5章 お面を通して見る世界

1.誰も気づかない

 翌日、卯月は八子とタマの言っていたことの一つが本当であることを知った。

 いつものように登校して、いつものように下校するまでの間、卯月はあの兎のお面をつけて過ごしていた。しかし、誰もそのことに触れてはこない。鏡を見る限り、確かにお面を付けているはずなのに、同級生たちは勿論、担任の教師も各教科の担当教師やすれ違う生活指導の教師もまた、卯月の付けているお面を指摘してこなかった。

 いつものように接してくる同級生や教師らの態度を見る限り、どうやら卯月以外にはこのお面が見えていないらしい。

 そして、最も重要な点であるこのお面の効能もまた真実だった。

 見えない。不意に現れる手も、不意に現れる人影も。

 卯月がこれはおかしいと判断できる幻覚の数々が、お面を付けている間は現れなくなっていた。

 何なら、しばらくその悩みすら忘れてしまうほどだった。昨日までのあの苦しみが、あの煩わしさが、嘘のように消えてしまった。それは幻視──視覚の問題だけではなかった。幻聴もまた気づけばパッタリ止まっていたのだ。

「効果があるみたい」

 放課後、一日の学校生活を振り返りながらつくづくそう思って呟いた卯月に対し、しかし、この声だけはしっかり聞こえてきた。

「言っただろう。あたし達は嘘を吐かない」

 タマだった。

 姿が見えるわけではない。どうやら彼女はずっと卯月の影の中に潜んでいるらしい。

 校内の片隅で周囲を窺ってから、卯月はそっと自分の影の中──その中に潜んでいるはずのタマに声をかけた。

「そうみたいですね。来週の予約をキャンセルして良かったかも」

 予約とは、精神科の事である。

 これからタマと行動を共にするとなれば、通院は負担となってしまう。そもそも、悩みの原因である幻覚症状が収まるのならば、通院する必要だってなくなるわけだ。

「そちらの判断はお前さんに任せる。まずいと思ったら刀を八子様に返して、もう一度通い始めても良いのだぞ」

 影の中からタマは気遣うようにそう言った。

 その言葉に卯月はそっと笑みを浮かべ、小声で返事をした。

「ありがとう。その時はそうします」

 それから、卯月は学校を後にした。

 長い階段を登って時雨原側の門を潜り、まっすぐ家に帰るのではなく、まずはタマを引き連れて時雨原を歩き回った。

 ルートは基本的に卯月がいつも通る通学路だった。しかし、時折、タマがふと声をかけてくる。気になるところがあると、彼女の言う通りに道を曲がったりして、いつもならば行かないような道へと入り込んだ。

 その間、道すがら知らない人とすれ違うことは何度もあった。けれど、誰一人として卯月の付けている兎のお面を不審がる人はいなかった。もしも見えているならば、無反応にはならないだろう。声をかけてこないにしても、視線をじろじろ向けてくる者がいたっていいはずだ。そんな人が一人もいないということは、やはり見えていないのだろう。

 ──不思議だ。

 卯月は心からそう思った。

 ──素顔を隠しているはずなのに、解放的なのは何故だろう。

 不要な情報である幻覚に悩まされないからだろう。卯月の足取りは軽かった。一日の学校生活の疲れも気にならないほど、時雨原のあちらこちらを歩き回ることが出来た。

 見えないというのはこんなに楽なのか。

「このお面、とても気に入っちゃいました」

 歩きながら呟く卯月に、タマはすぐさま返答した。

「そうか。それは良かった。人によっては合わない場合もあるからな」

「そういう場合はどうするんですか?」

「残念だがこの話はなかったことになる」

「今までもそういう事はあったんですか?」

「そうだね」

「そうなんだ……大変だっただろうな、その人。そういう時、その人はどうなるんですか?」

「違う神に頼る場合もあるし、何ならぴったり効く薬が見つかることもあるらしい」

「薬? 薬って言うと、精神薬とか?」

「ああ、その通りだ」

「霊感が精神薬で治まることってあるんですか?」

 半信半疑で卯月が問うと、影の中からタマは三毛猫の姿でひょいと現れた。

「人によってはある」

 猫の姿のまま、タマは言った。

「精神薬は頭──つまり脳に作用するのだろう? 霊感も脳が見せるものだ。よって、体質と薬がぴったり合えば、霊感は弱まり、悩みもすっと消えていくだろう」

「そうなんだ」

 つまり、卯月の悩みもまた精神科で治せる可能性はあるということだ。

 タマが判断を任せると言ったのも、再び通院する選択を示したのも、その為なのだろう。卯月は一人納得しつつ、それでも軽く首を振った。

「でも、私はしばらくこっちで様子を見てみます。タマさんとも仲良くなってみたいし」

 口元に笑みを浮かべて猫の姿のタマを見下ろすと、タマはじっと卯月を見上げてから気を紛らわすように毛繕いをした。

「まあ、お前さんがそれでいいのなら、あたしも八子様も助かるってものだ。とにかく、そうとなったら歩こう」

 そう言ってタマはぴんと尾を伸ばし、再び卯月の影の中へと入り込んだ。

「しばらく真っすぐだ」

「分かりました」

 タマの指示に従って、卯月は通学路から逸れた道を歩きだした。

 生まれてからずっと暮らし続けている家から遠いその場所は、同じ町丁とはいえあまり馴染みのない場所でもある。しかし、記憶を辿れば小学校高学年の頃に、ちょっとした冒険のつもりで学友たちとここまで歩いてきたことがあった。

