4.夢の中での再会

 失礼な事をしてしまった。

 ようやく卯月がそう思えたのは、一日を終えて眠りにつく布団の中でのことだった。

 冷静になってみれば、どうしてあれほど恐れてしまったのかが分からない。猫を抱いていた女性はともかく、お面をつけた彼女は助けてくれたようだったし、何より会話をすることだって出来たはずなのに。

 あの目。

 あの光る目が怖かったからだ。

 けれど、あの目にも何か事情があったのかもしれない。

 もしも生まれつきの目であったとしたら、或いは、何かしらの事情でああいう目をしているとしたら、とんでもなく失礼な態度をとってしまった。

 ──困ったな。どうしよう。

 卯月は布団に潜りながら溜息を吐いた。

 謝りたくとも彼女が何処から来たのかも、何処へ行けば会えるのかも分からない。あの後、何処へ向かったのかも分からない。そうである以上、どうしようもなかった。

 ──馬鹿だな。私。

 日頃、心が追い詰められているせいだろうか。心だけでなく体まで委縮してしまうほどの後悔だった。けれど、成すべきことはもはやない。またしても意味のない涙を流してしまう前に、卯月は両目を閉じた。

 処方されていた睡眠薬のためだろう。目を閉じて、暗闇の中に潜ってしまえば、あとはさほど悩むことなく卯月の精神は眠りへと沈んでいった。

 夢。それは深層心理の影響をもっとも受けやすい世界である。今宵、卯月が迷い込んだ夢の世界もまた、間違いなく今の卯月が思い悩む事柄が丁寧なまでに反映されていた。

 眠りの果てに卯月が降り立ったのは鳥居の前だった。

 苔むした鳥居と、時雨神社の名前。

 ──あの神社だ。

 卯月はすぐに周囲を見渡した。間違いなく記憶にある通りの場所。名前も分からない幼児と共に訪れたあの場所だった。賽銭箱も記憶にある通り。拝殿の奥の神棚もまた、記憶にあった狐の置物とお面が置かれている。

 ──そうだ。お面だ。

 卯月が思い出したのは、もちろんあのお面の女性。彼女がつけていたお面によく似ている。形は少し違うようだが、描かれた模様などは一緒に見えた。

 息を飲みつつ卯月が拝殿へと入ろうとしたその時、背後から声はかけられた。

「こっちだよ」

 慌てて振り返ると、そこにはあのお面の女性がいた。

「わっ──」

 驚いて躓いてしまった卯月の手を、お面の女性はぐっと掴んで引き上げた。その力強さに呆気にとられていると、お面の女性は口元に笑みを浮かべた。

 卯月は彼女の目を確認した。お面の下から覗くその目は、卯月が恐れたあの目と同じだった。違うとすれば、その瞳の大きさだろうか。冷静に見つめてみれば、瞳の周囲の金色の虹彩が美しかった。

「ほう、さっきよりは冷静になったようだな」

 相変わらず涼しげな声でそう言うと、お面の女性は卯月の顔を覗き込んだ。

「とはいえ、あの態度よ。あれはなんだ。少し傷ついたぞ」

「ご、ごめんなさい! あまり見たことのない目でつい……」

「ほう? 猫の目を見たことはないのか」

「い、いえ、猫の目は知っているのですが、その……」

 卯月は口籠った。

 まさか人間に猫の目がついているなんて考えられるだろうか。

 だが、卯月は分かっていた。非があるのは間違いなくこちらである。どんな言い訳も謝罪を彩る装飾にはならないのだと。

「とにかくすみません。失礼でしたよね。本当にごめんなさい」

「ふむ……こうやって素直に謝るということは、反省しているということかね。まあ、いい。お前さんがあたしの事をどう思っていようが関係ない。こうして冷静に話が出来るのならそれに越したことはないのだ」

「お話……ですか?」

 卯月は訊ね返した。

 するとお面の女性は深く頷き、下駄を鳴らしてひょいと跳ねた。まるで猫が跳躍するように。すると、夢の中でありがちな事でもあるが、途端に周囲の景色は変わり、真っ白な何もない空間へと変わった。

