3章 半信半疑の世界
1.たとえ夢は夢であっても
──夢か。
目を覚ました卯月は真っ先にそう思った。
現実ではなく単なる夢。頭を抱えながら卯月は俯いた。きちんとお礼を言いたい気持ちが反映されたのだとしてもおかしくはない。だとすれば、あのやり取りは何の意味もないものだったらしい。
そのはずなのだが。
──時雨神社、か。
朝の支度を黙々とやりながら、卯月の頭に浮かぶのはその名前だった。
夢は夢。現実ではない。深層心理が反映されているだけならば、そこでのやり取りもまた無意味なもの。自分自身の記憶と感情によるものであって、それは事実などではない。そうは思っていても、そう思いたくとも、きっとそうじゃない事を心の何処かで祈ってしまうのだろう。卯月の脳裏にはその場所の光景が焼き付いていた。
──タマさん、か。
本当にその名前で合っているかも分からない。しかし、夢の中でのタマとのやり取りは起きているいま思い出してみても非常にリアルな体験だった。
家を出て、学校へ向かう時間となっても、卯月は悩み続けた。
──あまり遅くなるな。
そのやり取りを信じ、その言葉を信じるのならば、時雨神社に向かうべきだ。そして、それは今日の放課後が相応しい。
半信半疑ではあった。根っから信じているわけではない。それでも卯月には夢の会話に従うだけの理由もあった。仮にあれが単なる夢だったとしても、恐らく自分は夢の中でタマと名乗ったあの人物にきちんとお礼を言えなかったことを引きずり続けている。そして、鍵を握るのが時雨神社。
自分の頭の中で勝手に関連付けていたのだとしても、卯月にはそれでよかった。事実はともかくあの神社に参拝すれば、自分の心は落ち着くのではないかと思ったのだ。そうしなければ、心が軽くならない。気休めであったとしても、何の解決にならなかったとしても、卯月には必要な事だった。
気が急いていることも関係しているのだろうか。その日の学校生活は、ここ最近の卯月にとって非常に安定したものだった。幻覚は殆ど見えない。せいぜい人影のようなものがたびたび視界の端に映るくらいで、これまでのようなはっきりとした幻覚は全く見えなかった。声も同じだ。不気味な声は一切聞こえず、時折、頭の中で響くのは、昨夜の夢の中で聞いたタマというあの女性の声だった。
──あまり遅くなるな。
お陰で卯月はいつも以上に授業に集中できた。
そして放課後、卯月はすぐに学校を去り、昨日と同じく五円玉を握り締めて時雨神社の場所を目指した。
迷いはしなかった。学校から遠くとも、全く道が分からない等ということはなかった。おおよその位置を覚えていたら、あとは向かうだけ。足取りは決して重くない。学校での時間と同じように、幻覚らしい幻覚は全く現れなかった。
昨日までと何が違うのだろう。
卯月は不思議に思いながら、不気味であっても親しみ深い時雨原の道を歩き続けた。
そして、足が疲労を覚えてきた頃になって、ようやく卯月は時雨神社の幟を見つけた。やはり迷ったりはしなかった。そして不思議なことに幻覚症状にも見舞われなかった。昨日、ここまで一緒に来たあの幼児の姿も見かけられない。あれもまた幻覚だったのか。それとも──。
様々な事を思いながら、卯月は苔むした鳥居をくぐった。
光景は、昨日見た時と同じ。そして、夢の中で見た景色とも一致した。夢は夢でもだいぶ忠実な夢だったらしい。
──たとえ夢は夢であっても。
卯月は胸に秘めながら、賽銭箱に五円玉を投げ入れた。
手を合わせ、目を閉じながら心の中で呟いた。
──約束通り、参りました。
そして、しばしの沈黙が流れる。小鳥の声しか聞こえてこない事を確認すると、卯月は目を開けた。
やはり、あれは単なる夢だったのだろうか。
そう思った、その時だった。
「来てくれたか」
声がして、卯月は慌てて横を見た。
いつの間にか、隣にはタマがいた。相変わらずお面で顔を隠した状態で、卯月をじっと見つめている。その面の下にある目は、やはり猫の目であった。
「タマ……さん?」
躊躇いつつも、卯月はその名を呼んだ。夢の中で聞いた名前ではあったけれど、勇気を出して口にした。
すると、タマは口元に笑みを浮かべた。
