2.死者の記憶と向き合って
交通事故が四件。工事現場の事故が一件。マンションの転落事故が一件。プールの事故が一件。落下物の事故が一件。
それらの現場を頭に入れ、卯月は時雨原を歩いていた。
だが、その足取りはあまり思わしくない。歩けば歩くほど卯月の頭に思い浮かぶのは、先ほどの少女から見えた生々しい最期の記憶だった。
ブレーキ音と激しい衝突音。そして少女のあげた悲鳴。それらは音の記憶となり、卯月の脳裏に目撃した覚えもない少女の見た最後の光景が浮かび上がる。それは、少女に黙とうを捧げた際には大した負担に思えなかった。ところが、時間が経てば経つほど、記憶は何度も蘇り、蘇る度に卯月の心を傷つけてくる。
歩いていくうちに、卯月の足取りが重くなっていくのもそのせいだった。これから八人だ。八人分の記憶を見なくてはならないわけだ。
いつも渡る信号にたどり着くより前に立ち止まってしまうと、足元からタマが静かに声をかけてきた。
「どうした?」
「いえ……ただ──」
何と答えるべきか口籠っていると、タマは言った。
「辛いのか?」
真っすぐ問われて卯月は答えに詰まってしまった。
手伝うと決めたのは自分だ。この手段を提案したのも自分だ。そうであるがために、今更になって怖いなんてことを卯月には軽々しく言えなかったのだ。
しかし、タマは言った。
「気にすることはない。よくある事だ」
「よくある事?」
「ああ、お前さんはまだ生きている。命あるもの。死んだことがないお前さんが死を恐れるのは当然のこと。同胞の死というものはそうでなくとも辛いものだ。たとえそれが縁もゆかりもない人物であったとしても、誰かが命を落とした瞬間の記憶と繋がるのは辛くて当たり前だろう」
「そう……ですね」
恐る恐る卯月は言って、そして軽く目を閉じた。
卯月の頭に浮かんでくるのは少女の見た光景である。フィクションなどではないその記憶は、いつも見せつけられていたいかなる幻覚よりもキツイものがある。
しかし、卯月はここで深呼吸をした。事故は確かにあった。酷い事故だったのだろう。その当時の電信柱はもう変わってしまったのだろうか。だとしても、少女の死の恐怖はあのようにこびりついたままである。
それでも、卯月は考えた。大きく変わっていることがある。それが、街路樹の存在だ。あの場所にある上込みは、あの場所から離れられない少女の残像を車から守ってくれることだろう。あの場所に何故、木が植えられることになったのかは分からない。それでも、誰かがまた少女のように命を落とす可能性は低いと言えるだろう。
過去は知る事が出来ても、変える事は出来ない。変えられない以上、今を生きる者に出来ることは、そこに散った者へしばしの想いを馳せ、未来を見つめ直すということだ。
卯月はそう思いながら再び前を見た。すると、突然、お面の下から見える世界が明るくなった気がした。同時に、背後でぱちんと何かが弾けるような音が聞こえ、卯月は振り返った。そして、すぐに異変に気付いた。
先ほど影法師が揺らめいていた電信柱の辺りが、今は妙に明るくなっている。
「おお……」
タマが呟くように囁いた。
「すごいぞ、これは。よくやった」
「何が……ですか?」
恐る恐る訊ねると、タマはくすりと笑った。
「無意識だったか。だとしても良い。お前さんが死の記憶と向き合い、何かしらの思いを馳せた。それがどのような内容だったかあたしには分からない。分からないが、どうやらあの少女はそれで納得したらしい。お前さんのお陰でな」
「納得……わたしのお陰で?」
半信半疑の卯月に対し、タマはさらに言った。
「少しは喜べ。あのようにこびりついた記憶はな、トキサメ様でさえ浄化しきれず残ってしまうものなんだ。やはり、ああやって最後までそぎ落とせるのは、気持ちの分かる同胞だからこそ、ということだろうな」
タマは感心したようにそう言った。
だが、卯月にはやはりぴんと来なかった。自分の行為がたまたま良い結果に結びついたのだという事は分かったものの、同じような事をまた出来る自信がなかったからだ。
けれど、少なくとも勇気は湧いた。先ほどまでの重たい死の衝撃からは少しだけ気持ちが解放されている。その事に気づいた卯月は、再び一歩を踏み出すことが出来た。
黙々と歩きだす卯月に、タマは言った。
