2.時雨原の過去
時雨童女は公園で遊んでいる。
滑り台をすべってみたり、ブランコに乗ってみたり。そんな彼女を取り囲むのは呪いや怪談とは無縁のほのぼのとした光景しかない。少なくとも卯月から見れば、時雨童女はただの女の子だった。
しかし、タマによれば、そんな彼女を巡る争いはたびたび起こってきたのだという。
「呪いでおかしくなった化け物に道理なんてものはない。今になって振り返れば、八子様に敗れる前のあたしもきっとそうだったのだろう」
タマは言った。
その昔、時雨原は戦地にならない限りはもっともっと人が少なく、もっともっと静かな場所だった。時雨童女が癒す場所はもっと少なく、その相手もまた人間よりもむしろ動植物の方が多かった時もあったのだとタマは語る。
「この辺りには昔、熊もいたし山犬もいた。猿もいたな。今となってはもう何処にもおらんようだが、彼らを中心にあらゆる獣たちが争い、憎しみあっていたこともある。人間の戦さながらの衝突を猿同士や山犬同士がしていたこともあったのだが……今となっては昔の事。いずれにせよ、その頃からトキサメ様のお役目は変わっておらん」
この場所に獣たちがたくさんいた頃、麓の人々は今よりもずっと信仰深く、それだけに時雨童女だけでなく化け物やそれと戦う八子の姿も見ることが出来たのだという。その頃は化け物の姿も多かった。人同士だけでなく、獣同士でも頻繁に戦い続けていたからだろう。戦に敗れた山犬や猿、猟師に撃たれるも死に損なった熊や猪、時には蜘蛛や椿などの虫や植物たちまでもが恨みを募らせて物の怪となり、時雨原を荒らし始めることも度々あったという。
それは、タマが封印された後もしばらく変わらなかった。
「その頃のあたしは八子様の影の中にいた。今思えば手伝い程度だったな。八子様は今でこそあのように動けぬが、本当はお強い御方なのだ。動き回ることさえ出来れば協力者などいらないはずだった」
しかし、時代は移り変わってしまった。
八子を自由に歩かせてくれた地蔵たちは殆ど壊され、それからさらに時は進んで大開拓によって動植物たちは追いやられていった。今でも緑は残っているし、獣たちも少数ならばその片隅でひっそりと暮らし続けている。だが、かつてのように戦をするほどの力も数もなくなっている。
彼らのことを畏れ崇めた人々はいつの間にか支配するようになり、やがては愛護したり、駆除したりするようにもなった。そうして、もはや彼らの殆どは、物の怪になる資格すら失ってしまったのだという。
「悪い事ばかりではない。動植物が減ったことで、化け物の数も減った。八子様が動けずとも、どうにかなってきたのも確かだ。しかし、何故だろうね。トキサメ様が癒さねばならない機会はむしろ増えているようにすら感じられるのだ。それに、いざ何かが起こった際は、お前さんのように協力者が必要になった。あたしは不安なのだよ。いったいいつまで、トキサメ様を御守することが出来るのだろうかと」
タマの話を、卯月は静かに聞き続けた。
時雨童女はまだ何とか守られている。けれど、時雨原のすぐ近くの区域では、もうすでに土地神が消えてしまっているのだという。
「消えてしまったら、どうなるんですか?」
卯月がふと訊ねると、タマは静かな声で答えた。
「この地を浄化する者がいなくなる。浄化されなくなったならば、八子様やあたしが存在する意味もなくなるだろう」
「タマさんも?」
「ああ、そうとも。いずれはそうなるだろう。そうなれば、お前さんに託したその面の力も消えてしまうことになるな」
「お面も……」
卯月は俯いた。せっかくこのお面を有り難がっていただけに、力がなくなってしまうことは困ることでもある。しかし、それよりも気になる事もあった。
「時雨原は──」
卯月は訊ねた。
「時雨原はどうなってしまうんですか? ここに暮らしている人たちは?」
癒す者がいなくなる。呪いはたまっていく一方になる。それはやはり良くない事に違いない。では、具体的に何が起こってしまうのか。
