6章 時雨童女
1.時雨原の神様
翌日、卯月は放課後になるや否や教室を飛び出した。下駄箱に直行すると、そのまま時雨原を目指して階段を登り切り、門を潜る頃にはすっかり息を切らしてしまっていた。
時間はたっぷりある。そう急がなくても良いはずだと分かってはいるのだが、それでも早く化け猫を捜さなくてはという使命感が今日も彼女の心を焦らせていた。
とはいえ、いくら健康であっても走り続ければ息を切らすもの。しばらく呼吸を整えていると、影の中から心配そうな声が聞こえてきた。
「大丈夫か? 少し張り切り過ぎだぞ」
タマである。
卯月は声の聞こえた方向に顔を向け、苦笑した。
「大丈夫です。少し休んだら、すぐに行きましょう」
本日の予定は、まだ足を踏み入れていない時雨原の区域の捜索である。昨夜、卯月が言っていた幽霊探しの案は、それが終わった後でしても間に合うとタマは言った。卯月はその言葉を信じることにしたのだ。
「よし」
息を整えると、卯月は早速歩き出した。
「今日は北東でしたよね?」
足元にそっと訊ねると、タマはすぐに返答した。
「ああ、次の信号を右だ」
「はい!」
卯月は頷き、ひとまず信号を目指した。
今日の予定が明確になったのは、登校時のことだった。今歩いている道を逆方向に進んでいた時に、タマがふと時雨原の北東に続く道からわずかなニオイを感じたと訴えてきたのだ。さすがに学校をさぼるわけにはいかず、放課後になったらすぐにそちらに向かうと約束して今に至る。目指すは勿論、タマが気配を感じた場所だった。
青信号を渡ってから、卯月は右へと入っていった。ひたすら直進しようとするも、すぐにタマの指示が入った。
「次の筋をいったん左に入ってくれるか」
「左ですか?」
言われた通りに入っていくと、すぐにまたタマは声を発した。
「すぐそこの階段を登ってほしい」
「階段?」
立ち止まって卯月は周囲を見渡した。
階段なんてこの辺りにあっただろうかと見渡して、ふと気づいた。よく見れば、道路の右側に小さな階段があった。登っていった先には大きな一本の木が生えている。確かあれは山桜だったはず。
卯月は言われた通りに階段を登り、何気なくそこに書かれている石碑に目を通した。この辺りに昔から生え、シンボルとして親しまれてきた桜だという。今ではすっかり大通りに植えられたソメイヨシノの方が目立ってしまっているが、なるほど確かに、近くから見上げれば、かつてのシンボルと言われて納得するような存在感があった。
「トキサメ様の気配がする」
タマがふとそんな事を言い、卯月は慌てて周囲を見渡した。
しかし、誰もいないようだった。
「トキサメ様って……あの?」
卯月を助けてくれた童女。その姿を思い出していると、タマが再び声を発した。
「ほら、前を見るのだ」
そう言われ、卯月はとっさに前を見た。
そして、すぐに息を飲んだ。
──あの子だ。
先ほどまで誰もいなかったはずのその場所に、かつて見たあの女の子が立っていたのだ。手にはボールを持っている。服装も現代的に見える。それでも、彼女こそが時雨童女なのだろう。そう理解していると、タマがそっと声をかけてきた。
「お前さんにはどう見える?」
「どうって……普通の女の子に見えますけれど」
卯月がそう答えると、時雨童女は笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。
ボールを手にしたまま卯月の前に来ると、親しい相手にするような動作で何かを訴えてくる。ひと言も喋ったりしなかったが、卯月にもまた不思議と親しみがわいた。
「トキサメ様は一緒に歩きたいらしい」
タマがそっと説明し、卯月は首を傾げた。
「そうなの?」
そして、思わずため口を聞いてしまったことを後悔した。姿こそ幼子だからこそ。しかし、相手は神様のはず。失礼ではなかっただろうか。卯月は不安に思ったが、幸いにも時雨童女はにこにこしたまま頷いた。タマの方も咎める気配すらなかった。
「トキサメ様がそうおっしゃるのなら」