「ちょいと夢を弄らせてもらったよ。ここなら何にも気をとられずに話せるからね」

「はぁ……」

 よく分からないまま卯月が相槌を打つと、お面の女性は卯月の手をぎゅっと握り締め、こう切り出した。

「今から話すことを落ち着いて聞いておくれ。あの夜道で出来なかった話だ」

 卯月が静かに肯くと、お面の女性はホッとしたように笑みを浮かべた。

「よし、では、落ち着いたところで自己紹介からしよう。あたしの名前はタマだ。よくある猫の名前と一緒。昔はおタマさんなどと呼ばれて可愛がられていたものだが、今の世は女性の名前のまえに『お』をつけることがなくなって久しい。よって、あたしの事もタマと呼ぶがいい。タマさんでもいいぞ」

「分かりました……タマさん」

「うむ。謙虚な子だ。感心したぞ」

 タマと名乗った彼女は満足そうに頷いてから、話を続けた。

「夜道でも言うたが、あたしがお前さんを助けたのはあたし自身の意思ではなく、そう命じられてのことだ。よって、お前さんが礼を言うべき相手は、あたしではなくその命令した人物ということになるわけだ」

「タマさんは、それを言おうとしてくれたんですよね」

「そうだ。その前にお前さんは逃げてしまったのだがね」

「すみませんでした」

「それはもうよい。それよりも、だ」

 タマはカツンと下駄を鳴らした。

 白くて何もない空間が揺らぎ、水面のように足元に波紋が広がる。その動きに何故だか卯月の頭は冴えてきた。

 妙に落ち着いたところで、タマは言った。

「お前さんが礼を言いたいのなら勿論、特に言わなくてもいいと判断したにせよ、行って欲しい場所がある……時雨神社だ」

 卯月は納得した。

 やはりあの神社に関係する人物なのだ。

「時雨神社……あの神社に私を助けてくれた人がいるんですね?」

「ああ、そういうことだ。助けた理由は本人に直接聞いて欲しい。あたしがここで伝えられるのはそれくらいのことだ」

「あの……タマさん」

 腕を組み、つんとそっぽを向くタマに対し、卯月はそっと訊ねた。

「タマさんは何者なんですか?」

「……うーん。それについても、時雨神社で話そう。とにかくお前さんにいま委ねるのは、あたしの呼びかけ通りに神社に来るか来ないかである。明日のどの時間でもいい。なんなら、明後日だっていい。だが、来るつもりならば、あまり遅くなるな。事態はあまり良くない。いつまでも昨日のように介入できるとは限らないからね」

 そう言ってタマはお面の下で目を細める。その顔を見つめ、卯月はおずおずと頷いた。すると、タマは軽く笑ってから言った。

「素直な娘っ子だ。あたしは素直な子が好きだぞ」

 そう言って、タマは卯月に背中を向けた。

 帰ってしまう。そう思った卯月は、とっさにその背中に呼びかけた。

「あ、あの!」

 ちらりと振り返るタマのお面に向かって、卯月は躊躇いつつも言った。

「助けてくれてありがとうございました」

 タマは首を傾げ、呆れたように口を開いた。

「だからそれは──」

「ええ、時雨神社にいるというその方にも勿論お礼は言います。でも、命じられたからといっても、実際に助けてくれたのはあなただったわけですし。だから、ありがとうございました」

 ようやく伝えられた。心からそう言ったことで、卯月の心はだいぶ軽くなった。

 全く動かなかった重石がようやく転がっていくような解放感だった。しかし、これは自己満足に過ぎないのだということも、卯月は分かっていた。

 頭を下げる卯月を前に、タマは言葉を失ったまま立ち尽くしている。その視線を浴びながら、卯月はただならぬ緊張を感じていた。

「お前さん、全て分かった上であたしにも感謝してくれるのか」

 タマはぽつりとそう言うと、ほんの小さな笑い声を漏らした。

「それもまた嬉しいものだな」

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