4.繋がる記憶

 卯月が影法師に触れると、その輪郭が一瞬だけはっきりと見えた。

 ──あれ?

 その瞬間、卯月の脳裏には先ほど目にしたばかりの記憶が重なった。

 目撃したのは交通事故にあったあの主婦だ。生前、彼女はここを通りかかって、最悪の現場を目撃してしまったのだろう。目を丸くして慌てた様子で見つめるその先を、卯月もまた恐る恐る目で追った。

 すると、影法師の揺らめいていたマンションの一室に、先ほどまではいなかった女性の姿があった。卯月がその姿を見た瞬間、転落事故は起こったのだった。悲鳴が響き渡る。落ちた女性と、目撃した女性と。そして人形のように女性が落ちていくその光景が、目に焼き付いてしまった。

 心臓が凍り付いてしまいそうなその光景の中で、卯月はふと気づいた。女性の落ちたベランダに別の誰かがいる。その誰かもまた女性らしい。卯月は息を飲んだ。目を凝らさずとも、その姿は良く見えた。化け猫だ。黒猫といつも一緒にいるあの女が、落ちていった女性を見下ろしている。その足元に黒い影も見える。黒猫だろう。

 背中を押したのだろうか。

 卯月がもやもやしている間にその光景は消えてしまった。現実に戻されて、卯月はしばし惚けてしまった。誰もいないベランダを見つめているのは自分だけ。この場所であれを目撃した主婦もまた、その数日後には亡くなっているわけだ。

 そこにもやもやしたものを感じていると、影の中からタマが声をかけてきた。

「マンションにもっと近づけるか?」

「え……えっと、はい」

「ならば、先ほど目にしただろう。彼女が落ちた辺りに近寄ってみよ」

 そう言われ、卯月は恐る恐る歩みだした。彼女が落ちた先は駐車場がある。車は止まっておらず、何も見えない。だが、ちょうどその場所に立ってみると、瞬時に頭に浮かび上がったのは、全く違う記憶だった。

 そこが何処なのか、卯月には分からない。家の中のようだが、あのマンションの中なのだろうか。ともかく居間に先ほど落ちた女性はいて、家族らしき若い男性の写真を見つめていた。物悲しい空気なのはすぐに分かった。祭壇があって、骨壺が置かれている。息子だったのだろうか。納骨もされていないことから、亡くなってまださほど日が経っていないようだと卯月は気づいた。

 手を合わせながら彼女は深くため息を吐いていた。

 記憶はそこで終わってしまった。卯月はその場に立ち尽くし、俯いた。まただ。この記憶もまた、さっきの横断歩道の女性と同じ。これまでのような怪談とは違う記憶を持っている。それなのに、どうして化け猫の犠牲となったのか。

「この女性は確か三番目だったかな」

 タマの囁きが聞こえ、卯月はすぐさま手帖を開いてから頷いた。

「はい、工事現場、横断歩道に続く三番目ですね。二番目の人も少し事情が違う用でした。ひょっとして、この頃はまだ化け猫も違う目的があったのでしょうか」

「恐らくそうだろう。たまたま出会ったのではなく、相手を明確に選んでいるようにあたしには思えるな。ここからあの目撃者の主婦に向かったのはたまたまかもしれない。まだ確かめてみないと分からないが……」

「とりあえず、次に行ってみますか?」

「ああ、次は学校だったか」

「はい、中学校のプールです」

 卯月は呟きながらそっと手を合わせると、静かにマンションを離れた。

 記憶の中の光景とはいえ、悲鳴は耳から離れそうにない。ここで人が死んだ。それを目撃した人も死んだ。その事をあまり深く考えないように努めながら、中学校へと向かって歩いていった。

 中学校は歩いて十分もかからない場所にある。立ち入る事は出来ないものの、プールは屋外にあり、フェンス越しに少しだけ覗くことが出来た。もやもやした影法師は敷地の中にあるらしい。それを確認してから、卯月は周囲を見渡した。しかし、残念ながら先ほどのような目撃者の影法師は見当たらなかった。

「どんな事故だったのだ?」

 タマに問いかけられて、卯月は答えた。

「男子中学生がプールで溺れたそうです。足が攣ったとも言われていますが、ニュースだけだとよく分かりません。クラスメイトもたくさん目撃していたらしいのですが……。それで、ここからは噂なのですが、生前、彼もまた化け猫を目撃したと言われています。嘘か本当か分かりませんが、亡くなる直前に見たのだと親友に語っていたそうです。その内容が、小学生たちの語る噂と一致していたらしいのですが、彼が亡くなったタイミング的には知っているはずもなくて、偶然にしてはおかしいって……」