「よし。昨夜の事は覚えているようだね」
その言葉に卯月はようやくほっとした。
「ご足労感謝する。夢の中ということで、忘れてしまわないか心配だった。それに、取るに足らない記憶と思われやしないかと」
思いそうになった、とはとても言えなかった。
その代わりに卯月はタマに告げた。
「ここへ来ることが、私の心の安定にも繋がると思ったんです」
そんな卯月の言葉を聞いて、タマは小さく頷いた。
「なるほどね」
そして、下駄の音を立てて拝殿の方へと歩みだし、卯月の正面に立った。
「それはともかく、さっそく問おう。お前さんはどうしてここへ来た?」
「どうしてって……呼ばれたから」
「呼ばれた上で、どうしたい?」
「それは……あの……」
卯月は一瞬だけ口籠ってしまった。
お礼を言いに来たのだ。そう即答できなかったのは、卯月自身がまだ信じ切れていないからだろう。自分の見ているもの、聞こえているものが本当なのか。このタマという人物は、本当にいま、自分の前にいるのかどうか。
けれど、その全てを振り払い、卯月はしっかりと答えたのだった。
「ちゃんとお礼を言いたいです」
力強いその答えに、タマは大きく頷いた。
そして、改めてタマは姿勢を正すと、真顔になって卯月を見つめた。
「よろしい。では、その前にいくつか質問をしよう」
「し、質問、ですか?」
「ああ。これは鍵でもある。今よりお前さんが会うことになる御方は、あたしとは格が違う。多少霊感があろうと誰とでも言葉のやり取りが出来るわけではない。決められた者のみがその方とお会いできるのだ」
卯月は息を飲んでタマの話を聞いた。
霊感、と言っただろうか。つまり、タマからすれば、自分の見ているものは霊感によるものという事になるのだろう。
その是非はともかくとして、卯月は大人しく頷いた。
「分かりました」
すると、タマもまた肯いてから語り出した。
「では、最初の質問だ。お前さんの名前を口にしておくれ。姓名全てでなくて良い。よく使う方の名前を答えるのだ」
「卯月です」
短く答えると、タマは小さくその名を繰り返してから続けた。
「お前さんの干支はなんだ?」
「うさぎです」
「お前さんの生まれた月は?」
「四月です」
「兄弟は何人いる?」
「一人っ子です」
「父母は優しいか?」
「普通だと思います」
「友達は多いか?」
「あまりいません」
「では、最後だ。いま、何に悩んでいる?」
卯月はじっとタマを見つめた。
見透かしてくるようなその眼差しに戸惑いつつも、軽い溜息と共に答えた。
「幻覚が見えることに悩んでいます」
正直に答えると、タマは顎に指を当てる。
「なるほど、幻覚か……」
呟きながらタマは賽銭箱の前を歩き回った。カランコロンと聞こえてくるのは下駄の音。その姿さえ幻覚であると言い切るつもりはないものの、それでもやはり、卯月はその可能性を薄っすら考えてしまうのだ。まるでそれを見透かしているように、タマはぴたりと足を止め、卯月をじろりと見つめてきた。
「お前さん、あたしの事も幻覚だと思っているな。違うか?」
真っすぐしたその問いに、卯月は思わず目をそらしてしまった。
それが嘘偽りのない答えとなってしまったのだろう。タマは小さく声を漏らす。そして、ゴロゴロと猫が喉を鳴らすような音をしばらく漏らしてから、ぶるぶると首を振った。
「まあ、良い。あたしが咎めるような事はない。なるほど幻覚か。たしかに幻覚に取り憑かれ、それを霊感だと信じる人間もいる。しかし、お前さんは違う。違うということをまずは信じた上で、今から呼ぶ方と話して欲しい。良いか?」
その問いに、卯月はゆっくりと頷いた。
すると、タマはようやく笑みを深めてから拝殿に向かって体を向けた。
「では、お呼びしよう。──ヤコ様。お聞きになりましたね?」
タマの言葉の直後、そよ風が生まれた。卯月は目を凝らした。拝殿の奥に何かがいるらしい。目を凝らしていると、その何かはゆっくりとこちらに近づいてきた。
薄っすら光っているようなそれを見て、卯月は息を飲んでしまった。それは、非常に美しい真っ白な狐の姿をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます