3.とても大切な記憶
お面越しの景色は歪んでいくと、やがて霞がかかったように何も見えなくなった。しかし、卯月は怖くなかった。もう何度もこのお面の力を体験してきたからだ。己の霊感を制御するというそのお面に願い続けていると、靄は次第に晴れていき、はっきりとした光景が広がった。卯月の目の前に広がるのは、公園の景色などではない。黒猫が愛する飼い主と共に暮らしていた家の中だった。
──見えた。
卯月が心の中で呟いた時、視界は勝手に動いた。視界の主は自分ではない。卯月は理解し、静かに景色の変移を見守った。にゃあと鳴きながら動いているところからして、その視界の主が誰なのかはすぐに察せた。しなやかな動きでとことこと歩き、何もかもが大きく見える室内を見渡している。
やがて、時計の鐘の音が響いた。五回鳴るのを聞き届けたその時、玄関から物音がした。その途端、視界の主は嬉しそうに鳴いて、玄関まで走っていった。ちょこんと座った先で玄関扉が開き、現れたのは卯月も見慣れたあの女だった。外から帰ってきた彼女は愛猫の出迎えに気づき、にこりと微笑む。その表情を見て、卯月は動揺した。活き活きとしたその表情は、その後、不幸な未来を辿るとは到底思えないほどに明るいものだった。
にゃあん、と視界の主が嬉しそうに鳴くと、飼い主の女性は何か言葉を発しながら頭を撫でてきた。卯月はその感触を体験した。視界の主の記憶なのだろう。妙にリアルなその感触は、人間であるにも関わらず、身も心も彼女の猫になってしまったかのように温かなものに思えた。
視界の主は喉をゴロゴロ鳴らしながら飼い主を見上げた。すると、飼い主はにこにこしながら何か言葉を呟いた。しかし、猫の記憶だからだろう。彼女の声は聞こえるのだが、実際に何を言っているのか、卯月には分からなかった。
ただいまと言っているのか、それとも猫の名前を読んでいたのか、もっと違う事を語りかけていたのか。卯月には分からなかった。
それから、場面は突然切り替わった。
居間で寛ぎながらテレビを見ている飼い主に、視界の主は近寄っていき、にゃあんと鳴いた。すると、飼い主は猫じゃらしを手に持って、遊んでくれた。視界の主は喜んで遊びに応じる。俊敏なその動きは、酔ってしまいそうなほど。それでも、視界の主が楽しんでいるからだろう。卯月もまた明るい気持ちでその光景を見つめることが出来た。
しばらくの間、そうやって飼い主との遊びに夢中になっていたのだが、少し退屈になったのか、視界の主は急にじゃれつくのをやめて飼い主の顔を見上げた。見つめ合うと飼い主は微笑みを浮かべ、視界の主に声をかけた。しかし、またしても卯月には聞き取れなかった。声を放っているのは分かるのだが、何を言っているのかが聞き取れない。
──あと少しで聞き取れそうなのに。
日本語には間違いないだろう。もっと集中すれば聞き取れそうでもある。それでも、卯月が考えようとする前に、場面は再び切り替わった。
次に見えたのは、視界の主が毛繕いをしている光景だった。ぴったりと飼い主にくっついて、ぺろぺろと熱心に黒い毛並みを整えている。隅々まで念入りに手入れをしていると、途中で飼い主の手が視界の主の頭にぽんと置かれた。視界の主がちらりと見上げると、飼い主もまた視線を向けてくる。にゃあん、と視界の主が声をかけると、彼女もまた、微笑みながら声をかけてきた。
──日本語だ。間違いない。
日常会話のような他愛のない言葉かもしれない。しかし、これまでに見た光景と同じ音が聞こえてくる。その音を聞いた視界の主は、にゃあんと返事をした。
──もしかして、名前かな?
