4.協力者たちの歴史
八子とタマが語るには、かつてこの地の人々は信仰に篤く、それゆえに八子やタマが鳥居の外も自由にうろつけるような風土であったという。
しかし、いつの時代もそうであったわけではない。時代が大きく変わる転換期において、時折、幽世と現世にはずれが生じ、時雨童女のように時雨原をうろつくことが難しくなってきたという。
そうであっても普段ならばたいした問題にはならないという。平時ならばこの世は時雨童女の小さな手で清められるほどの呪いしか生まれないというのだから。
しかし、そうでない場合、現世を自由に動き回れる協力者が必要だった。
「ここ百五十年ほどで二度ほど現世の人間の手を借りたことがあったわ」
八子は語った。
「前回は八十年近く前、前々回は百五十年ほど前。百五十年前はこのあたりのお地蔵さんが人間たちの都合で壊されてしまって、そこへ悪運が重なった。ひょっとしたら意外に思われるかもしれないけれど、お地蔵さんもまた人々の信仰を集める場所。アタシたちにとってはその一つ一つが都合の良い拠点だったのだけれど、壊されてしまってはしょうがない。そんな時に呪いをためてしまった悪霊が大蛇の姿で現れて、トキサメ様が飲み込まれそうになってしまった。そこを頼ったのが麓に暮らしていた女の子だったのよ」
「年頃は確か……今のお前さんよりも少し年上くらいだったかな」
タマが腕を組みながらそう言った。
「あまり良い身の上じゃなかったのだが、八子様がその娘の素質を見抜かれたためにこの辺りの人間たちからも尊ばれるようになった」
「お地蔵さんが壊されてしまったとはいっても、その頃はアタシたちの姿を見たり、声を聞けたりする人たちも多かったからね。トキサメ様を見ることが出来る人も多かったし、時雨原を呪う化け蛇が見える人も多かった。確かに神様の使いが選んだ女の子ってことで、それはもう大事にされたのよ」
「だから、その時は何が起こっても安心だった。この地が内戦の舞台となり、多くの呪いがトキサメ様を襲おうとした時代も、彼女がトキサメ様を守ってくれた。しかし、時は流れ、その女子も年を取る。そして彼女が亡くなった頃に、次なる凶事は訪れた」
「これまでにない大きな戦いよ」
八子はそう言って口元を結んだ。
「人間たちのことはアタシ達にはよく分からない。だから、アタシが語れるのはここで起こった事実だけ。八十年近く前、空から火が降ってきて、この辺りの人々がたくさん命を落とした。そして、時雨原にはたくさんの亡骸が置かれたの。トキサメ様はそんな状況の中でも亡骸に残された思念を癒していったわ。けれど、あまりにも数が多すぎて、その小さな手ではとても抱えきれなかったの。そして、そんな状況にも関わらず、アタシたちは拠点をなくしてここから自由に出られない。そんな時に頼ったのが、時雨原を出入りする青年だったのよ」
戦時中に起きたことを卯月はよく知らない。戦争体験を聞き、学ぶ機会はあったものの、実際に住んでいる地で昔起こったことについては知る機会も殆どなかった。ただ、時雨原の周辺に広がっていた町では空襲による被害が大きく、焼夷弾によって全てが焼かれ、多数の死者が出たという事くらいしか知らない。
しかし、知らないとはいえ、何となく想像は出来た。それまでにない惨劇に、時雨童女の癒しが間に合わないのは納得がいく。
「戦争が終わって落ち着いた後も、その傷痕は時雨原に渦巻き続けていた。だから、彼は協力してくれたの。アタシたちの代わりに動き回って、トキサメ様を御守してくれたのよ。この地の開拓が進み、住宅街として栄え始めたあとも、彼は長く働いてくれた」
けれどそれも八十年近く前の話だ。
その青年が生きているにせよ、すでに他界しているにせよ、若い頃のように動き回るということはもう不可能だろうということは卯月にもよく分かった。
「彼が引退した後、時雨原は長らく平穏だった。もちろん、何事もなかったわけじゃないわ。不幸な事はたびたび起こるし、誰も悪くないのに苦しい状況に陥ってしまう人はどうしても現れる。その度にトキサメ様はこの地を歩き回り、苦しむ人たちをそっと癒してくださるの。平和の守られた時代にトキサメ様の御慈悲。そのお陰で彼の手を借りずとも、この地はどんどん清められていった」
八子は懐かしそうにそう言った。けれど、切なそうに溜息を吐いた。
「けれどね、町が栄えれば栄えるほど、時雨原に暮らす人の数も増えていく。かつては人の数よりもタヌキやアナグマの数の方が多かったのにね、今ではその時のことが考えられないくらい開拓が進んでしまった。人が増えれば賑やかになるけれど、賑やかになればそれだけ問題も発生する。世の中が平和であっても、トキサメ様の小さな両手では抱えきれないほどの人たちがそれぞれの悩みを膨らませてしまう現状。それも、彼が引退した後になって深刻化していったのよ」
八子の言葉に続いて、タマは卯月に囁いた。
「いかに優秀で頼りになる人物も、人である以上は年を取る。いつまでも若々しく過ごせるわけではない。死んだ人まで頼る事はあたし達にもさすがに出来なくてね。死んだ後にその霊魂が残っていたとしても、それは幽世の住民。生きていた頃のように現世に干渉することは難しくなってしまうのだ」
「そう、老いた人も死んだ人も頼れない」
八子が言った。
「だから、アタシ達には常に若い協力者が必要なの。それなのに、年々、アタシたちは忘れ去られていく。お社を管理してくれる人はまだ辛うじていてくれるけれど、アタシたちの声を聞き、姿を見ることが出来る人は今や殆どいない。困ったものよね」
そして、ちらりと卯月の顔を見つめた。
「そんな時に、トキサメ様はあなたを見つけた。可哀想に、あなたはとても悩んでいて、その苦しみのせいで心がすっかり濁ってしまっていた。そんな人は何処も多いわ。平和な時代になったといっても、その豊かさの中で何の不安もなく笑顔で暮らせる人ばかりじゃない。あらゆる時に人々はふと未来を不安に思って、そんな時に見えない悪鬼が囁くの。そういう事があなたにも起こったのでしょう?」
八子の言葉に卯月は俯いた。
幻覚症状は辛かった。無視し続ければいいなんて思っていても、どこからどこまでが幻覚なのかが分からなくなっていくとしたら、日常生活すらままならない。そんな状態で生きていけるのかと深く考えると、今でもまた消え去りたいと思ってしまうほどだった。
あの時、身も心も崖っぷちに立たされていたのはそのせいだ。
終わらせたいという思いと、まだ足掻きたいという思いの狭間に自分は立っている。
比較的恵まれていると言える暮らしをしているはずであるし、そうでないとは口が裂けても言えないけれど、それでもやはり生きていく自信がなくなる瞬間は生まれるのだ。
そんな時に、悪魔は現れる。悪鬼でも、妖怪でもいい。とにかく心に隙が生まれ、極端な選択をさせようとするわけだ。
もしもトキサメ様がこの世にいなかったならば、自分もまたこの世にいなかっただろうと卯月は感じた。あの時、幼子の姿で手を引っ張ってくれなかったら。想像するだけで怖くなってくる。
「トキサメ様があなたを助けてくれたその理由については、お使いキツネとはいえアタシにも分からない。もしかしたら、これは偶然なのかもしれないわ。でも、偶然で結構。やってきた好機を逃すことなんてアタシにはとても出来ない。だから、恥も外聞もなくお願いしたいことは一つ。自由に動けないアタシ達と一緒に、この時雨原に起こっている化け猫騒動を解決して欲しいの」
八子の言葉に卯月は戸惑った。
幻覚症状に悩んでいるだけの普通の女子高生に出来る事なのだろうかという疑問は解消されていない。
けれど、お面の下から伝わってくるその切実な思いを無下にすることも出来なかった。
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