3.神出鬼没

 しばらくの間、卯月は時雨童女の遊んでいる様子を見守っていた。まるで姉になったような気分で無邪気なその姿をただただ見つめながら、この先の事を色々と不安に思っていた。あのように可憐な姿の土地神を害そうとしている者がうろついている。それだけで、嫌な緊張感が生まれてしまう。

 ──自分は役に立てるだろうか。

 卯月が具体的な不安を頭に浮かべたその時、時雨童女はふとボールを両手にもったまま一点を見つめた。気になって卯月が注視すると、その視界の中で童女の姿がふっと蝋燭の炎を消してしまったように見えなくなった。

「え……?」

 驚いて辺りを見渡す卯月に、影の中からタマが声をかけた。

「大丈夫。見えなくなっただけだ」

「見えなくなっただけ?」

「ああ、その通り。姿は見えずともトキサメ様はすぐ近くにいるよ」

「タマさんにはどこにいるか見えるんですか?」

 卯月が訊ねると、タマはふと卯月の影から猫の姿で這い出してきた。やや冷たさも感じる猫の目で卯月の顔をじっと見上げると、小声で答えた。

「あたしにも見えない。見えないし、具体的にどこにいるのかとか説明できない」

「どういう意味です?」

「つまりな、トキサメ様は時雨原の何処にだっているのだ。必要となれば時雨原のあらゆる場所に姿を現すことが出来る。だが、必要がないならば、その姿は見えない。それがトキサメ様なのだ。分かるか?」

 卯月はうんと悩んだ。

 分かるような、分からないような。

 しかし、その辺りの理解はともかくとして、卯月は一つだけ安心を覚えた。

 時雨童女が消えるということの意味について、ついさっき、恐ろしい話を聞いたばかりだったからだ。この度、姿が見えなくなったことがそういうわけではなく、ただ見えなくなっただけならば、心配はいらないだろう。

 ぎこちなく頷く卯月を見あげ、タマはしっぽを揺らした。

「まあ、ともかく、トキサメ様は大丈夫だ。見えなくなってもきちんとこの地にいらっしゃる。トキサメ様があのようなお力を使える限りは時雨原も大丈夫……なはずなのだが」

 タマはそう言うと、猫の姿を歪ませて、人の姿になった。

 夢の中以外では久しぶりに目にしたその姿に、卯月はしばし惚けてしまった。お面の下の猫の目に気づかなければ、動きやすい和装の女性にしか見えない。カランコロンと下駄を鳴らして歩き回るその姿は、実に堂々としている。

 いつもと違うタマの態度に卯月がようやく気付いたのは、それから数秒経ってからだった。卯月の前で仁王立ちになり、時雨童女の消えた向こうを睨みつけるタマの背中は、ただ単に偉そうであるわけではない。彼女は明らかに何かを警戒していた。そして、その何かにはさすがの卯月にも心当たりがあった。

 ──何かが来る。

 それは、お面の下からでも分かるもやもやとした気配だった。出来れば来て欲しくない。近づいて欲しくないような悪い気配。不気味さと恐怖で姿が見えずとも鳥肌が立ってしまうような忌まわしき気配だった。

「タマさん……?」

 小声で呼びかけると、タマは慎重に頷いた。

「ああ、恐らくトキサメ様のニオイに釣られたのだろう」

「トキサメ様は本当に大丈夫なんですか?」

「今のままであれば、ね」

 タマは即答した。だが、少し俯いてから付け加えた。

「だが、ここでお前さんが九人目の犠牲者となれば話は変わるだろう」

「九人目の……?」

 卯月は繰り返し、ふとあの話を思い出した。

 八人目の犠牲者が出た際に噂された、化け猫の言葉である。

 ──あと一人。

 その言葉が頭に浮かぶと、卯月の身体は咄嗟に動いた。身を守りたいという本能的なものだろう。気づけば卯月は刀を呼び出していた。鞘を抜き、震えながら身構える卯月に、タマは落ち着いた声で呼びかけた。

「うん、そのくらい死を恐れていた方が良いかもしれない」

 そんなタマの背中に向かって、卯月は訊ねた。

「あいつは……化け猫は、もう一人の命を奪おうとしているんですね?」

「そうだ。化け猫の本能でもある。まずは九人、それでも足りぬなら十八人。それでも足りぬなら二十七人。九つずつ魂を奪っていくのが化け猫だ」

「九つ……なぜ九つなんです?」

「さてね。それはあたしには分からぬ。しかし、これだけは確かだ。九つずつ魂を集めていけば、化け猫は凶悪になる。そのまま呪いをまき散らせば、トキサメ様の浄化も間に合わなくなるだろう。ここが浄化の出来ない土地となれば、先ほどのように姿を隠すことも難しくなってしまう」

 タマの説明に、卯月は緊張を強めた。

 つまり、ここで自分が敗北し、死んでしまうようなことがあれば、八子もタマも協力者を失い、化け猫はさらに厄介者となる。

 だが、これは卯月にとってチャンスでもある。あれほど歩き回っても見つからなかった化け猫が、今まさに向こうから現れようとしているのだ。

 いまだ戦ったことのない卯月ではあったが、八子とタマが言っていたことは忘れていない。実際に戦うのはタマだ。タマが自由自在に動き、戦うために自分がいる。そのことを肝に銘じながら、卯月はタマに問いかけた。

「私はどう動けばいいんですか?」

 すると、タマは答える代わりに振り返った。口元には笑みが浮かんでいる。緊張をほぐすようなその笑みと共に、タマは答える代わりに訊ねてきた。

「怖くはないか? 死ぬかもしれないのに」

 優しいその言葉に、卯月は正直に答えた。

「怖いです。でも、怖いけれど、頑張りたいんです」

「そうか。健気な奴だ」

 そう言って、タマは再び前を見つめ、そしてようやく卯月の質問に答えた。

「お前さんには見守っていて欲しい。その刀を構え、化け猫を睨みつけるのだ。化け猫は威嚇するだろう。だが、そこで怯んではならない。恐怖や不安を覇気で弾き返すのだ。お前さんがそれをするだけで、あたしはかつてのように暴れることが出来る」

「わ……分かりました」

 卯月はとりあえず頷いた。

 具体的にはその状況になってみないと分からない。しかし、とにかく自分に出来ることは明確に指示された。恐れずに睨みつけ、怯んではならない。心を強く保って、恐怖に耐え続けるということが、どれだけ大変な事なのかは分からないけれど、とにかくそうすることでタマが動けるというのならば、そうするしかない。

「今日のお前さんに期待することはそれだけだ」

 タマは言った。

「いいか。今この場で恐らく決着はつかないだろう。これよりあたしが狙うのは勝利だが、それは奴を退治することではない。討伐するには、まだまだ奴の情報が足りん。それに、お前さんの力も不安定だ」

「じゃあ、どうするんです?」

「しばらく戦って、出来る限り奴の正体を探りたい。人が本体なのか、猫が本体なのか、あるいはその両方なのか」

「タマさんには、そういう事も分かるんですか?」

「あたしだって、これでも正当な神使であらせられる八子様の眷属だからね。少しならば悟ることが出来る。戦いながら、探りつつ、相手が戦意を失うよう仕向け続けよう。それまでに、毛の一本でも盗めたら御の字だ。持ち帰って八子様に見てもらえれば、敵の正体が丸分かりだろう」

 タマの言葉を卯月は頭に入れる。

 相手を知るための戦い。退治する戦いではなく、追い払うための戦い。全てが上手く行くためには、余計な動きでタマの邪魔をしてはならないはず。卯月はそのことを頭に入れながら、深呼吸をした。

「分かりました。とにかく言われた通りにします」

 卯月がそう言うと、タマは黙って頷いた。

 そして、それからすぐに、卯月とタマの視界の果てで変化は現れた。瞬きをした刹那、公園の入り口にいつの間にか女が立っていたのだ。顔ははっきりと見えない。だが、黒猫を抱いているのは分かった。そして、黒猫と一緒に、時雨童女が最後に消えたあたりをぼんやりと見つめていることも、卯月にはよく分かった。

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