3.たとえ利己的だとしても

 猫を抱いたまま女は卯月に掴みかかってきた。

 猫はともかく人間の女の方は猫の生み出した幻影のはず。けれど、タマが避けろというので、卯月はそれに従いながら距離を取り続けた。このまま以前のように自宅までの道のりを進めば途中に公園がある。そこへ向かう道すがら、タマは卯月に囁いた。

「気を抜いてはならぬぞ。こちらと同じ覚悟を奴もしている。そのつもりだろう」

「覚悟ってなんです?」

「終わらせる覚悟だ。お前さんもまた標的の一人だ。お前を九人目の犠牲者として屠ったあとでトキサメ様を襲うつもりだろう。その殺意をあたしは感じた」

「殺意……」

 突き刺すような視線を背中に浴びて、卯月は寒気を感じた。

 化け猫。その正体は、卯月にとって可哀想な猫でしかない。それでも、自分を本当に殺そうとしていることを教えられると、怖くないはずもなかった。

 その警戒心をむしろ掻き立てるように、タマは言った。

「お前さんに託すのは止めだ。そこまではあたしが上手く追い込もう。奴を動けなくするから、それまでは覇気を失わずに見守って欲しい。前に違う公園でやった時と同じだ。いいか?」

「はい……でも、タマさん。一つだけお願いがあります」

「お願い? なんだ?」

 やや不満そうな心を隠しもしないタマの声に少しだけ怯みつつも、卯月は言った。

「戦う前に機会が欲しいんです。意味はないかもしれないけれど、あの猫にもう少し声を掛けたいんです」

「声? 何を言うつもりだ?」

「こう言う事をしても、飼い主はきっと喜ばない。猫が不幸になって恨まれることを望んでいないという事を伝えたいんです。それに、他の人間の中にも飼い主とあの猫に寄り添いたがる人はいるって伝えたいんです」

 それは、卯月が猫の記憶を目撃した際に強く感じたことでもあった。

 猫を保護しようとした人はいた。新しい幸せを用意してやろうとしていた人もいた。猫が呪おうとしている人の中には、そういう人もいるかもしれない。あるいは、いたかもしれない。この世を去ってしまった飼い主以外にも、猫のことを想ってくれる人はいるのだということを、卯月は猫に知ってもらいたかった。

 身勝手かもしれないし、青臭い事かも知れないけれど、ただ切り捨ててしまう前に、卯月はもう少し対話をしたかったのだ。

「……なるほど」

 タマは呟いた。

「確かに意味はないかも知れぬ。無駄な事も知れぬ。通じるとは限らんし、通じない可能性の方が高いぞ。それでもやりたいか?」

「はい……」

「それは何のためだ? 何のためにお前は声をかけたいのだ?」

 タマの問いかけに、卯月はすぐさま答えようとした。だが、言葉が出る前に、しばし口を閉ざしてしまった。

 人間の事をもっと知ってもらいたいから。それは卯月にも分かっている。しかし、何故、知ってもらいたいのだろう。タマが問いかけていることは、そう言う事なのではないかと卯月は感じた。

 何故、知ってもらいたいのか。猫の為だろうか。あるいは、猫を遺した飼い主の為だろうか。卯月は真っ先にそう思った。それが猫の為になるのだと。何も知らないまま恨みや憎しみ、悲しみのなかに居続けるのは可哀想だ。だから、救ってやりたいのだと。

 だが、改めてタマに問いかけられて考えてみれば、果たしてそれは本当なのかと疑問が残った。救ってやりたいのは何故だろう。救ってやるとはどういう事だろう。一つ一つを疑問視していき、卯月はしばし冷静になった。

 そして、じわじわと答えは浮かんできた。

 違う。

 猫の為ではない。猫の飼い主の為でもない。

 知ってもらいたいのは飽く迄も卯月自身であるし、卯月がそうしたいからするのだ。身勝手かもしれないし、押しつけがましいかもしれないが、卯月自身の希望として、猫が何も知らない状態のまま、切り捨ててしまうことに抵抗を感じているのだ。