 嘘か本当化は分からない。何せ、噂は噂だ。誰が言い出したのか、どのような人がどのような経緯で語り継いできたのかも分からない以上、信憑性を確かめることは難しい。

 それでも、参考になる情報ではあるかもしれない。

「なるほどな」

 タマはそう言うと、影の中でじっと考え込んだ。

「見えたぞ。お前さんにも見せてやれないのが残念だが、ここへ来た甲斐はあった。恐らくこの少年は運悪く巻き込まれたのだろう」

「そうなんですね」

 卯月は呟いてから静かに手を合わせた。

 時系列的にはここでの事故は小学生の後に起こったはずである。やはり、主婦が巻き込まれた交通事故からターゲットが変化しているのではないか。

 卯月が薄っすらと考えていると、タマが急かすように言った。

「日が暮れてしまう。その前に工事現場だ」

「は、はい」

 慌てて中学校を立ち去って、卯月はそのまま工事現場へと向かった。

 中学校から五分もかからない位置にあるそこは、商業ビルである。大がかりな改装工事をしている途中で、今もその作業は終わっていない。事故当時は歩道が塞がっており、誘導員の立会の下で車道を通っていたらしい。

 それにも関わらず、事故は起きた。鉄パイプが突如外れ、強風の影響もあってか寄りによって通行中だった男性の頭上に直撃したのだという。

 卯月が立ち寄った時、作業場には誰もいなかった。事故現場となった辺りはもう規制もなく、歩道を歩めるようになっている。そしてその近くには影法師がいた。促されるまでもなく卯月はそれに近寄ると、そっと声をかけてみた。

「あの……」

 すると、その光景は浮かび上がった。

 空は明るく工事現場には音が響いている。卯月が振り返ると誘導員が今まさに、最初の犠牲者となった男性を通そうとしているところだった。

 彼が、最初の犠牲者。

 卯月はその顔を見つめ、ふと気づいた。見覚えのある顔だ。誰だっただろうかと思い返してハッとした。マンションの一室にあった遺影の男性だったのだ。

 ──じゃあ、あの人の息子さんってこと?

 あの時の写真では分からなかった、生前の彼は少々ガラが悪いようだった。もとから強面なのだろうか。歩いているだけでも近寄りがたい人物だと卯月は思ってしまった。しかし、そんな彼であっても、その後に起こったことにはさすがに同情してしまった。

 ガラガラと大きな音が聞こえてきたと思った直後、物凄いスピードで鉄パイプが落下した。その一瞬の出来事を卯月はしっかり見てしまい、血の気が引いた。

 周囲の人々がややあって騒ぎ出す。即死だったのだろうか。彼はぴくりとも動かない。血がじわりと地面に広がっていくのを見つめながら、卯月は思わず後ずさりをした。だが、その時、視界の端に移り込むあの姿に気づき、我に返った。引っ張られるように右を向けば、その先にはあの化け猫がいた。

 女と目が合って、卯月は息を飲んだ。気のせいだろうか。直接戦った時よりも、生きている人間らしい表情に思えた。その足元で黒猫もこちらを見つめている。猫の方はあまり変わりがないらしい。

「卯月。彼の倒れているあたりに立つのだ」

 タマに言われ、卯月は頷きつつ従った。

 すると、脳裏に浮かび上がったのは、全く違う場所の光景だった。

 血相を変えて女が何かを叫んでいる。叫んでいるのはあの女だ。化け猫。いや、化け猫ではない。生きている。生きている頃のあの女が、生きていた頃の男性に向かって怒りをぶつけていた。

 しかし、何を言っているのかが卯月には聞き取れなかった。まるで威嚇する猫が甲高い声を上げているかのよう。対する男性の怒鳴り声もまた、猫のように感じられた。二人とも人間なのになぜだろうと卯月が思っていると、タマの声が聞こえてきた。

「ほれ、目撃者はこっちだ」

 呟くその声に、卯月はやっと気づいた。

 この記憶、どうやら犠牲となった男性のものではない。恐らくこれはこの場にいた第三者のもの。二人の喧嘩を部屋の隅で見つめている黒猫のものだ。黒猫の記憶がどうしてここにあるのか。それは卯月には分からない。

 だが、ここで一つはっきりしたことがある──。

「とにかく、この男が鍵だった」

 タマがそう言うと、浮かび上がっていた光景はふっと消えてしまった。

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