4.守りの戦い

 黒猫と女──化け猫がまだ動かないうちに、タマは音もなくそっと動き出した。

 懐から取り出すのは、前にも卯月が目にしたことのある鈴だった。猫の首輪のようなその鈴を手のひらにすっと通すと、ようやくその音を鳴らした。

 チリン。

 高く澄んだ音が響くと、途端に化け猫がこちらを見た。

 タマはもう一回、鈴を鳴らす。

 チリン。

 すると、不思議な事に化け猫の位置が瞬時に変わった。まるで、映像が飛ばされたかのようなその移動。普通に歩いて近づくのではない。公園に現れた時と同じように、立っている位置が一瞬にしてだいぶ縮まった。

 そして、タマはもう一度鈴を鳴らす。

 チリン。

 すると、その表情は豹変した。

 長い乱れ髪に青白い肌。まさしく怪談の登場人物に相応しいその姿は、卯月がこれまでに悩まされてきた幻覚たちよりもずっと不気味であった。

 そもそも、卯月がこれまでの幻覚を幻覚と信じて疑わなかった理由は、その姿が生きている人間と大差なかったせいでもある。驚きはするが、怖いと感じないものだってあった。だから、幻覚であると信じることが出来たのだ。

 しかし、今回目にしている化け猫は、幻覚と思おうとしてもそれ以前に恐ろしかった。周囲はこんなにも明るいのに、まるで真っ暗闇にいるかのよう。目の前にタマがいるというのに、恐ろしくて目を背けそうになってしまった。

「背けるな」

 その時、タマが力強く言った。

「睨み続けるのだ」

 そして、彼女は動き出した。

 卯月は慌てて刀を構え直し、タマの背中を見送った。自分は斬らなくていい。戦いを見守るだけでいい。それだけのことだ。しかし、それだけの事を難しくしてしまうのが、化け猫の形相だった。襲いかかるタマの姿を確認すると、化け猫は再びすっと移動した。一瞬だけ姿が消え、次に現れたのは卯月のすぐ近くだった。

 ──ひっ……。

 ぎょろりと見開いた目に睨まれて、卯月はまるで心臓を鷲掴みにされたような威圧感を覚えた。女の目にあったのはただ脅かそうという悪意ではない。もっと根深く、もっと攻撃的な恨みがこもっている。それを真っすぐ向けられて、卯月は動揺してしまった。こんな目で見つめられたのは初めてだ。生まれて初めて向けられる呪詛は、あまりに強烈で気持ちを強く保っていないと心が折れてしまいそうだった。

「卯月!」

 その時、タマが卯月の名前を力強く呼んだ。

 いつも「お前さん」とだけ呼ぶ彼女に名を呼ばれ、卯月は我に返った。怯んではいけない。怯んだら、負けてしまう。強く思いながら、卯月は刀を構えなおした。恐怖を堪えて化け猫を睨みつけると、化け猫はかすかに開けた口から猫のような声を漏らした。

 斬る必要はない。

 そう言われてはいるが、卯月は「猫ノ手」の矛先を化け猫に近づけた。脅しながら追い払おうと動くと、化け猫の様子は少しだけ変わった。怒ったのか、その真っ赤な口を大きく開く。だが、声は出なかった。相手を脅すような猫の声を出したのは、化け猫は化け猫でも助けに入ろうと割り込んできたタマの方だった。

「タマさん……」

 割り込んだその瞬間、化け猫が急に動いた。

 黒猫を抱えたまま、片方の手を伸ばしてきたのだ。人間のものでしかないその手が、熊などの猛獣のような力を発揮できるとは思えない。それにも拘わらず、強い衝撃がタマの肩を襲い、途端にタマの口から悲鳴があがった。

 猫のようなその悲鳴に、卯月はすっかり怯えてしまった。

 だが、すぐにタマは持ち直し、肩を抑えて怒鳴るように言った。

「……怯えるな」

 そして、タマは再び化け猫に飛び掛かった。

 掴みかかるタマを、化け猫は避けようとする。だが、その動きを卯月が目で追うと、化け猫の動きはだいぶ鈍った。

「その調子だ。睨み続けろ」

 タマの指示に従って、卯月は睨み続けた。

 気を強く保ち続けるのは意外と辛い。自分は身体を一切動かしていないのに、何故だか疲れてくる。あまり長くはもたないだろう。その事だけがひしひしと伝わってきて、卯月は緊張してしまった。

