10章 化け猫同士

1.不思議な力を持つ刀

 化け猫の背後で八本の黒い尻尾がゆらゆらと揺れている。正確には尻尾ではなく影と呼ぶべきもの。黒猫を抱いた女の背後からそれらは伸び、海藻のように揺れながら形を変えていった。やがて、八本の尾は八本の手となった。真っ黒なその手には鋭利な爪が生えている。命を刈り取るようなその形状に、卯月は息を飲んだ。

「心配するな、あたしがついている」

 卯月の動揺を察したのか、タマはそう言った。

「お前さんはその刀で身を守りつつ、機会を窺うがいい。良いか。そのお面の下から、恐れずにあの猫を見つめ続けるのだ。お面はあたし達に味方する。あの猫との戦いの勝機を生んでくれるはずだ」

「わ、分かりました」

 卯月がどうにか返事をすると、タマは口元に薄っすらとした笑みを浮かべ、そのまま化け猫に挑みかかった。化け猫の方は動かない。女も猫も一歩も動かず、ただ伸びている八本の黒い手だけが物凄い勢いでタマに襲い掛かった。

 卯月から見れば、不利なのはタマの方に見えた。八本の手は自由自在に伸びるらしい。蛇のようにうねうね動きながら翻弄しようとしている。一方、タマの方は単身だ。人間のような体で猫のように身構え、人間離れした動きで黒い手の攻撃を避けるばかりだった。

 本体に近づこうものなら、あの手が邪魔をしてくる。あの手に捕まれば、いくら神使に仕えるタマであろうとただでは済まないだろう。

 それでも、卯月は必死に刀を構え続けた。

 今出来る事は信じる事だ。絶望を振り払い、訪れるはずの機会を信じて、お面の下からじっと戦いを見守る事だけだ。

 別の公園で戦ったあの時のように、卯月は強い意思と共に前を見つめた。そんな卯月にも、手は襲いかかってくる。八本もある手をタマ一人で止められるはずもない。数本が伸びてきて、卯月はそれを必死に防いだ。

 刀の使い方など、卯月は知らない。「猫ノ手」を受け取って以降、意識して構えてみたり、振り払ってみたりしたことはある。けれど、経験不足を補いほどのことなど殆ど出来ていない。そんな状況にも関わらず、「猫ノ手」は見事なまでに卯月を化け猫の黒い手から守ってくれた。斬られた黒い手が怯んで引っ込むのを見つめ、卯月は興奮気味に刀を見つめた。

 ──自分の力じゃない。刀が守ってくれたんだ。

 やはりこれはただの刀ではなく、妖刀と呼ぶべきものなのだろう。タマの魂が封じられているというだけではなく、かつて八子と共に時雨原を守ってきたという退魔の刀らしいその不思議な力に、卯月はしばし惚けてしまった。

「大丈夫か?」

 タマに声を掛けられて、卯月はハッと我に返った。

「こっちは大丈夫です!」

 その返答に安心したのか、タマは頷くと再び化け猫に挑みかかった。

 卯月は「猫ノ手」で身を守りながら、引き続きタマの戦いぶりを見守った。タマの動きは華麗としか言いようがなかった。下駄に和装という極めて動きにくそうな格好にもかかわらず、そのアクロバティックなその動きに、卯月は見惚れてしまった。けれど、ぼんやりしてはいられない。迫りくる影の手を刀で弾くと、卯月は息を飲んだ。

 ただ見守っているだけではない。気を強く保つことこそが卯月の出来る精一杯のことでもある。タマがどれだけ活躍できるのかは、卯月の気持ち次第でもある。脅しに屈しないこと、恐怖に屈しないこと、それだけを考えながら卯月は「猫ノ手」を握り締めた。そして、そんな彼女の想いに応えるかのように、「猫ノ手」は煌めく。影の手が迫って来る。その攻撃を迎え撃たんと卯月は動き続けた。影の手の攻撃はかすりもしない。鋭い爪はすべて刃に弾かれる。その動きはまるで刀に導かれているかのように的確だった。

