間違いではない」

「でも、痛そうだし苦しそうです」

「そうだな。相当痛いし苦しいだろう」

「一瞬で楽にしてやりたかったのに」

「ああ、そうだな。それが出来たらもっと良かったかもしれない。だが、こうすることで、別の道も用意できるのだよ」

「別の道?」

 卯月が訊ねると、タマは口元に薄っすらと笑みを浮かべた。

「ともかく、後はあたしに任せておくれ。八子様、そしてトキサメ様の名のもとに、お萩には選んでもらわねばならないことがある。暴れ続ける道を断たれた今、これからどうするのかを決めるのはお萩自身だ。お前さんに出来ることは見守る事。どうか、静かに見守ってやっておくれ」

 タマの言葉を聞いて、卯月は頷いた。

 卯月が納得したことを確認してから、タマはカランコロンと下駄の音を立てながら、地面に横たわるお萩のもとへと近寄っていった。

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