2.終わらない幻覚
あれは幻覚だったのだ。
自販機の無機質な音を聞きながら、卯月は真っ先にそう思った。消えてしまえば辺りにもう誰もおらず、さっきまで目にした光景自体もあやふやになっている。
逆にあれが幻覚でなかったとしたら、いったい何であるというのか。
卯月は頭を抱えた。
幻覚が酷くなる時がいつなのか。まだまだ断言できるわけではないが、心当たりとしてあげられることが少しある。その一つが疲労だった。確かに思い返してみれば、長く集中している時、眠気が強い時、不安や恐怖を感じている時、運動を終えた時、起床時間が長くなってきた時など、心身の疲労が蓄積していると思われる時に、幻覚症状が現れているような気もした。
こういう時にすぐさま抑えられる薬があればそれも有難いが、ひとまず出来ることはある。それが休息をとるという事。特に睡眠は非常に有効な手段でもある。寝てしまえば大抵の事は気にならなくなるものだし、そのくらいしか今は出来ることもない。
今日はもう寝てしまおう。
課題は明日早く起きてやればいい。
そう自分に言い聞かせて、卯月は夜道を駆けだした。
自販機の並ぶ道から自宅までは本当にあと少ししかない。それなのに、そのあと少しのなんと長い事か。夜道を急ぐ自分の足音にすら怖気づいてしまうほど、卯月の心はすっかり怯えてしまっていた。
だが、そんな卯月をさらに追い込もうとするのが幻覚だった。いや、本当に幻覚なのだろうか。幻覚であって欲しいあまりに、そうであるはずだと強く念じて決めつけているのかもしれない。事実はどうあれ、卯月を襲う現象は容赦がなかった。流れる視界の端々に移り込むのは、先ほど消えたばかりの猫を抱いた女性の姿。こちらを見ていると思って走って通り過ぎるのも一瞬の事、またすぐに視界の端に移り込むからキリがない。勇気を出してそちらを見れば、何かの見間違いだと分かるかもしれないのだが、それすら難しいくらい卯月の心は委縮していた。
──幻覚……幻覚だよね?
幻覚だとしても怖いのは確かだが、幻覚じゃなかったらと想定するのはもっと怖い。ひたすら目を合わせないように気を配り、先を急ぎつづける事しか出来なかった。
幻覚ならば、きっと怪談を聞いてしまったせいだ。しかし、こんな展開は聞いていない。いつまでもついて来るなんて聞いていない。
──お願いだから、早く消えてよ。
いらいらしながら卯月は願った。けれど、そんな彼女をあざ笑うかのように、視界の端に移り込む女性の姿は消えなかった。その上、この道もなんだかおかしい。家までの距離はそんなにないはずなのに、歩いても、歩いても、距離が縮まらない気がしたのだ。
──さすがにおかしい。
卯月はぴたりと立ち止まった。
視界には相変わらず猫を抱いた女性がいる。その眼差しの方は絶対に見ずに、卯月はただ前を見つめた。
家まであと少しだというのに、さっきから同じ通りが続いている気がしたのだ。これもまた何かしらの幻覚なのだろうか。
卯月は不安になりつつも、覚悟を決めて地面を踏みしめた。一歩一歩、確実に踏みしめながら歩いて行くと、周囲の景色はまた動き出す。そして程なくして卯月は気づいた。猫を抱いているあの女性の幻影が、今度はしっかりと遠ざかっていく。そのまま気を抜かずにさらに歩いて行くと、ついには視界から消えてしまった。
──よかった。
ほっとした卯月はそのまま進み続けた。先ほどからずっと目指していた角を曲がり、ようやく自宅のある通りへと足を踏み入れた。
だが、そこで卯月は歩みを止め、息を飲んだ。
現象はまだ終わっていなかったのだ。
「あっ……」
思わず声を漏らし、卯月は後ずさりをしてしまった。
