2.思い出の時雨原
タマに連れられて卯月がしばらく歩いた場所は、同じ時雨原とはいえ小中学校の自分の校区から外れた場所ばかりだった。そのため、初めて訪れる場所も多く、住んでいる町なのに、と卯月はその新鮮さに驚いた。
だが、たいした手掛かりが得られぬまま次第に自身の校区へと歩みを進めて行くにつれ、卯月は段々と懐かしい気持ちになっていった。小学生の頃から変わらず時代の流れに逆らい続ける商店街。クラスメイトと共に探検した舞台でもあった県営団地。すっかり建物は変わってしまったが、ところどころ昔の面影の残る小学校の通学路。そういった光景が次々に目に飛び込んできた。
特に卯月の心に突き刺さるのは、やはり六年の思い出の積み重ねでもある小学生の頃に馴染んだ景色たちだった。ここは思い出の町。転校していった者や、すっかり音信不通となってしまった者の思い出も含め、歩いているだけで非常に懐かしかった。
もちろん、良い思い出ばかりではない。むしろ、辛い思い出の方が多かったかもしれない。卯月を悩ます霊感は、周囲の者たちにとってみれば疑わしいものでしかなかった。中には信じて寄り添ってくれる優しい子もいたが、そういった優しい人の優しい態度をすっかり覆い尽くしてしまうのが、正直な人の正直な反応であった。
霊感さえなければ、その記憶さえ省けば、時雨原の思い出は明るくて楽しいものばかりであるはずだった。
「早くこのお面と出会っていたらな……」
卯月が呟くと、影の中で周囲の気配を探っていたタマが声をかけてきた。
「どうした?」
「いえ、ちょっと子どもの頃の事を思い出しただけです」
「子どもの頃?」
「はい……あの、小学生の頃のことです。幻覚……というか霊感で悩んでいた頃に、殆どの人が信じてくれなかったことがあって」
その頃の記憶は、思い出すだけでまだ辛い。
高校生の卯月にとって小学生の頃の記憶は昔に思えるけれど、すっかり忘れ去れるほどの時は経っていない。あの時にからかってきたクラスメイトたちも、卒業する頃にはすっかりと忘れて仲良く接してくれたものだった。
それでも、一度受けた傷はなかなか癒えないものだった。信じてくれないどころか一方的に叱りつけてきた親や教師も含め、卯月はそのことを恨んでいるつもりなんてない。それでも、思い出すだけで心がぎゅっと絞られるような窮屈さを覚えてしまう。
「そうか。それは辛かったな」
影の中からタマはそう言った。
「昔はもっと信じる人間が多かったはずなのだ。その時代なら、お前さんが悩むこともさほどなかったろうに」
「……私もいけないんです。今思うと上手く伝えられなかったから」
そもそも見えているものに脈絡がなかった。
突然現れては消える手や顔、突然聞こえてくる大声。そういったものがスイッチを入れたように現れては消えてしまう。その一つ一つが何を意味するのか、幼い卯月には全く分からず、ただただ見えたものに気を取られていることしか出来なかった。そして、勉学に集中できずに叱られている際にそれをきちんとした言葉で大人たちに伝えるということが、非常に難しかった。
同じ年頃の子どもならば、揶揄うだけの者もいれば、見えているものの意味が分からずとも一つ一つに驚き、共感してくれる者もいた。
けれど、本当にそれだけだった。
「あれは……何だったんだろう」
団地の片隅のベンチで休憩しながら卯月がひとり呟くと、影の中からタマが返事をした。
「さあ、あたしには分からない。だが、その頃にもしかしたら、お前さんに気づいて欲しい誰かがいたのかもしれない」
「気づいて欲しい……誰か?」
「うむ。何か伝えたい亡霊がいたのだろう。そういった者は、実は世の中にたくさんいる。お前さんが悩まされた幻覚のほぼ全てはそういった者たちの声だ。この世は毎日たくさんの命が生まれ、たくさんの命が消えていく。人間も、それ以外も皆同じ。中にはどうしても伝えたい事があって、お前さんのような人間に対し、同じ人間に近い姿を借りて接触しようとする動植物たちの霊もいるのだ。そうだな、その悩みが現れた頃と、消えた頃で何か変わったこととか覚えておるか?」
タマの問いかけに卯月はしばし考えた。
しかし、何しろ遠い過去の話だ。過ぎてしまえばあっという間の日々であっても、振り返ってみればその道のりは長く、記憶はだいぶ褪せるもの。特に小学生、中学生、高校生と成長を経てきた卯月にとってみれば、あまりに昔の事だった。
「分かりません」
卯月が力なく呟くとタマは短く返事をした。
「……そうか」
その後、タマは卯月の影の中から猫の姿で這い出して来ると、その辺りにいる普通の野良猫のように足元にすり寄ってきた。
「わっ──」
驚いて見下ろす卯月を見つめ、タマは言った。
「なんだ、驚きおって。暗い顔をしておったからせっかく慰めてやったというのに」
上目づかいで見つめられているはずなのに、まるで高い所から睥睨されているように思えてしまうのは何故だろう。
卯月は息を飲みつつ、そっと屈んでタマに顔を近づけた。
「慰めてくれるんですか?」
面の下で微笑みを浮かべながら訊ねると、タマはどこか不満そうな猫の顔でじっと卯月の顔を見つめた。
「ああ」
「タマさんって優しいんですね」
「別に優しくなんてない。落ち込んだ者を慰めるのは当たり前の事だろう」
そう言うと、タマは照れ隠しなのか尻尾を左右に大きくブンブン振ってから、再び卯月の影の中へと入り込んでしまった。
「さあ、もう少し休んだら次の所に行っておくれ。逢魔時(おうまがどき)が過ぎたら素直に家に帰った方がいい」
「日没までってことですね?」
「ああ。昼と夜が変わればお前さんもさすがに疲れてくるだろう。今日の所は怪しい香りのする場所を訪れるだけで十分だ」
「分かりました」
卯月はすぐに立ち上がり、再びタマの指示通りに歩き始めた。
向かう方向は時雨神社のひっそりと建つ方向とは真逆である。神社は時雨原の北西に位置するが、そこに背を向けた状態でひたすら南へと進まされた。自宅がある周辺も通り過ぎ、幼い頃には毎日のように遊んだ公園を歩いた。台地でありながら坂も多い場所に造られたその公園は、階上と階下にそれぞれ広場が用意されている。
卯月はタマの指示に従ってその間を突っ切って階段を目指した。いつもならばここも小学生たちの溜まり場なのだが、今日は別の場所で遊んでいるのかあまり人がいなかった。隅の方で枝を持ち、地面に絵を描いて遊んでいる女児たちをそっと眺め、また少しノスタルジックな気持ちに浸っていると、せっつくようにタマが声をかけてきた。
「足が止まっているぞ」
「ご、ごめんなさい」
木々の間を抜け、そよ風を背中に受けながら歩み、階段をそっと降りていく。段を踏み外さないように足元に視線を向けながら歩いていたその時、卯月はふと顔をあげた。視界の端──階下の広場の方で、不審な影が通り過ぎていったような気がしたのだ。
思わず見上げるも、それらしきものはいない。
周囲を見渡しても、遊具のあたりで数名の子どもたちが遊んでいるだけだ。
「タマさん……」
思わずその名を呼ぶと、タマは影の中から囁いた。
「ああ、何か通ったな。何に見えた?」
卯月は考えた。
ほんの一瞬ではあったけれど、その大きさ、その動きは知っているもののそれだった。しばらく考え続けてから、卯月はその答えを口にする。
「猫……かな」
恐る恐る出たその答えに、タマは静かに同意した。
「ああ、黒猫だった」
卯月はすぐに周囲を見渡した。
しかし、生きた黒猫はどこにもいない。猫らしき姿自体が周囲にいなかった。近くにいるのは離れた場所で遊ぶ子どもたちだけ。
それでも、卯月は確信した。
黒猫だ。知っている黒猫だ。あの猫には見覚えがある。黒猫など見分けがつくのかと訊ねられれば怪しいものの、同じような大きさの同じような黒猫を前にも見た。それは、あの怪しい女が抱いていた黒猫である。
卯月は周囲を見渡し、影の中にいるタマの指示を待った。
しかし、しばしの沈黙の後、タマは言ったのだった。
「どうやらもうこの辺りにはいないらしい」
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