7章 この世を去った者の残像
1.お面の力で
化け猫が消え去った後、あれから卯月はタマに言われるままに時雨原の端々を歩いて行った。タマの囁きで決まるその道筋は、卯月にしてみればどんな意味があるのか全く分からない。それよりも、生まれ育ったはずの町なのに、こんなにも知らない場所があるのかと驚くばかりだった。目に入る光景の一つ一つを記憶していると、影の中に潜むタマもまたじっと黙り込んで何かを考えていることまでは卯月にも分かったが、それが何なのかを訊ねてみても、返ってくるのは曖昧な答えばかりだった。
やがて、日が沈むまで歩きとおした果てに、タマは言った。
「今日もありがとう。見たい場所は全て確認できたと思う」
「どうだった?」
「あたしの力不足でもあるが、これだけではやはり追い詰めるだけの手がかりが足りないようだ。やはり、お前さんが昨日言ったような手段を取った方がよさそうだな」
「それって……つまり幽霊探しですね」
「そうだ。だが、今日はもう遅い。日が沈んでから試すのは危険だ。明日の夕方、お前さんにその兎の面の使い方を少し伝授しよう」
「分かりました」
そのやり取りからあっという間に一日は経った。
幻覚に悩まされなくなった学校生活はストレスがめっきり減った。そのお陰でクラスメイトとのコミュニケーションも以前のようなぎこちなさはなくなった。かといって、急に明るい態度を取れるわけではないのだが、世間一般が思うような女子高生らしいとされる放課後を過ごす暇のない卯月にとって、そちらは大した悩みではなかった。
ともかく、卯月はそわそわしていた。
早く時雨原に戻り、お面の使い方とやらを教えてもらいたかった。
終礼が終わり、解き放たれた卯月は身も心も兎になったかのように教室を飛び出し、下駄箱へと向かった。時雨原へ戻る階段を駆け上がり、そのまま門にたどり着くころには、いつものようにすっかり息を切らしてしまっていた。
「相変わらずせっかちだな、お前さんときたら」
耳に届く、呆れたようなタマの声に苦笑しつつ、卯月はすぐに息を整えると門を潜った。
歩道に出て、街路樹の傍で立ち止まると、近くに誰もいないことを確認してから、卯月は影の中に声をかけた。
「それで……お面の使い方っていうのは?」
「まあ、落ち着け。本当にお前さんはせっかちなのだな。すぐに教えてやってもいいが、まずは深呼吸をするといい。ここ数日、お前さんは面の力を使い、霊感をほぼ無となるまで抑えてきた。そこを弄るとなると、久々の感覚に驚いてしまうかもしれない」
「わ、分かりました」
卯月はとりあえず言われた通りに深呼吸をした。
せっかちだと言われるのはそこまで記憶になかったことだ。それだけ前のめりになってしまっているのだろう。
深く息を吸って吐いて、それを二、三度繰り返したところで、タマが声をかけてきた。
「よし、では。前を向くのだ」
言われた通りに卯月は行く手を見つめた。
兎のお面の力はしっかり働いている。少し前ならば怪しい影の一つ二つが突然横切ってもおかしくなかっただろうけれど、今は異様な事は何一つない。普通の景色だけが目の前に広がっている。
「ここからの説明は言葉では少し難しい。だが、なるべく言葉にして伝えるので、心して聞いておくれ」
「……はい」
卯月が頷くと、タマは続けた。
「では、思い浮かべるのだ。お前さんの霊感の瞳は今、かなり絞られている。猫の目で言えば、縦に細長い状態だ。拒んでいるのは強すぎる光ではない。そこに確かにいるが、今は見たくない全ての者たちが見えていない状態だ。そこから少しずつ瞳の大きさを広げていく。分かるか?」
「え、えっと」
卯月は困惑した。
猫の目は確かによく見たことがあるものの、卯月は人間である。人間として生まれ、人間として育ってきた。そんな彼女にとって、猫の瞳が変わるような感覚は難しかった。しかし、卯月は必死に考えた。人間の瞳だって同じように大きくなったり、小さくなったりはする。そう、カメラのレンズのように。
──あのイメージかな。
