3.猫から見た世界
その黒猫にとって、彼女は全てだった。
拾われたのは小さな子猫の頃だった。そのため、猫にとっては母親のようなもので、唯一の甘えられる相手でもあった。
猫には猫の常識しか分からない。ふたりきりで一緒に遊んでいる時は楽しそうなのに、家族のはずの一人が増えると彼女がどうして暗い顔をするのかあまりよく分からなかった。最初の頃は彼の事も嫌いなわけではなかった。それでも、彼女が危害を加えられたところを見て以来、猫にとって彼は恐ろしい化け物のようにすら感じられた。
それでも彼女は彼と一緒にいる。嫌だけれどそういうものなのだと理解していた黒猫は、彼女とふたりきりになった時の束の間の安らぎを楽しみに日々を生きていたのだ。だから、猫はいつも彼女に寄り添っていた。彼女が泣いている時には、声をかけたりもした。猫は猫なりに心配していたのだ。その気持ちが彼女に伝わっているかどうかは分からなかったが、声をかけるといつも撫でてくれるので、猫は嬉しかった。
彼女は優しい人だった。
猫にとってかけがえのない大切な人だった。
構ってくれる彼女もまた、笑顔を浮かべていたはずだった。
それなのに、彼女はある日を境にいなくなった。
「正体がはっきり分かればこちらのもの」
八子はそう言って、軽く目を閉じた。
「あの黒猫は今も時雨原を彷徨っている。その感情も、タマちゃんと卯月ちゃんのお陰で今ならはっきりと読み取れるわ」
そして、八子は語った。
大好きな飼い主がこの世を去ってから、遺された猫の日常は崩れ去った。行き場を失った猫を憐れんでくれた者もいるにはいたが、それは大好きな彼女などではない。引き取られる前に黒猫は家を出て、もう何処にもいない彼女を求めて流離った。
だが、猫というものは案外馬鹿ではない。知らないうちに外で死んでしまったならばともかく、彼女が冷たくなっていく現場を目にしていたからこそ、本当は分かっていたのだ。彼女はもう何処にもいないのだと。それでも受け入れたくない強い想いに駆られ、猫は時雨原をうろついた。怒りのままに、悲しみのままに、恨みのままに、憎しみのままに。そして、ある時、猫もまた暗い夜道に突然現れた目を光らせた鉄の怪物によって命を落とすこととなったのだ。
だが、死後に苦しみから解放されて眠りについた飼い主とは違い、黒猫は死による安らぎは得られなかった。何も分からないまま突然幸せを奪われた猫には思い残したことがあったのだ。それが、恨みを晴らすということだった。
「死というものは時に生前には出来なかったことを可能にする」
タマは言った。
「生きている時にしか出来ない事もあれば、死んだ後にしか出来ない事もあるのだ。かの黒猫は死することでそれを知り、死した者としての力を使って恨みを晴らすことにしたのだろう。そうすることで、死後も続くその悲しみが癒えることを期待したのかもしれぬ」
「けれどね、そうはいかないのよ」
八子が言った。
「あの猫ちゃんも、最初はきっと彼女をいつも泣かせていた男だけが標的だったはずよ。けれど、彼を思い通りに殺しても、心は晴れなかったのでしょうね。だから、次は彼女と親しかった相手に向かった。アタシ達からすれば、『なんで?』って思うわよね。けれど、猫だもの。人間の当たり前なんて分からないわ。どうして止められなかったのか、どうして守ってやれなかったのか、そんな疑問に答えてくれる者もいない。分からないというもやもやが、そのうち恨みになってしまったのでしょうね。大切な人と一番親しかった人だからこそ、怒りがそちらに向いてしまったのね」
しかし、悲しみは消えなかった。怒りも恨みも憎しみも、何一つ消えなかった。
そして、矛先はさらに男の母親へと向く。
猫は彼女に会ったことがあるが、猫にとってあまり優しい人間ではなかった。その上、男には甘く、大好きな彼女には冷たい態度を取る事もあったことを猫は忘れていなかった。人を二人も殺した化け猫となり、ただの猫の時とは違って物の見え方が少し広がったおかげで、彼女こそがあの男の母親で、あの男を育てた人物なのだと知ることとなり、許せない気持ちから逃れられなかったのだ。
そして、男の母親もまた猫によってこの世を去った。
それでも、心は癒えない。
怒りは静まるどころか膨れ上がり、悲しみもまたより深いものへと変わっていった。猫の次なる標的は、男の母親を殺した際にたまたま居合わせた女性だった。彼女の事を猫は覚えていた。突如のことにどうすればいいか分からず迷ってしまったごく普通の一般的な人間であったが、猫にとっては愛する飼い主を助けてくれなかった、役立たずの人間に過ぎなかったのだ。
男子小学生もその一人だった。生前、飼い主と共に公園に散歩に行く事は猫にとっての幸せの記憶だった。その際に猫と触れ合うことを楽しみにしている男子のことも、猫はよく覚えていた。しかし、ただの猫の頃ならば好意を持っていたひとりのはずだったのに、化け猫となってしまった今の猫にとってみれば、飼い主と親しいはずなのに手助けしてくれなかった人物の一人になってしまっていた。
猫には猫の道理しか分からない。
相手がまだ小学生で、十歳の男の子で、大人の女性を救うことなど不可能であるなんてことも、猫には分からなかったのだ。
そして、その小学生も命を落とすこととなった。
彼もこの世を去ってしまうと、いよいよ猫は怒りをぶつける先を失った。猫にとって飼い主こそが全てであり、他の人間など殆ど知らなかった。知っていた人間たちは全てこの世から消してしまったのだ。そうなると、いくら怒りや憎しみ、悲しみが湧いてきても、晴らす先がいなくなってしまった。
ここから、猫の怒りは関係のない人々にまで及んでいくこととなった。
「怒りというものは恐ろしいものね」
八子は言った。
「心ある者は感情と知性を天秤に載せた状態でいる。生者も死者もそこは同じよ。どちらかに偏り過ぎれば必ず悪い影響が出る。感情の暴走はね、知性を蝕むものなの。今の化け猫は赤ちゃんが不快を感じて泣くように人を呪い、殺すことしか出来なくなってしまっているわ」
この状態が続けば、いつかは卯月にとって大切な人も巻き込まれるかもしれない。
そうでなくとも時雨原にとって良くない事には違いない。
このまま放置しようものなら、時雨童女の浄化は間に合わないだろう。果ては時雨童女自体が狙われ、害されることがあれば、この地は守り神を失うこととなるだろう。
「時雨原のためにも、化け猫を止めないと……」
卯月が呟くと、八子は落ち着いた様子で肯いた。
「そうね、良かった。卯月ちゃんがその気でいてくれて。今の化け猫を止められるのは、この時雨原でもあなたとタマちゃんだけよ。あなたの持つ『猫ノ手』が、化け猫をその悲しみと恨みともども斬る事が出来れば、全てが解決するでしょう」
「斬る……」
緊張気味に言葉を返すと、横にいたタマがちらりと卯月に視線を送った。
「安心しろ。あたしがついている。あたしと一緒ならば、お前さんにも必ずや化け猫を斬ることが出来るだろう」
そう励まされるも、卯月は少しだけ考え込んでしまった。
斬る。あの化け猫を。たった今、その黒猫の不幸な話を聞かされてしまったからだろうか。斬るという事自体に妙な抵抗を覚えてしまったのだ。
それを察したのか、タマは囁いた。
「斬るのはあの黒猫のためでもある」
「猫のため……?」
「ああ、かつてのあたしも八子様に斬られたことで落ち着いたのだ。あの猫はいま、かつてのあたしのように苦しんでいるだろう。かの苦しみから解放してくれるのは、感情のままに人を殺すことではない。お前さんの操る『猫ノ手』ならば、かの猫も呪詛から解き放たれることだろう」
そして、タマは呟くように言った。
「あたしはお前さんに助けて欲しいのだ。かつての自分のような、あの化け猫のことを」
その言葉は、卯月の心にずしりと圧し掛かってきた。
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