2.当たり前の消えた日

 生まれた時、猫は不幸だったかもしれない。気づけば生みの母はおらず、秋雨の降る草むらの中で震えていた。けれど、猫は運が良かった。頼れるものを捜してにゃあにゃあ鳴いているうちに、彼女に見つけてもらったからだ。

 それ以降、猫は温かい家の中に招かれた。当たり前にご飯が食べられる暮らし。当たり前に飼い主の温もりを求められる日常。時折、飼い主と一緒に近くの公園へ散歩をすることが、猫にとっては楽しみの一つだった。

 しかし、その楽しみにだって飼い主の存在は必要不可欠だった。自分とはだいぶ違う身体を持っているその大きな母親は、猫の日常を支える大黒柱でもあったのだ。家と、自分と、そして彼女がいればそれだけでいい。少なくとも猫にとってはそうだった。

 けれど、彼女にとってはまだ足りなかったのだろう。人間は同じ人間を求めるものなのかもしれない。真意はともあれ、いつしか猫と彼女のもとにもう一人の人間が加わっていた。その男が傍にいると、飼い主が自分と同じ猫のようになってしまうことに、猫は気づいていた。猫にとってその男は必要なかったのだが、飼い主にとっては違ったのだろう。だから、猫は気にしないことにした。この家と、自分と、彼女がそのままであるのならば、そこに新しい一人が加わっても構わなかった。

 しかし、彼が来て一か月もしないうちに、猫の日常は早くも崩れ始めた。

 人間の当たり前というものを、猫は知らない。人間たちがどんなルールで生きているのか、どうしてそれを守らなくてはならないのかなんて、猫にとってはどうでもいい話だ。猫にとって大切なものは今日と明日、そして明後日以降も続くだろう日常を、それなりに満足する形で過ごしていくことに他ならない。

 よって、人間たちにとって当たり前の決まりごとも、その一部は猫にしてみれば迷惑極まりない行為であることはあるだろう。しかし、彼女が受けた仕打ちは、猫目線はもちろんのこと、人目線であっても不幸に他ならないものだった。

 男は何度も彼女の想いを踏みにじり、その不満をぶつける彼女を殴ったことさえあった。彼女が不幸でいるたびに、猫は何度も願ったのだ。あの男がいなくなればいいのに、と。そうすればまた、幸せだった二人きりの世界が戻って来るはずなのに、と。

 けれど、猫の想いとは裏腹に彼女は男を嫌いになれなかった。

 猫の記憶からは、彼女たちのやり取りの言葉は正確に残っていない。その頃の猫は猫として、過去を記憶していた。兎のお面はそれを発き続け、猫の過去を卯月に追体験させる。当時の猫目線で、猫として、卯月は彼女と男の顛末を見せられた。

 その日、夜明け前から彼女はずっと泣いていた。いつもならば猫が慰めようと必死に呼びかるだけで彼女は泣き止み、猫に対して頷いて、頭を撫でてくれた。しかし、その日は違った。猫が呼びかけても彼女は泣き止まなかった。泣いたまま立ち上がり、猫を無視する形で室内をうろうろし始めた。猫は諦めずにその足元にまとわりついたのだが、彼女は優しく向き合ってくれなかった。

 そして、猫の見ている前で、彼女は自らの身体を吊ってしまったのだ。

 猫がその目で見たその光景を、卯月もまた兎のお面によって目撃してしまった。人が自ら死を選択するその絶望的な光景。あまりにショッキングなその記憶は、卯月の心に深刻な一撃を与えてくる。それでも、卯月は心の目を瞑らなかった。

 ──向き合わないと……。

 心の中で何度も呟き、その光景を見つめ続けた。

 この人さえいればそれでいい。猫がそれほど愛した彼女がもがき苦しむ。その足元で、猫はどうしていいか分からずに右往左往していた。やがて、彼女が動かなくなった後もずっと、猫は彼女を見上げて呼びかけ続けた。

 ひたりひたりと水の滴るような音が聞こえ始め、それが時計の針と重なって猫の耳に伝わってくる。そのまま何時間、そうしていたのだろう。しばらくすると家の鍵が開く音がして、彼女がこうなるまでずっと愛し続けたあの男がやってきた。

 男は彼女の有様を見るなり取り乱した。吊るされた彼女の身体を急いで降ろし、猫よりもやや乱暴に彼女に呼びかけていた。だが、彼女は動かないままだった。やがて、慌てて何処かへ電話をかけた。それから先は、猫にとって目まぐるしく事は運んだ。何人もの人間たちが猫と彼女の住まいを踏み荒らし、冷たくなった彼女を運び出していく。猫はどうにかついて行こうとしたが、それは許されなかった。それから、猫にはもう分からなくなった。彼女は何処へ連れて行かれたのか。どうして帰ってこないのか。分からないまま、誰もいない家で留守番をし、誰かが家の扉を開けて入って来る度に、彼女が帰って来たのではないかと期待して、玄関へと走っていった。

 けれど、彼女は帰ってこなかった。この時点で、彼女はもう帰ってこないのだという事を、猫は薄々分かっていたのかもしれない。

 またしばらくすると、男が家にやってきた。男は知らない人々と一緒にいた。そして、いつも猫が彼女と外の世界に行くときに使っていたカバンを勝手に持ち出すと、猫を捕まえようとしてきた。猫はそれを嫌がった。信用ならない人間たちに何をされるかも分からない状況を怖がらないはずがなかった。猫は人間たちの手を逃れ続け、たまたま開けっ放しだった玄関扉から外へと逃げ出していった。

 それでも、猫は遠くまではいかなかった。人間たちから身を隠し、時折、食べられるものを食べ、飲めるものを飲んで生き永らえて、彼女と共に暮らした家の傍で屯した。猫が待っていたのは過去の日々の訪れだった。幸せだったあの頃が再び帰って来るという可能性を捨てきれなかった。ここにいれば、いつかまた彼女が帰ってくるのではないか。そう信じることがやめられず、猫はずっとかつての住まいの近くにいた。

 そんな猫のことを、事情を知る人間たちは憐れんでいたのだろう。お面によって目撃している卯月には、猫に近づいて来る人間たちの想いがそれぞれ理解できた。その中には、猫に新しい幸せを用意してやろうとしていた人間もいたようだ。もちろん、良い人間ばかりではない。猫を虐めることに興じる者は何処にだっているものだ。けれど、孤独になってしまった猫の生を終わらせたのは、夜道を走る車だった。

 車の轟音とヘッドライトの光が脳裏に浮かび、卯月は息を飲んだ。

 これが、兎の面が見せてくれた、猫の思い出の全てだった。

 当たり前の幸せの中にいた時間と、その当たり前が崩れてしまってからの時間。圧倒的に長かったのは、幸せだった時間の方だ。それでも、幸せが崩れてからの数日間の記憶は、あまりに濃すぎて長く感じてしまう。そこに満ちている絶望感は、こうして見ているだけの卯月の心までも蝕もうとしていく。

 自分事ではないはずなのに、自分事のように辛い。

 気づけば卯月は泣いていた。お面の下から頬を伝っていく涙の感触に気づき、卯月はぱちりと瞬きをした。

 猫は死んだ。車に轢かれて命を落とした。けれど、その死は猫を苦しみから解放してくれなかった。滅んだ肉体は清掃され、とっくになくなってしまったけれど、報われなかった魂は時雨原をさまよい始め、ただの猫の時には理解できなかったことを理解できるようになっていった。

 猫は知り、理解した。彼女が何に苦しんでいたのか。

 そして、彼女を不幸にした男が、その後、どうしているのか。理解したために、猫はそのまま化け猫となったのだ。

「卯月」

 そこまで目撃したところで、突如、タマの声が聞こえてきた。

 お面の力が弱まり、卯月の視界が戻る。すると、化け猫が動き始めているのが見えた。

「いよいよ来るぞ。何処か広い場所……近くの公園まで引き寄せるのだ」

 タマがそう言った直後、化け猫は襲いかかってきた。

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