お面の下で卯月は意識した。絞るのは実際の瞳ではなく、心の瞳ともいえる何かだ。頭の中に架空のレンズを浮かび上がらせ、それを調整していく。うんと想像していくと、やがて卯月の視界は揺らぎだした。
「いいぞ、その調子だ」
影にいるタマにも分かるのだろう。励まされるままに卯月は集中した。そして、しばらくすると、卯月の目にはぼんやりと複数の人影が浮かび上がった。はっきりとした人の姿ではない。しかし、先ほどまではいなかった場所にぽつんと立っている。
「あれは……」
卯月の集中が少し途切れる。しかし、そのことで一度見えた人影が消えてしまうことはなかった。ただいつも見ていた幻覚とは少し違う。消えはしないけれど、その場に立ち尽くしてゆらゆらと揺れているのみ。輪郭も朧気なその姿は、辛うじて人らしきものと分かる程度の影法師のようだった。
「見えたな」
タマが言った。
「ならば、まずは一番近いあれに近づいてみよ」
それは、少し歩いた先の電信柱の前にいる。
卯月は一瞬だけ躊躇ってしまった。
見た目は怖くない。怖い要素はあまりない。それでも、近寄ってはならないような不気味な雰囲気に包まれているのだ。幼子であれば、本能的な恐怖を感じて泣き出してしまう子もいるだろう。
卯月は幼子ではない。それでも、近づく前に息を飲む必要があった。覚悟を決めて一歩踏み込むも、次の一歩を踏み出すのにもまた覚悟がいる。そんな状況でも、なんとか卯月はタマの言ったとおりに近づいていった。
恐る恐る間近まで近づいて行っても、影法師は動かなかった。
こちらのことが見えていないのだろうか。まじまじと見つめながら疑問に思っていると、タマが再び声をかけてきた。
「次だ。声をかけよ」
「声?」
「ああ、何でもよい。じっと影法師を見つめ、挨拶をするのだ」
「挨拶……」
卯月は呟き、言われた通りに影法師を見つめた。
いざ声を掛けようとするも、一瞬だけ躊躇ってしまう。やはり、怖いという思いが強かった。しかし、いつまでもこうしていると日が暮れてしまう。卯月は深呼吸をしてから、影法師に向かって声をかけた。
「あ……あの……すみません」
すると、影法師が揺らいだ。
直後、卯月の視界も同じく揺らぐ。ゆらゆらと影法師が歪み、形が崩れ、再び定まっていく。そうして現れたのは一人の少女だった。
その姿を見て、卯月は目を丸くした。
──同じ制服。
そう、その影法師は卯月が通っている学校の女子生徒だったのだ。いつの生徒なのかは分からない。ずっと変わらない制服は同じだが、見た目の雰囲気は同じ年頃の自分よりも少し大人びているようにも感じられた。
──うちの学校の……幽霊?
卯月が心の中でそう思ったちょうどその時、生徒の幽霊の表情が変わった。目を見開き、じっと見つめるのは車道である。今は植え込みがあり、十分育った木が生えるその向こうを見つめ、口を開けていた。卯月が彼女の表情を凝視していると、突然、その耳に激しい車のブレーキ音が聞こえ、目の前の生徒が悲鳴をあげた。
──ぶつかる!
耳を劈くような衝突音と共に卯月は驚いてしゃがんでしまった。突っ込んでくる車の姿は全く見えなかったというのに、生々しいその体験はまるでわが身に起きたことのよう。しかし、いつまで経っても痛みは現れず、時間の経過と共に卯月はようやく我に返った。
「あ……あれ?」
顔を上げると、そこにはもう生徒はいなかった。
しばらくしてから、タマが声をかけてきた。
「落ち着いたか?」
その言葉に、卯月は我に返って立ち上がった。
「……はい」
何とか返事をすると、タマは影の中から言った。
「これが死者との会話だ。会話というよりも、落ちた記憶を拾うと言う方が相応しいかもしれない。今の少女はだいぶ前にここで命を落としたらしい。そのため、残された記憶もだいぶ薄まっている」
「そうだったんですね。だから……最期の記憶だけが」
卯月は言いかけて、そっと電信柱を見つめた。そこにはもう影法師はいない。誰もいなくなったその場所の前に立ち、卯月は静かに黙祷を捧げた。
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