4.どうしても伝えたい事
公園の中へと踏み込んだ卯月を、化け猫は追いかけてくる。
卯月は十分に距離を離してから立ち止まり、化け猫を振り返った。突然消えたりすることはなく、猫と女はどちらも卯月を見つめている。身構える彼女らを前に、卯月は少しだけ怖気づいた。しかし、許されている時間が僅かであることを察すると、恐怖を堪えてその口を開き、思い切りの良い大声で彼女らに呼び掛けた。
「ねえ、あの……あのさ!」
意外な行動だったのだろう。女に抱かれている黒猫の表情が少し変わった。女は変わっていない。相変わらず恐ろしい形相でこちらを見つめている。だが、それ以上は動かなかった。本体である猫が、気を取られているからだろう。
「少しだけ聞いて欲しい事があるの。私の言葉……分かる?」
黒猫は返事をしなかった。訝し気な様子で卯月を見つめている。尻尾を苛立ったように揺らしている。しかし、拒絶はしなかった。様子を見るように卯月を見つめ続けている。そんな猫に対して、卯月は呼びかけ続けた。
「あのね……私は人間だし、あなたの気持ちが全て分かるわけじゃないと思う。あなたからすれば、分かるなんて簡単に言ってほしくないかもしれない。でもね、私、このお面であなたの体験したこと、感じたことを知って、やっぱり辛くなった。私があなただったとしても、きっと同じように全てを恨んだかも知れないって、そう思ったの」
猫は黙っている。女も動かない。
双方の目に睨まれながら、卯月は恐る恐る話し続けた。
「その上で、聞いて欲しいことがある。あなたがこうなってしまうまでに、あなたを助けようとした人間もいるってことを知って欲しいの。あなたにとっては有難迷惑なのかもしれないけれど、その人が全てだったのかもしれないけれど、あなたを幸せに出来る人は他にもいるはずなの。それをきっとその愛する女の人も望んでいたんじゃないかって。生きていた頃もそうだし、今だってそう。今からでも遅くないよ。私たちならもっと力になれるかもしれない。だからさ、もう少しお話してみない?」
卯月の声が夜の公園に響き渡る。
不気味なほど誰も通らないこの場において、唯一の音にも感じられるほど。
しかし、卯月は怯まなかった。言いたい事はもっとある。伝えたい事はまだまだある。そのどれかが猫の心に引っかかってくれればいい。躊躇ってくれればいい。あわよくば、考え直してくれたらいい。そんな希望を抱いたまま、卯月は慎重に猫の様子を見守った。
猫は、黙ったままだった。
黙ったままじっと様子を見ている。突き刺すようなその眼差しを向けられ続けていると、次第に卯月の心にも躊躇いが生まれてしまう。
しかし、そんな卯月の手助けに入るかのように、足元の影よりタマは這い出してきた。三毛猫の姿で現れたタマに、黒猫の鋭い視線が向けられる。タマはそんな黒猫を見あげ、人の言葉で声をかけた。
「あたしなら、少しはお前さんと対等に話せるかもしれないね」
タマの声を聞いて、黒猫は眉間にしわを寄せた。
やはり言葉は通じているのだろう。その微細な仕草から卯月はそう読み取った。
「お前さんもとっくに気づいているだろうが、あたしもまた化け猫だ。化け猫だったと言うべきか。かつてはお前さんのように怒りと悲しみ、恨みに身を任せ、この時雨原を呪ったことがある。お前さんと全く同じ経験をしたわけじゃないけれどもね、状況がよく似ているのだ。あたしもかつて……愛する人のために怒り狂い、ただの猫から化け物となってしまったのだよ」
それは、卯月が以前、聞けなかったタマの過去の断片だった。
タマは猫の姿のままでじっと黒猫を見つめ続けている。
「お前さんはすでに八人殺している。もう後戻りはできないと思ってはいないか? それとも、化け物になり切るのが楽しいと思ってはいないか? それも、あたしにも覚えがある。殺戮は楽しいよな。恨みを貯め込んで苦しい心中だと胸がすくんだ。何も分かってくれなかった人間どもへの復讐だしな。何が悪いって思うよな。けれどね、忘れちゃならないよ。かつてお前さんを愛してくれたその女が、もし本当にここにいたら今のお前さんを見てどう思うだろうね。悲しみやしないかね」
タマのその言葉に猫の表情が歪む。
ちらりと顔をあげ、自身を抱いている女の幻を見つめていた。
通じている。通用しそうだ。卯月はさらに希望を抱いた。説得が上手く行けば、戦う必要はない。この刀で猫の身体を切り裂く必要もなくなる。
卯月は祈った。神でもいい、仏でもいい、時雨童女でもいい、とにかく願いを叶えてくれる何者かに縋りついた。
どうかあの黒猫が分かってくれますようにと。
「勿論、これはあたしが勝手に思ったことではある」
タマは静かな声で言った。
「同じような過去を持つ化け猫だからといって、お前さんの気持ちの全てがあたしに分かるはずもない。お前さんだってそうだろう。あたしの気持ちが全て分かるわけじゃない。だがね、あたしはお前さんがこの時雨原を荒らし始めてからずっと、こう願ってきたのだよ。お前さんが苦しまない未来が来て欲しいとね……お前さんからすれば、身勝手なのかもしれないが」
そう言って、タマは座り込んだ。
どこか悲しそうなその小さな三毛柄の背中を見て、卯月もまた彼女に続いた。
「私も同じ」
胸に手を当てて、卯月は黒猫に訴えた。
「迷惑かもしれないけれど、私もあなたがもう悲しまなくていい未来を願っているの。もう十分悲しんだし、もう十分怒ったよね。怒るのも疲れるでしょう? 感情が揺さぶられるのってすごくきついよね。でもね、もう大丈夫だから。あなたの愛したその人を不幸にした人はもういない。復讐相手はもう、この時雨原にはいないんだよ」
真っ先に標的となった彼も、巻き添えとなってしまった人々も、とうにこの世を去ってしまった。失われた命はもう戻ってこない。終わってしまったことに違いない。取り返しはつかないが、そこからどうするのかはあの黒猫次第だ。このまま罪を重ね、凶悪な怨霊として討伐され続ける道も、踏みとどまる道も、卯月やタマが強制できることではないが、道案内をすることは出来るはずだ。
卯月は強くそう思いながら、黒猫に呼びかけ続けた。
「私はね……私は……あなたがこれ以上、人から恨まれる存在になって欲しくない」
黒猫は視線を動かし、ちらりと卯月を見つめた。
「あなたは愛する人のために復讐をしてきたけれど、いつの間にか関係のない人たちまで襲うようになっていた。それも、あなたにとっては正当な復讐なのかもしれない。愛する人が亡くなった事を時雨原に暮らす全ての人間の責任だって思ったのかもしれない。でもね、人間たちにだってあなたの愛する人が亡くなったことを悲しむ人もいるの。あなたを憐れむ人もいる。だから、私は分かって欲しいの。人間たちはあなたの敵じゃない。中には敵と言わざるを得ない人もいるかもしれないけれど、全ての人間がそうであるわけじゃないって、それだけでも分かって欲しいの」
その思いは通じているだろうか。
敵対したいわけじゃないということ、憎しみ合いたいわけじゃないことが、分かってもらえているだろうか。
その手ごたえは、猫の表情からは全く読み取れなかった。
訴えた事、伝えた事自体に意味はなかったなんて卯月だって思いたくない。けれど、時間が経つごとに、望ましくない結果がもたらされつつあることは、理解できた。
女の腕の中でわなわなと黒猫の身体が震えだす。やがて、その口が引き裂かれるように開き、蛇のような威嚇の声と共に、黒い毛が逆立った。
その様子を見て、タマの輪郭が歪む。三毛猫の姿から人間に近い姿へと変わり、背中越しに卯月に言った。
「刀を抜くのだ」
短いその言葉に事態を察して、卯月は失意と共に「猫ノ手」を抜いた。
その直後、化け猫の背後から八本の黒い尻尾が伸びてきた。
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