 世間にとってはほんの五年ほど前のこと。しかし、まだ高校生である卯月にとっては、果てしなく昔の懐かしい時代の事のように思えた。

 あの頃とあまり変わっていない。細かく見れば、建て替わった家や建物などはあるだろうけれど、全体的な雰囲気はあの頃のままだった。歩きながら思い返せば蘇るのは、笑い合って日々を楽しんだ明るくて大切な記憶ばかりだ。

 それだけに、この時雨原の人々を不安にさせる事故の話が重たく感じられた。

 卯月の命を奪い損ねたあの化け猫は何処にいるのだろう。今もまだ、新しい犠牲者を求めてさまよっているのだろうか。

 そうだとしたら、一刻も早く見つけたかった。

 しかし、卯月にはタマの持つような鋭い感性が足りなかった。ただ見えるだけでは駄目なのだろう。タマが何を基準にして歩く道を決めているのか、彼女の指示に従っているだけの卯月には全く分からなかった。

「どうですか? 何か感じました?」

 卯月がそう訊ねたのは、最初にそれた道からだいぶ進んだ先にある公園にたどり着いた時だった。あまり訪れたことのないその公園では、遊具の周りに小学生たちがたくさんいる。彼らから距離を取りながらそっと訊ねると、影の中にいるタマはしばらく沈黙してから返答した。

「痕跡はある……あるのだが」

「あっちで遊んでいる子たちとか何か知らないかな」

「聞いてみる価値はあるが、集団でいる子どもの前に現れるなんてことがあるかね」

 タマはそう言ったが、卯月は思い切って小学生たちに近づいてみた。

 遊具の周辺ではしゃいでいる子どもたちは、卯月が近づいてくるのを見ると、ふと黙ってしまった。

 小学生とはいえ集団の視線にふとした威圧感を覚えながらも、卯月は勇気を振り絞って彼らに声をかけた。

「あの、ちょっといいかな?」

「何ですか……?」

 不審そうに男児の一人が返事をする。

 卯月は優しい声になるよう努めながら問いかけた。

「えっと、実はね、この辺りの怖い話を調査しているんだけど……化け猫の怪談って皆は知っているかな?」

 すると、小学生達は顔を見合わせ、今度は目をキラキラさせながら返答した。

「知ってる!」

「あれでしょ? 大人たちまで噂しているやつ!」

「黒猫を抱いた女の人!」

「会ったら死んじゃうんだよねぇ。対策は……えっとなんだっけ?」

「話しかけられたら頷いちゃいけないんだよ」

 今度は口々に大声で喋り出す小学生の賑やかさに圧倒されつつも、卯月は心を落ち着けつつ彼らに再び質問をした。

「その黒猫を抱いた女の人なんだけど、この近くで見たりしなかった?」

 すると小学生たちの表情が一気に凍り付いた。

 誰も彼もが首を振り、息を飲みながら一人が訊ねてきた。

「え、この辺にいるんですか?」

「いたかも知れない……らしいのだけど」

 卯月の答えに小学生達は顔を見合わせ、そして改めて首を振った。

「僕は見てません」

「大丈夫だよね? 誰も見てないよね?」

「あたしは見てない」

「俺も」

「じゃあ、皆、大丈夫ってことかな?」

 口々に言い合った後、小学生達は一斉に卯月を見上げた。

「大丈夫みたいです」

 その答えに思わず笑みを漏らしながら、卯月は頷いた。

「そっか。それなら良かった。邪魔をしてごめんね」

 手を振ってその場を離れると、小学生達は再び遊び始めた。

 彼らから離れながら、影の中からタマがそっと声をかけてきた。

「どうやら誰も標的には選ばれなかったようだ」

「選ばれる人ってどんな人か分かっているんですか?」

「まだ分からない。死んだ七人と、そして襲われたお前さんの共通点も分からない。そもそもそんなものはないかもしれない。恨みというものはそういうものだ。最初は限定的でも、怒りが静まらなければ次第に拡大していく」

 だからこそ、早く止めなければいけない。

 そうでなければ、時雨原はますます恐ろしい地になってしまうだろう。

 卯月は心よりそう思いながら、タマの指示に従ってその公園を後にした。

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