卯月の代わりにタマが返事をするも、時雨童女は卯月の返事も待っていた。きらきらしたその目に見つめられ、卯月は恐る恐る頷いた。
「わ、分かった。一緒に歩こうか」
すると、時雨童女は嬉々としてボールを小脇に抱え、空いた片手で卯月の手をぎゅっと握り締めた。
共に階段を降り、共に向かうのは、タマが気配を感じた北東だった。危険な場所ではないのか。時雨童女を連れて行ってもいいのか。卯月は心配になったのだが、タマがそれを止めたりしないので、とりあえず従うこととした。その後、ほんの数分歩いた先にある公園まで来ると、時雨童女はぐいぐいと卯月の手を引っ張ってきた。
先ほどの山桜に因んだ名前のその公園は、夕方だというのに誰もいなかった。小学生たちは別の場所で遊んでいるのだろうか。しばらく手を繋いで一緒に歩いて行く間、卯月はほんの少しだけ心細さを感じてしまった。
そんな卯月を余所に、時雨童女はうずうずしていた。卯月の手をするりと抜けると、そのまま一人、公園の広場の真ん中へと走っていく。そして、ボールで毬突きを始めた。
ボールはゴムボールだ。小さな子どもにちょうどいい柔らかなもの。少なくとも、神様のイメージにぴったりな毬ではないし、古風なデザインですらない。服装もその辺で見かける子どもらと同じ。その事を不思議に思っていると、タマが再び声をかけてきた。
「さっきの続きだが、お前さんにはトキサメ様がどう見えるのだ?」
「えっと、さっきも答えた通りですよ。普通の女の子に見えます」
「お前さんの言う普通っていうのは具体的にどんな姿だ?」
「えっと……その辺で遊んでいる子と変わらないというか……」
うまく説明できているだろうか。
言葉に迷って卯月が困っていると、タマは一人で納得したように唸った。
「なるほど、分かった。つまり、お前さんに見えるトキサメ様は今を生きる幼子の姿をしているのだな?」
「は、はい」
「持っているのは何だ?」
「赤いゴムボールです」
「毬ではなく?」
「あ、はい。毬ではなくて、もっと現代的なゴムボールです」
さらに言えば、卯月が幼い頃によく使っていたお気に入りのボールによく似ている。それだけではなく、時雨童女の姿自体が、アルバムに残された幼い頃の自分の姿に似ている気もした。
「なるほど」
タマはそう言って、しばし黙り込んだ。静寂の中で卯月がそわそわしていると、考えがまとまったらしく、その口を開いた。
「トキサメ様はな、尊い御方なのだよ。尊い神様だから、その姿も見る者によって違うのだ。お前さんには現代に生きる幼子に見えたという。しかし、あたしには違う。あたしにはね、あたしと同じ人の姿を借りて化けた子猫の姿に見えるのだ」
「……ええ?」
「持っているのは毬に見える。じゃれついていると言った方がよいかな」
「待ってください。私と全然違うじゃないですか」
卯月は途端に不安を感じた。
一緒にいる人と見えているものが違う。それは、長年、幻覚症状に悩まされてきた彼女にとって、非常に怖いことだった。
だが、タマは実に明るい声で言った。
「そう焦るな。全く違っていいのだよ。言っただろう、トキサメ様は見る人によって姿が違う。共通しているのは幼女であるということだけ。お前さんは人間で、あたしは猫だ。だから、種族すら違って見えるのも当然のこと」
「そ、そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
きっぱりとタマは言った。
「よく、神様の姿を描いた絵や像があるだろう。あれはね、人間が人間の目で見て作ったからあのようになるのだ。トキサメ様はそうではないが、神様によっては性別すら変わるものもいる。それくらい、不思議で尊いお方々なのだ」
「へえ……」
何故か得意げに語るタマの声を聞きながら、卯月はじっと時雨童女を見守った。自分にはその辺りの女の子にしか見えない。それは変わらなかった。
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