9章 愛された猫の怨念

1.あの時と同じように

 影の中にいるタマの気配を有り難がりながら、卯月は自宅近くの通りへと向かった。

 自販機だけの並ぶ駄菓子屋跡。日が落ちると静かになるその場所は、なるべく明るいうちに訪れたいところだったが、八子によれば日が落ちた後の方が繋がりやすいとのこと。平時であれば絶対に避けるだろうことだが、今回に関しては繋がらなくては先へ進めない。よって、卯月は覚悟を決めて、現場を訪れていた。

 手に握り締めるのは、五円玉の御守である。

 縁を結ぶというその御守が、果たしてうまく作用してくれるのかは卯月も半信半疑であった。しかし、あの時と同じように自販機の前に立ち、言われていた通りに五円玉に結ばれた赤い紐を摘み、軽く揺らしていると、お面で制御されていた卯月の視界は、五円玉が揺れるたびにどんどん歪んでいった。

 それに合わせて卯月の耳に聞こえてきたのは鈴の音だった。タマが化け猫相手に鳴らしていたあの鈴の音と同じだ。チリン、チリンという優しい音は、この場においては少々不気味にも思えた。しかし、それを覆い隠さんと溢れだしてきたのは、その他あらゆる幻聴たちであった。

 それは、卯月にとって久々の感覚だった。

 工事の音、車の音、人々の喧騒、クラスメイトのはしゃぐ声、あらゆる音が音とぶつかり合い、頭の中に反響する。木霊と木霊が共鳴し合って蘇るのは、卯月がこれまでに目にしてきたあらゆる場面だった。

 兎のお面と共に見た景色が脳裏を駆け巡り、記憶と共に日付も遡り始める。まるで、時計の針が高速で巻き戻っていくように、卯月の感覚も巻き戻っていく。そして、ある地点において、卯月の耳を襲っていた幻聴はぴたりと止んだ。

 再びしんと静まり返った周辺に響くのは、自販機の無機質な音だけだ。しかし、ここへ訪れた時と違う空気が流れ始めたかと思うと、卯月の手で揺れていた五円玉の御守がぴたりと動きを止めてしまった。

「いよいよだ」

 タマの声が聞こえた直後、卯月の視界には突如黒猫が割り込んできた。

 にゃおん、と、普通の猫のように黒猫は鳴く。自販機の前で照らされていたその猫は、両目を光らせ卯月をじっと見つめると、その視線を惹き付けるように尻尾を立てて走り出す。その先に現れたのは女だった。

 あの時と同じ光景。同じ状況。卯月は息を飲みながら、心を落ち着かせた。

 ──彼女は幻影だ。

 卯月は自分に言い聞かせた。

 ──本体は、猫の方だ。

 そして、じっとこちらを見つめてくる女ではなく、女の胸元でこちらを窺っている黒猫の方へと目を向けた。猫はじっと目を細め、卯月の意図を窺ってくる。その警戒した様子にやや怯みそうになる卯月を、影の中からタマが叱咤した。

「怯むな。目を逸らすな。ここで目を逸らせば相手に隙を与える。取り逃がしては、しばらく身を潜めてしまうだろう」

 その言葉に励まされながら、卯月は覚悟して黒猫に視線を返した。

 ただ睨むのではない。卯月の心にあるのは猫への憐れみだった。絶対にあの猫を救う。その強い想いが卯月の身体の震えを抑える。殺されるかもしれないという恐怖よりも、救わねばならない、止めねばならないという信念の方が先走る。その思いは弾け、うっかり気を抜けば焦りにも繋がりそうになる。その度に卯月は心を抑え込み、深呼吸をしながらじっと黒猫を見つめていた。

「それでいい」

 タマの声が聞こえてきた。

「そのままじっと猫の目を見つめよ。猫の想いを見つめるのだ」

 その言葉に支えられながら、卯月は猫の目を見つめ続けた。

 猫を抱いている女は頻りに何かを言っている。だが、卯月の耳に入るその声すら、猫の声に聞こえてきた。

 もしかしたら本当に猫の声なのかもしれない。あの飼い主の女性が幽霊ではなく、猫の思い出から生まれた幻なのだとしたら、飼い主が語り掛けてくれた言葉の多くを理解できなかったかもしれない。死後になってどうにか思い出そうとして、あのような声になっているのかもしれない。

 そう思うと卯月はさらに猫を憐れんでしまった。

 だが、そんな卯月にタマは言った。

「憐れむのも良いが、もっと向き合うのだ」

「向き合う?」

「ああ、思いに寄り添うためには心情を推し量るだけでは足りぬ。まずは話を聞いてみるがいい。聞かないことには寄り添いたくとも寄り添えぬ」

 タマの言う事ももっともだと感じ、卯月は耳を研ぎ澄ませた。

 卯月の想いに共鳴したのだろうか。彼女の素顔を隠す兎の面の耳が一瞬だけぴくりと震えた。そして最初に伝わって来たのは、寂しそうな声で鳴き続ける猫の声だった。

 誰かを呼ぶような、探しているようなその声は、どこからともなく聞こえてくる。見つめている化け猫は、人間の方も黒猫の方も口を開けていない。それでも、卯月にはその声が、あの黒猫のものであると理解できた。

 では、探しているのだろうか。愛する飼い主の事を。卯月は考えながら耳を傾けようとする。しかし、そんな卯月に対して、影の中からタマは言った。

「しばし目を閉じてみよ。もっと耳を澄ますのだ。考えてはならぬ。その兎の面の耳を通せば真の言葉が伝わってくるぞ。一切の思い込みを捨てよ。“彼女”の声に向き合うのだ」

 タマの助言を聞いて、卯月は目を閉じた。耳を澄ませて猫の声だけに向き合った。考えてはならないという言葉に従って、卯月は無心になった。聞こえてくる声だけを受け入れ、何も考えない。そうして聞いているうちに、卯月の脳裏に言葉が浮かんできた。

 ──ニクイ。

 にくい。憎い。

 猫の言葉が人間の言葉となる。その声に込められた感情が、卯月にも分かる言葉に変換されている。

 ──キライ。サミシイ。ツライ。ニクイ。ドウシテ。

 猫の言葉が途切れ途切れに卯月の脳裏に浮かび上がる。

 その言葉に静かに向き合っているうちに、卯月の頭には明確な人の声が聞こえてきた。

「ニクい」

 それは、少女のような声だった。

「ダレもカノジョをスクわなかった。ダレもカノジョをトめてくれなかった。ワタシはスベてがニクい。シアワせなヒビをコワしたスベてがニクい。ワタシからスベてをウバったニンゲンたちがニクい。だからハカイする。スベてをコワしてやる」

 あの猫の声だ。

 卯月はそれだけを頭に浮かべ、目を開けた。

 黒猫は女に抱かれたまま卯月を見つめている。その目には敵意が込められていることがよく伝わってくる。しかし、卯月はもう怖くなかった。

「キラいだ」

 猫は言った。

「スベてキラいだ。ニンゲンなんてキラいだ。カノジョをワタシからウバった。どれだけサミしかったか。どれだけツラかったか。ワタシはバツをノゾんだ。カノジョをフコウにしたあのオトコをコらしめてホしかった。なのにどうして。どうしてトキサメサマはあのオトコをユルすのだ。どうしてコらしめてくれない」

 悲痛な思いが波のように押し寄せてくる。

 卯月はそれをただただ受け止め、向き合い続けた。

「キラいだ」

 猫は尚も言う。

「カノジョイガイのスベてがダイキラいだ。シグレバラなんて……このセカイなんてホロんでしまえ」

 直後、女に抱かれたまま猫は長い声で鳴いた。魂を揺さぶる狼の遠吠えにも似たその声が夜道に響き渡る。言葉に変換されなかったが、感情は直接的に伝わってきて卯月の胸を抉ってくる。たった今、卯月の脳裏に伝わってきた全ての言葉が込められた呪詛の声。卯月にはそう感じられた。

 吠え終わると猫は再び卯月を睨みつけた。暗闇に光るその二つの目を見つめていると、兎のお面が反応を見せた。猫の目の光と共鳴し合い、卯月の脳裏に浮かぶのは、死後もなおこの猫を捕らえ続ける記憶だった。

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