3.見えざる者たちの事情
時雨原は台地である。その地形から昔からたびたび戦乱の地となってきたという話は、卯月もこれまでになんとなく聞いたことがあった。もちろんそれは人間同士の戦いの話であり、それ以外については卯月も無知であった。
時雨神社の存在自体をこれまで知らなかったのだから仕方がないだろう。このあまり有名と言えない無人の神社が何故建てられたのか、何のために存在するのか、語る事が出来る氏子も残っているのかどうか怪しいところだ。
しかし、語れる者自体は存在したのだ。その声が全ての人間に届かないというだけで。
「この場所がいつから戦場になったのか、それはもうアタシ達にも分からないの。気づけば人間たちはここを血塗られた殺戮の舞台にしていた。そして、いつからトキサメ様がここに現れるようになったのかも分からない。かつてここが緑あふれる美しい場所だった時代から、トキサメ様は童女の御姿でこの台地を彷徨い、苦しむ霊魂を無邪気に慰めていらっしゃったのよ」
優しい口調で語る八子の話に卯月は黙って耳を傾ける。
隣ではタマもまた腕を組みながら一緒に話を聞いていた。
「トキサメ様はね、この場所を浄化する御方でもあるの」
八子は語る。
「血は穢れなんて言いますけれども、この場所において本当に恐ろしいのは血が流れる際に共に流れ落ちる怨念の方。恨みと苦しみ、深い悲しみを背負いながら亡くなった者たちは、必ず災いの種を残していく。その種を拾って癒し、無害な花を咲かせていくのがトキサメ様のお役目なのよ」
卯月はふとトキサメ様──時雨童女の姿を思い出した。ただの子供にしか見えなかったというのが正直な感想だ。神様だとか、巫女だとか、そういったものを想像させる姿ではなく、卯月が日常的に目撃する近所の幼児と何も変わらなかった。それでも、思い出してみれば確かに不思議な子ではあった。突然消えたこともそうなのだが、彼女と一緒に居る時は幻覚にも悩まされなかったし、妙に心身も軽かった。
──災いの種を無害な花に。
卯月は考え込み、ふと思った。気の迷いで飛ぼうとしたあの時に、時雨童女は災いの種を癒しに来たということだろうか。
「私は……トキサメ様に助けられた?」
首を傾げながら卯月が呟くと、八子はお面の下で目を細めた。
「思い当たる事があるならば、そう言う事でしょうね。あなたは幸運だった。トキサメ様はおひとりだもの。たったおひとりで全てを癒すことは不可能よ。だから、間に合わないことも多いし、間に合わない事があるからこそ、血はどうしても流れてしまう。そうして、浄化できなかった呪いが他の負の感情を食い荒らし、大きくなっていく。この土地に異変が起こる時、それはトキサメ様の小さな両手に抱えきれぬほどの悲しみがどこかで溢れてしまった時なのよ」
憐れむように八子はそう言った。
そして、口元に笑みを浮かべてから続けた。
「だからと言って、可哀想だった、哀れだったと同情のみを口にして、仕方ないという言葉で片付けては何もならない。見て見ぬふりをしているうちに、放っておかれた憎悪が膨らみ、手に負えなくなってしまえば、その矛先は必ずやトキサメ様に向かう」
「どうして……?」
恐る恐る訊ねる卯月にタマが答えた。
「それが悪霊というものだ。悪霊は強い霊力に引っ張られる。良し悪しも分からぬようになり、ただ欲望のままに人や人ならざる者を襲うのだ」
タマの言葉に捕捉するように、八子もまた語り出した。
「トキサメ様は霊力の強い御方。けれど、心優しく無力な御方でもある。憎悪の塊と化した怨念に襲われれば、無事では済まないでしょう。そして、トキサメ様に何かがあれば、この地を浄化するものはいなくなる」
「いなくなると、どうなるんです?」
卯月の問いかけに、八子とタマは一瞬だけ口を噤んだ。
やがて、タマの方が目を光らせながら静かに答えた。
「この地は呪われ、忌まわしき場所となるだろう。あらゆる凶事を呼び寄せて、果ては不毛の地と成り果てる」
卯月は息を飲んだ。
それはあまりに不吉な言葉だった。
「そうなることを防ぐ為にアタシはここにいるの。そして、そのアタシの助手がタマちゃんってわけ。けれどね、アタシたちがいればそれでいいというわけではないの。いつの間にかこの世界は目に見えぬ者の存在を忘れてしまった。形骸化した儀式も、中身の伴わない言い伝えも意味がない。誰かの都合に合わせた言動だけが重んじられるこの世界に、アタシたちを受け入れてくれる場所はない。ゆえに、何かあった際にアタシたちだけではどうにもならない」
「それってつまり、どういう事ですか?」
卯月が訊ねると、八子は呟くように答えた。
「ここを動けないのよ」
そんな八子の言葉を補足するように、タマは卯月に視線を送った。
その口元に笑みはなく、真面目な表情がお面の上からでも伝わってくる。卯月もまた真摯に向き合うと、タマは小声で言った。
「八子様はトキサメ様を御守するお使いキツネであらせられるが、この社から自由自在に動き回る事は出来ぬ。そしてそれはあたしも同様。八子様もかつてはトキサメ様のように時雨原を歩めた。だから、協力者が見つからなくとも良かった。しかしね、今は違う。
「協力……」
戸惑いつつ卯月は呟いた。
とはいっても、高校生の自分に出来るようなことなんてあるのだろうか。そんな思いの方が強かった。たいしてできる事なんてなさそうなのにと。
半信半疑のなかにいる卯月にとって、この話はあまりに突飛なものにも思えた。
そもそも、と、卯月は頭を抱えた。自分はこれまでずっと幻覚に悩まされてきた。信じることを前提に話をすると約束したとはいえ、だからと言ってその可能性の全てをゼロだと思い込むことは出来ない。
タマと八子。
本当にこのふたりは、実在するのだろうか。
口を噤んだまま首を振る卯月に対し、タマは唸りながら腕を組んだ。八子の方もまた困ったような表情を見せる。
卯月が何も言わずとも、その心に宿る疑念を悟ったのだ。
「ふーむ、困った。困ったわね」
八子は言った。
「どうにもこうにも、あなたって相当疑り深くて頑固なお嬢さんのようね。いいえ、それが悪いってわけじゃないわ。疑いの心はないよりもあった方がいい。頑固さもまた同じ。優しすぎてお人好しだと騙されやすくて危なっかしいもの。とはいえ、困ったわね。アタシたち、どうやってあなたに証明すればいいのかしら」
「他に見えるっていう人がいればいいんですがねぇ」
タマの言葉に八子はこくりと頷いた。
「そうね。せめてもう一人、アタシたちを正しく見ることの出来る第三者がいれば、話は簡単なのかしら」
「今の私は……その第三者の存在自体も疑うと思います」
辛うじて卯月はそう答えた。
そう言う話を聞いたことがあったのだ。日頃仲良くしていた親友自体が幻覚だったという事例。症状が酷くなればなるほど、そう言う事も起こり得る。
頑なな卯月の態度を前に、タマはすっかりお手上げのようで黙り込んでしまっていた。一方で、八子はしばらく熟考した後、溜息交じりに卯月へ声をかけた。
「もうこの際、幻覚だと思われてもいいわ。それでいいから、話だけでもあと少し聞いてくれないかしら」
困り果てたようなその口元の表情に卯月は気づき、頷いた。
すると、すこしだけホッとした様子で八子は語り出した。
「では、続きをお話しましょうか」
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