 ──これが「猫ノ手」の力。

 卯月は納得し、強く構えた。

 ──気を強く保たなくては。

 深呼吸と共に、卯月は自分に言い聞かせた。

 その間にも、タマは化け猫に挑み続けていた。軽い身のこなしで迫るものの、化け猫の身を守る影の手の動きも獲物に飛び掛かる蝮のように素早かった。追い払われても再び攻め込もうとするタマに、一切近づかせようとしない化け猫。両者の猫そのものの威嚇の声が、夜の公園に響いていた。それでも、公園には猫の子一匹もいない。暗闇と静寂を引き裂く猫同士の猛り声は卯月にとってやや不気味でもあった。

 タマは決して弱くない。「猫ノ手」だってその力は確かである。卯月が心配することなんて何もないはずだ。それでも、戦いが長引けば長引くほど、肉体的にも精神的にも疲労は生まれ始めた。

 今は何時だろう。一体どれだけ戦えば決着はつくだろう。段々と卯月の集中力も途切れてくる。そこを狙うように影の手の攻撃はむしろ強まって来る一方だった。あわや何度も引っ掻かれそうになりながら、卯月は段々と不安を抱え始めた。

 もしもここで負けたなら、自分はどうなってしまうのだろうか。

 頭を過ぎるのは、これまでお面の力で目撃した過去の犠牲者たちの末路の記憶だった。皆、突然の死だった。痛ましい死だった。その霊魂の一部が土地にこびりついてしまうほどに惨い死に様ばかりだった。死はやはり恐ろしい。八子やタマとの出会いで悩みの殆どが解決した卯月にとって、死はこれまでのように忌避すべきものになっていた。だからこそ、負ければ殺されるかもしれないという予感は、卯月を激しく動揺させた。

 ──いけない。気を強く保たないと。

 卯月は必死に「猫ノ手」を構えた。

 タマの強さはこちらの気持ち次第である。卯月は何度も自分に言い聞かせた。気持ちが折れなければ勝てるはず。だから、諦めてはいけないはずだ。向き合い続けることから逃げてはいけない。気の緩みも不安も恐怖も、すべてが今の卯月にとっては敵である。

 しかし、ただ闇雲に刀を構えているだけでは何も変わらなかった。気持ちが折れそうになる度に、影の手の攻撃は強まってくる。その度に卯月はじりじりと崖へと追い込まれているかのような気持ちになってしまった。

 ──一体いつまで耐えればいいの……。

 根負けしそうになる中、卯月はちらりとタマの戦いぶりを見つめた。

 相変わらず華麗な身のこなしだった。しかし、影の手の方もまた巧妙な動きでタマの行く手を阻んでいる。タマも強いが相手も強い。互いに一歩も譲らないこの戦いの行方はまだまだ分からない状況だった。

 そんな状況下で、真っ先に気持ちが折れそうになっているのが卯月である。卯月が折れればタマの動きも鈍るだろう。危機感を覚えながら、卯月はがむしゃらに「猫ノ手」を振るった。卯月がどんな振り方をしても、「猫ノ手」は己の仕事を全うする。影の手の接近を全て弾き、卯月には指一本も触れさせない。卯月が手放さない限り、それは変わらないのだろう。だが、化け猫だってそれは分かっているはずだ。だから、粘り込んで卯月の心を折ろうとしているのかもしれない。

 タマの戦いぶりを確認しようとした卯月は、その視界に入った化け猫の姿にふと気を取られた。黒猫を抱いている女の幻影が何か言葉を放っている。小刻みに動くその唇の動きに、卯月は妙に気を取られてしまった。何を言っているのだろう。何を伝えたいのだろう。その興味が引き出され、卯月はしばし立ち止まってしまった。

 戦いの最中だというのに。

 ──いけない。

 ハッと我に返るも時は遅く、影の手は目の前にまで迫っていた。引っかかれる。いや、引き裂かれる。その恐怖に卯月は硬直してしまった。だが、ぎゅっと目を閉じ、覚悟を決めようとしたその時、真横から体当たりを受け、卯月は地面に転がった。

 タマだ。目を開けた卯月の肩を、タマはぎゅっと抱いた。

「大丈夫か?」

「……大丈夫です。ありがとうございます」

 卯月が答えると、タマはホッとしたように微笑み、立ち上がった。

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