卯月がようやくそれに気づいた時、場面は再び切り替わった。
視界の主は飼い主に抱き上げられていた。ぎゅっと抱きしめられると心が温かくなってゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。その安らぎを卯月もまた体験していた。飼い主は視界の主を何度も撫でながら、何かを囁いていた。
──同じ単語だ。
やはり、視界の主の名前なのだろう。愛情を込めたその声が、視界の主の耳に入り、安らぎは深まっていく。彼女が名前を呼ぶたびに、視界の主はにゃあんと返事をする。同じ音だ。同じ単語だ。けれど、卯月にはどうしても聞き取れなかった。
再び景色は変わる。
灯りを消した部屋の中で、布団の中に飼い主はいる。その真横で視界の主は横になり、眠ろうとしていた。互いに身を寄せ合って目を閉じているだけで、夜の心細さも何処かへ消えてしまう。安心して眠りにつける悦びが、そこにはあった。
視界の主の背中を飼い主がそっと撫でた。その感触を受けて、卯月はうんと集中した。と、同時に、お面に願った。
──なんて言っているのか教えて。
すると急に耳が良くなった気がした。兎の耳でも生えたかのように音が鮮明になる。暗闇の中、眠気で瞼が閉じられている中で、確かに彼女の声は聞こえてきた。
「おやすみ──」
──聞こえた。
確かに彼女は日本語で「おやすみ」と言った。だが、卯月はがっかりしてしまった。その先の肝心な単語がよく聞き取れなかったのだ。
そこで視界は再び真っ暗になってしまった。
これ以上の記憶は探れないのだろう。それでも、卯月の願いと焦りに反応するように、お面はちらちらと同じような光景を見せてくれた。いずれも視界の主が飼い主と共に暮らした日々の中で蓄積された、大切な記憶たちなのだろう。それも他愛のない光景だ。しかし、それこそが大切だったのだという事を、視界の主は死ぬ前に思い知らされてしまったのだろう。信頼できる人と共に穏やかに毎日を過ごせることが、どれだけ幸せなのかということが身に沁みて分かるくらいに寂しい思いをする羽目になったのだ。
だからこそ、その記憶が鍵となる。
──名前だ。
おはよう、おやすみ、ただいま、行ってきます、大好きだよ、可愛いね。
そういった日常的な挨拶や会話の中で、飼い主はいつも愛猫に同じ言葉をかけていた。その言葉こそが猫の名前に違いなかった。
あの名前を呼んだら、猫は思い出すのではないだろうか。思い出せなかったにしても、動揺させることは出来るかも知れない。
しかし、猫はどうやら自分の名前を正確に覚えていたわけではないらしい。その音をまねてみようか。そう考えかけて、卯月は首を横に振った。駄目だ。ただ真似たところで意味はない。正確な音を口から放たなければ、猫には通用しないだろう。
だからやはり、名前を知る事が必要だった。
──どうしたらいい?
卯月は訊ねた。己自身に、或いは、その素顔を隠している兎のお面に。
すると、兎のお面の耳がわずかに揺れた。ざわざわと小さな音が集まっていく。幻覚に症状に苦しんでいた時によく聞いたような幻聴にも似ている。それら音の情報はお面の兎耳に集められると、卯月の脳内に染み込んでいった。
卯月が目を閉じて、無心になってみると、脳裏に再び光景が浮かんだ。猫の視界だ。見上げた先にはあの女がいる。にこにこしながら猫を見つめ、口を開く。
「オハギ」
今度は確かに聞こえた。
──おはぎ。おはぎ。
卯月の脳内にその言葉がこだまする。平仮名の「お」と漢字の「萩」が浮かびあがり、くっついた。
「お萩……」
浮かんだままにその名を呟いた瞬間、卯月の見ていた光景は一瞬にして消え去った。代わりに現れたのは、今、この場に広がっている光景。
夜の公園で戦うタマと化け猫──お萩の姿が卯月には見えた。お萩は硬直していた。人間の方と同じように猫の方も目を丸くしている。じっと見つめている先はタマの方ではなく卯月の方。
名前を口ずさんだ卯月の声に、驚いているようだった。
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