 それに気づいた卯月は素直に答えた。

「やらないと、後悔しそうなんです」

「後悔? では、お前さんは誰のために説得するのだ?」

 問いかけるタマの意図を卯月は酌もうとした。しかし、すぐに思い直した。酌んでどうなるというのだ。ここで正直にならず、どこで正直になればいい。卯月にとってタマはただの相棒ではない。八子に刀を託された時から、彼女とは一心同体にも等しいのだ。そんなタマに本心を明かさないことは、自分自身に嘘を吐くことにも等しい。

 卯月はそう思い、勇気を出して答えた。

「私が、です。私が嫌だから……私自身の気持ちの為に、伝えたいんだと思います」

 素直に言葉にしてみると、なかなか身勝手な動機にも思えてしまう。

 咎められるのではないか。呆れられるのではないか。あらゆる不安が卯月の心に浮かぶ。しかし、卯月はそれらの不安に耐えながら黙って返答を待ち続けた。

 やがて、タマは静かな声でこう言った。

「お前さんの気持ちか。間違いないな?」

 その問いに、卯月はしっかりと頷いた。

「間違いありません」

 すると、タマは明るい声でこう言った。

「なるほど、それを聞いて安心したぞ。どうやらお前さんは見誤っていないようだ。その通り、その説得はお前さんの気持ちによるものだ。お前さんが後悔したくないから、猫に伝えるわけだ。猫の為だと思っていても、猫の為になるかどうかは受け取る猫自身にしか分からない。そこを自覚しているかどうかは大きい」

 内心ほっとする卯月に対し、タマはさらに言った。

「良いか。今のお前さんの言ったこと……動機が自分の為であるということは、奴に呼びかけている間も忘れてはならぬぞ。言葉選びに気を付けよ。そして、抱く感情の波にも気を付けよ。相手は猫だ。それも、神使ではない。あたしのような立場の者もでもない。化け猫相手に言葉で交流するのは大変難しい事だ。それを分かった上で挑むのだ」

 タマの言葉に卯月は無言で頷いた。

 すると、タマは続けて言った。

「相手は殺意を持つ者だ。恐らくこれまで何度もお前さんを事故死させようと呪っただろうな。だが、お前さんには常にあたしがついている。呪いは作用せず、お前さんも生きたままだ。きっと苛立っているはずだぞ。お前さんの身体を直接的に引き裂きたいくらいにはね。そんな中での説得だ。根本から見誤っていては、相手を怒らせるだけとなるだろう。また、お前さんが見誤っておらずとも、見誤っていると思われれば同じ事だ。しっかりと弁えていても、猫の方に誤解されればお前さんの心が傷つくだけで終わってしまうかもしれないぞ。お前さんはそれでも良いのだな?」

「……はい。それも覚悟の上です」

 卯月は言った。

 意味はないかもしれない。お互いに傷つくだけかもしれない。それでも、だとしても、卯月は猫に訴えたかった。

 こちらが斬るのだとしても、こちらが引き裂かれるのだとしても、そうなる前にもう少しだけ交流を試みたかったのだ。

 卯月のそんな本心を読み取ったのだろう。タマは穏やかな声で言った。

「よし。それならば、好きにするといい。あたしには止める権利などない。試してみて、駄目だった場合にあたしは動く。それでいいな?」

「はい!」

 タマの言葉に勇気づけられ、卯月は気合を込めた。上手く行くとは限らない。それでも、試せるかどうかという違いは大きい。試してみて駄目だったとしても、そこで生まれる無力感は、試すことすら出来ずに生まれる心残りよりはマシなはず。

 だから、機会を得た卯月は心を落ち着けて公園へと走った。

 戦う前に、猫に呼びかける言葉をまとめるために。溢れんばかりの伝えたい気持ちを分かりやすく簡潔なものにするために。

 そして、その思いがちょうどまとまりつつある頃に、公園は見えてきた。

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