 もしも、タマが負けてしまったらどうなるのだろう。協力者である限り、事故には遭いにくくなるとは言われていたが、本当に大丈夫なのだろうか。大丈夫ではなかった場合、これから何が起こるだろう。

 卯月の頭を過ぎるのは、これまでに聞いた八人の死にまつわる話だった。交通事故が四件、工事現場での事故が一件、マンションからの転落が一件、プールでの事故が一件、そして、落下物による事故が一件。彼らの死に目など見たこともないはずなのに、その光景がありありと浮かんだ。

 だが、卯月は冷静なままだった。ただ淡々とイメージだけが頭を過ぎっていくだけ。恐怖に駆られるのも限界になれば、むしろ何も考えられなくなるらしい。怖いなどという気持ちが薄れ、それを卯月自身が自覚してしまえば、あとは勢いがついた。兎の面の下でカッと目を見開いて、化け猫をいっそう強く睨みつける。すると、タマがその力に背中を押されたように飛び跳ねた。人間のものにしか見えないタマの手が女の頬をひっかくと、すぐさま鮮血が飛んだ。

 ──攻撃が当たった。

 卯月がそう思った直後、タマの手を女に抱かれていた黒猫が噛みついた。深く噛みついたのだろう。タマの表情が少し歪む。だが、タマは動じていなかった。もう片方の手を黒猫に伸ばそうとした。

 だが、それを見た女の方が今度は我に返り、黒猫をさっと抱き寄せてタマの手をかわした。弾みでその小さな牙から解放され、タマはよろけた。しかし、転ばぬよう踏みとどまろうと公園の地面を下駄で踏みしめると、カツンという音が響き、空間が揺らいだ。

 卯月は気づいた。

 ここも夢と同じだ。かつてタマが自分の夢に現れ、伝言をよこした時と同じ。この異様な戦いの目撃者が自分一人であることも、偶然なんかではないのだろう。公園の周囲には民家も飲食店もあるというのに、夕暮れ時に誰も通らないのは不自然すぎる。

 恐らく、戦い始める前にタマが何かをしたのだろう。恐らく鈴の音色が響いたあの時に。そして今、下駄の音が響き渡り、空間が揺らいだことでこの場に変化が訪れた。黒猫を抱いたまま女はふっと顔を上げ、そして後ずさりをした。

 タマは、追いかけない。

 前のめりに身構えてはいるが、それ以上、踏み出したりはしなかった。これ幸いと女は遠ざかっていく。抱かれている黒猫は忌々しそうにタマを見つめていたが、再び襲い掛かってくる気配は何処にもなかった。

 そして、タマはもう一度、下駄で地面を踏み鳴らした。すると女と黒猫は、時雨童女が消えた時のようにふっと消えてしまった。

 タマの身体から力が抜ける。額の汗を手で拭うその様子に、ようやく卯月も安心し、た。

「行ってしまいましたね」

 声をかけると、タマは振り返った。

 そして白い獣の面の下で微笑みを浮かべると、そのまま人の姿をやめてしまった。三毛猫になるやいなや、彼女は卯月の影に潜り込む。

 卯月はそれを見届けてから、小さく声をかけた。

「お疲れさまです」

 すると、程なくしてから返答はあった。

「お前さんも、な。初めてにしては上出来だったぞ。あそこまで迫られてよく耐えた。お陰で何とか諦めてもらえた」

「あの後……何処に行ったのでしょうか」

「さあね。だが、何処だろうと心配はいらない。恐らく奴も休んでいるだろう。この度の狩りは失敗だ。そもそも、様子を見に来ただけかもしれない」

「様子を見に?」

「さっきまでトキサメ様が遊んでいたからね。清らかなあの気配に釣られて出てきてしまったのだろう。だが、気は抜けない。あと一人、奴が誰かを襲えばもっと厄介になる。その前に、どうにかしなければ」

「手掛かりは得られましたか?」

 卯月の問いに、タマはしばし黙り込んだ。

 そして、ほんの少し抑えた声で彼女は言った。

「得るには得たが……足りなすぎるな」

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