「一番近いのは、八番目の犠牲者のところだ」
「はい……あそこですね」
信号待ちをしながら、卯月が見つめるのは、横断歩道を渡ったすぐ先の歩道であった。現在その周囲はカラーコーンで規制が敷かれている。窓ガラスが突如割れたビルは立ち入りが制限されており、人が亡くなった辺りには生々しい血の染みが残っていた。
影法師はその手前にいた。コーンバーの前にぼんやりと立っている。卯月にはその表情すら見える気がした。おそらく茫然としている。きっと不思議に思っているのだろう。死んでしまった自覚が薄いようにも感じられた。
信号が変わり、卯月はその影法師に近づいていった。そして、すぐ背後までたどり着いてから、さっきのように声をかけたのだった。
「あの……ちょっといいですか?」
すると、影法師は振り返る。振り返ると同時にその輪郭はゆらゆらと揺れ、どこにでもいる若い男性の姿へと変わった。直後、彼の姿は電灯のように消え、瞬時に規制線の中へと移動した。前へと歩く彼の後ろ姿を、卯月は静かに見守った。血痕の残る辺りまで歩いて行くと、突然パリンという音が聞こえ、空からガラス片が降ってきた。
「あっちだ」
その時、タマが声をあげた。
指を刺されたわけではないのに、卯月はその位置が分かった。車道を隔てた向こう側だ。視線を向けるとそこには、あの化け猫の姿があった。女だ。黒猫を抱いた女だ。猫を片手に抱きながら、彼女は窓を指差していた。
──あの人が……窓を割った?
その直後、男性の絶叫が響いた。悲痛な叫びに引っ張られるように卯月が視線を戻した時には、そこにはもう何もなかった。しかし、時間を置いて、卯月の脳裏にはその光景がじわじわ蘇ってくる。音に驚いて空を見上げる男性。その顔を目掛けて迫りくる鋭利なガラス片たち。恐ろしい光景は、実際に目撃したわけでもないはずなのに、何故かリアルな体験のように卯月の心を蝕んでくる。
息を飲みながら卯月は堪え、影の中にいるはずの相棒へと声をかけた。
「タマさん」
「なんだ?」
「化け猫いましたね」
「ああ、いたな。あれこそ証拠だ。八人目の若者も、やはり化け猫の仕業だった」
「事故なんかじゃないんだ……」
「そうだな。しかし、果たしてこれを人間の常識に当てはめられるかどうか。まさか呪いで死んだなど、今の世では通用せぬ。原因不明の破損による不幸な事故。そうとしか思われないだろう。これまでの事故も、次に起こるかもしれない事故もまた同じ」
「じゃあ、せめて私たちが止めないと」
「ああ。だが、止めるためには手掛かりがもっと必要だ。しかし……どうやら、この被害者は、化け猫とあまり接点がなかったらしい」
「それも分かるんですか?」
「ああ。お前さんにも教えてやろう。最期の記憶を共有した今のお前さんになら出来るはず。かの影法師が立っていた場所に立ってみよ」
そう言われ、卯月は躊躇いつつも従った。
影法師がいた辺りを思い出し、ぴったりとその足を揃えてみる。すると、脳裏に一つの光景が蘇った。
真っ暗な夜道を歩いて帰ろうとしている。一人称のその記憶は、恐らく自分ではなくここにいた彼のものだろう。力強く歩いていくその視界の先で、突然物陰から飛び出してきたのは黒猫だった。視界が勝手にそれを追っていく。追うなという卯月の願いも虚しく、その黒猫が飼い主らしき女のもとへとたどり着く光景が目に入ってきた。女は猫を抱き上げると振り返る。そして──。
──来た。
彼女は猫を抱いたまま近づいてきた。
噂の通りだ。目の前に来るわけでもなく、すれ違おうとする。彼もまた道を開けようと脇に逸れた。その時、女の声は、この光景を見せつけられている卯月の耳にもはっきりと届いたのだった。
「アトヒトリ」
彼は息を飲みながら振り返る。しかし、そこにはもう誰もいなかった。
記憶がしぼんでいく。脳裏に浮かんでいた鮮明な光景は消え去り、卯月は我に返った。目の前には事故現場が広がっており、影法師の姿はどこにもない。
今なお地面に残っている赤い染みを見つめながらしばらく卯月が惚けていると、タマの声が聞こえてきた。
「今のところ分かる接点はこれだけだ」
その静かな声を聞き、卯月は妙に辛い気持ちになってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます