3.お面をつけた女性
カランコロンと音を立て、暗い夜道から現れるその人影は、ほんの一瞬だけ卯月を期待させ、すぐに絶望させてしまった。
その人物もまた、明らかに普通ではなかったのだ。
ただ変わっているだけならば良かった。そうではなく、あれもまた幻覚なのではないかと思うような不気味な風貌をしていたのだ。
恐らく女性と思しきその人物は、どんな顔をしているのかが殆ど分からない。素顔の代わりに確認できるのは白いお面。鼻より上をすっぽり隠す獣のお面だった。狐か、狼か、はたまた猫か、曖昧な造形のそのお面は、よくよく見ると時雨神社に祀られていたお面にも似ていた。
服装は赤い和服。女性らしいが着物ではなく、動きやすそうな甚平に近い。
彼女は下駄の音を立て、卯月の立ち尽くす傍までやってきた。そして、曲がり角まで到達すると、およそ生き物らしくない身動ぎで顔を動かし、卯月の行く手を阻んでいる不気味な女性を見つめたのだった。
チリン。
直後、お面の女性は鈴を鳴らした。神楽鈴ではない。どちらかと言えば、托鉢の際に使われる持鈴に音は似ているが、卯月が見る限り、彼女の持つ鈴はそれとも違った。
鈴は鈴。単なる鈴だ。強いて言えば、猫の首につける鈴に似ているかもしれない。鈴を通している赤い紐もまた、柔らかいリボンタイプの首輪に見えなくもない。
──首輪?
疑問に思っていると、異様な声が聞こえてきた。
お面の女性に睨まれている先だ。恐る恐るそちらへと目を向けて見て、卯月は声を詰まらせた。先ほどの不気味な女性が大きく口を開いていたのだ。腕に抱いている猫も同じ。どちらも真っ赤な口を開け、おどろおどろしい声をあげていた。
卯月も聞いたことはある。
間違いなくそれは、威嚇する猫の声だった。
その眼差しの先にはお面の女性がいる。どうやら彼女の持つ鈴の音を嫌がっているらしい。あるいは、嫌がっているのはお面の女性の存在自体だろうか。威嚇されてもお面の女性は動じることなく、鈴を片手に歩み出した。
その瞬間、威嚇の声はさらに強まった。
黒猫も、それを抱く女性も、目をギラギラさせながらお面の彼女が近づいてくることを全力で拒んでいた。
しかし、態度で示す事ぐらいしか出来ないのだろう。その抵抗も碌に効果はないようで、どんなに拒んでいても、鈴の音、そして下駄の音が近づいてくることは避けられないようだった。
やがて、お面の女性は猫を抱く女性の間近まで接近し、鈴を軽く鳴らした。
チリン。
その直後だった。
猫を抱く女性は真っ赤な口を大きく開けた。耳を澄まして辛うじて聞こえてくる小さな悲鳴があがったかと思えば、徐々にその音は大きくなっていく。やがて、絶叫と呼ぶべき音量に到達した果てに、猫と女性は姿を消してしまったのだった。
それこそ、唐突に。
見ていた卯月が瞬きをした瞬間に、彼らは消えてしまった。
残されたのは卯月と、そして鈴を手に持ったまま立ち尽くしているお面の女性だけ。
卯月はじっと彼女を見つめた。その背中からは、当初感じたような異様さはもう感じなかった。少し変わった姿をしているだけで、本当にいる人間なのかもしれない。それよりも、今起こったことの方が卯月には重要だった。
助けてもらった。その事に間違いはない。
卯月は確信をもってお面の女性へ近づいていった。
「あ……あの……」
声をかけると、彼女は振り返る。
どうやらちゃんと聞こえているらしい。
それだけでも、幻覚ではないという可能性が高まって、卯月は少しだけほっとした。その上で、お面の女性に訊ねた。
「助けて……くれたんですよね?」
すると、お面の女性は卯月を見つめたまま、静かに鈴をしまった。下駄の高さもあるが、背丈のほどは、およそ平均的な女子高生の背丈である卯月よりも少し高いらしい。見下ろす形で卯月を見つめると、お面の女性はようやく口を開いたのだった。
「お前さんが助けてもらったと感じたのなら、きっとそうなのだろうな」
それは卯月にも分かる言語。ちゃんとした言葉。とても綺麗な声だった。澄んだ声と呼ぶにふさわしい。聞き心地の良いソプラノの声。それでいて、どこか威厳を感じる口調が印象深い。それはまさしく卯月の耳にしっかりと残る声だった。
それにしてもだ。
──助けてもらったと感じたなら。
不可思議な言い回しだ。まるで、そうじゃない可能性もあると言わんばかりの。しかし、卯月は気にせずに彼女に頭を下げた。あの猫を抱いた女性を追い払ったのは、間違いなくこの人であるはずだから。
「あの……ありがとうございました。多分、あなたが来なかったら、私、危なかったんじゃないかって。あれの正体も何も分かりませんが、とにかくありがとうございました」
礼を繰り返す卯月に対し、お面の女性はそっと首を振った。
「あたしは言いつけられたことをやっただけだ。しかしな、お前さんにとってこれが感謝しなくてはならない事であるならば、あたしの他に頭を下げる相手がいるようだぞ」
「それって……どなたの事ですか?」
卯月が顔をあげると、お面の女性は口元に笑みを浮かべた。
「気になるか。しかし、今日はもう遅い。もし、きちんと礼を言いたいのであれば──」
と、彼女が言いかけたその時だった。
雲に隠れていた月が、卯月たちのいる場所を照らしたのだ。その瞬間、卯月は異様なものを見てしまった。
目だ。
白い獣のお面に隠された彼女の目。
その目が確かに光ったのだ。
息を飲み、それでも間違いがないか、卯月は注視してしまった。そして、理解した。やっぱり光っている。それも、人間の目ではない。
息を飲む卯月の表情に、お面の女性もまた動揺を見せた。何かを言いかけて近づこうとする彼女の動作に、卯月はとっさに反応してしまった。お面の女性の接近を避け、その横をすり抜ける形で走って逃げてしまったのだ。
「──おい」
呼び止める声が聞こえてきた。
だが、卯月は止まれなかった。
人間じゃない。あれは人間の目じゃない。闇夜に光るその目は、白目のない獣の目だった。あり得ない。絶対にあり得ない。卯月は混乱し、走り続けてしまった。相手が助けてくれた恩人であることも忘れ、ただただ恐怖に駆られてしまった。
動き出した足は止まらない。
家までほんの数十メートル。
しかし、この間は先ほどと比較にならないほど卯月は長く感じた。
臆病者。弱虫。無礼者。意気地なし。小心者。礼儀知らず。恥知らず。
あらゆる罵倒が卯月の耳の奥で聞こえてきた。自分の声であったり、クラスメイトの声であったり様々だ。しかし、所詮は幻聴。卯月は自分に強く言い聞かせる。混乱しているためだろう。だから、脳が暴走しているのだ。
だが、そうやって冷静に捉えようとも、声は一向に止まなかった。しまいにはそれら幻聴は互いに共鳴しあい、大きな雑音となる。沿岸で聞く海鳴りのような、ざわざわとした轟音はやがて一本の線になり、不快な耳鳴りへと変わってしまった。
──頭が痛い。
そんな状況で走りに走り、走り続け、ようやく卯月の気持ちが落ち着いたのは、家に帰りついた後だった。玄関でしばらく息を整えて、耳鳴りが止んだのを確認してから、泣き出しそうな気持を必死に堪えて家にあがってみると、どっと疲労が溢れてきた。せっかく堪えていた涙もこぼれてしまって、居間に向かう前に洗面所へと直行するしかなかった。
──今日はもうさっさと寝てしまおう。
手を洗い、顔を洗って、鏡を見つめてみれば、一瞬だけ先ほどのお面の女性の幻覚が見えた気がした。
──頭が疲れているんだ。きっと。
卯月は自分に言い聞かせた。
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