タマは穏やかな声で答えた。
「たとえそうなっても、しばらくは安心してもいいだろう」
それは意外な答えだった。
卯月は首を傾げつつ、深く訊ねた。
「どういう事です?」
「トキサメ様が消え、八子様やあたしが消えたとしたら、この辺りの浄化は近隣の土地を守っている神が癒すようになるだろう」
「近隣の土地の?」
「そうだ。そこにも土地神がいて、神使がいる。そして、こちらと同じ事情に悩み、協力者を得ているはず。トキサメ様がいなくなれば、彼らに頼ることになろう。しかし、それで安心していいとは決して言えない。この際、それを教えておこう」
卯月は静かに頷いた。
彼女としては、時雨童女が消えてしまう事や、八子やタマが消えてしまう事自体が良いとは思えなかったのだが、とりあえず聞いておくことにした。
「土地には土地の神がいる。昔はもっとその数は多く、守る範囲も今よりずっと狭かった。増える神あれば減る神あり。神が殺されるという事態はこれまでも度々あったことだが、人々の信仰が神を生まれ変わらせ、その数を増やしたこともあった。だが、今の世ではもう無理だ。そう八子様は言っていた」
その昔、八子はタマに言ったのだという。それがいつの時代なのかは分からないが、ともかくこの世の信仰は、かつての信仰とはだいぶ変わってしまった。
人々は人々のために信仰を守るようになり、崇めている先にいるのもまた神ではなく人になってしまった。年々、祈祷は盛大だが限定的なものとなり、その力は及ばない場所もある。そうしているうちに、神の数は減っていき、残された神が守らねばならない土地は広がっていった。
「八子様によれば、土地神は全能ではないという。尊い御方だが限りもある。全てを癒しきれずに呪いがたまる場所は増えていき、その呪いからまた土地神を殺そうとする化け物は生まれてしまう。それが続けば、この地はもっと災いを呼ぶことになるだろう」
「災いというと……」
恐る恐る卯月は訊ねた。
過去の戦争で、この辺りはすっかり燃やされたのだという話を聞いたことがある。しかし、その頃でさえも時雨童女はここにいたし、彼女以外にも各地で急速に汚されていく土地を癒そうとしてきたはずなのだ。
それが出来る者がすっかりいなくなるということは。
「そうだね。これまでにない規模の災いが起こってもおかしくはない。人為的なものではないような災いがね。そう八子様は言っていた。飽く迄も、可能性でしかないそうだ。必ず起こるわけではないから、そう怯える必要もない」
タマは卯月を安心させるようにそう言った。だが、卯月の心は晴れなかった。
これまでにない、というのは、どの程度のことだろう。可能性でしかないとは言われても、やはり無視できない不安だった。
ただ、卯月はふと冷静になった。
災いが怖いから、守らねばならないのだろうか。その事を考えながら、卯月はじっと時雨童女の姿を見つめた。無邪気に遊ぶその姿は見ているだけで癒される。それに、八子やタマのことを思えば、やはり気持ちは変わらない。災いが怖いのではない。彼らが消えてしまうことが怖いのだとはっきり思ったのだ。それは、人には見えないものが見えることを拒み続けた卯月にとって、これまでにないような感覚だった。
「どうした?」
ずっと黙っていたからだろう。
タマがふと声をかけてきた。
卯月は我に返ると、彼女の潜む影に向かって答えた。
「いえ、何でもありません。……ただ」
「ただ?」
「ただ、ちゃんと守っていきたいなって思っていただけです」
卯月はそう言いながら、時雨童女を見つめた。自分が生まれるずっと昔からここにいたという土地神。もう殆どの人に見えないその存在をこれから守っていくことは、きっと想像以上に孤独なことだろう。
それでも、卯月の迷いは当初よりもだいぶ薄れていた。
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