自宅まであと少し。それなのに、その行く手にあの女性が猫を抱いたまま立ち尽くしていたのだ。異様に輝く目をこちらに向け、相変わらず口をぱくぱくさせて何かを言っている。その言葉は聞き取れず、また、絶対に聞き取ってはいけないような雰囲気を醸し出していた。そして、腕に抱かれた猫もまた、表情の読めぬ顔でこちらをじっと見つめている。
女性は近づいて来るわけではない。猫も同じだ。ただそこにいる。そこにいるだけ。けれど、それだけのことが卯月には非常に恐ろしく見えた。
先ほどの自販機前とは違う。脇をすり抜けることが恐ろしくてたまらない。だが、このままこうして見つめ合っているわけにもいかない。
卯月は必死に考えた。
家までの道はなにもこの道だけではない。遠回りになるが、ぐるりと迂回したっていいはずだ。けれど、そのためには一度、この女性から視線を外さなくてはならない。それが、今の卯月には非常に恐ろしいことに思えたのだ。
──どうしよう。どうしよう。
卯月は何度も考えた。考える先から思考が空回りし、答えは何も見つからない。次第に足は震えてきて、逃げ出すことも立ち向かうことも考えられなくなっていった。
このままだと、どうなってしまうのだろう。
酷い寒気のする中で、卯月の脳裏にはあらゆる可能性が浮かんでは消えていった。いずれも非常に悪い予想であり、望ましくない未来でもある。
明日以降も普通に日常が続いていくと信じている卯月にとって、その予想はあまりに恐ろしく、絶望的なものばかりだった。
しかし、卯月はどうすることも出来なかった。蜘蛛の巣にかかった獲物が成す術なく時を待つように、固まっていることしか出来なかった。
そんな卯月の無力な姿を見てなのか、恐るべきことに相手は少しずつ動き出した。
何を話しているのかも分からない。何を考えているのかも分からない。ただじっと近づいてくる彼女の目の輝きに、卯月は心を囚われてしまっていた。
彼女が何者かなんて卯月にはまだ分からない。
何をするつもりなのかもはっきりとしてはいない。
それでも、猫を抱いて近づいて来る女性の姿を見て、すっかり固まってしまった卯月が感じるのは紛れもない死の気配であった。
頭を過ぎるのは、これまで時雨原で起こった事故の数々。
犠牲者たちの死にざまは、敢えて語りたくないほど無残なものだった。二目と見られなかったという事故の犠牲者たちのその姿は、実際に目撃しておらずとも同じような目に遭いたくないと思うに十分な言葉だ。
もしもあれらが本当に、偶然などではなかったならば。本当に、この町で流れ続ける噂の通りであったならば。
卯月は恐怖した。
八人目の犠牲者は自分であるかもしれない。
それは、自分でも恐ろしくなるくらい確信を持った想像であった。
──そんなのは嫌だ。
迫りくるその気配を前に、卯月はとっさに願った。
どうか立ち止まってほしい。今すぐに消えて欲しい。何処かへ行って欲しい。自分に関わらないで欲しい。
あらゆる願いが次々に浮かんでは消え、最終的に卯月の心には強い願いが残された。
──死にたくない。死ぬのは嫌だ。
その直後だった。
カランコロン。
何処からともなく聞こえてくるのは下駄の音。今ではすっかり聞く機会も減ってしまったその音は、日も落ちて暗くなりつつある住宅街に響かせるにはいささか大きすぎる。それでも、それだけに、卯月の耳にしっかり届いたその音は、途端に卯月の心に入り込み、謎の勇気を与えてくれた。
すっかり寒気に囚われていた卯月の心身は解放され、ようやく卯月は女性から視線を外すことが出来た。
カランコロン。
場合によっては迷惑とも思われそうなその音は、少なくとも今の卯月にとって、非常にありがたいものに違いなかった。
──いったい誰?
下駄の音の主を捜そうと、卯月はすぐに周囲を見渡した。
そして、すぐに見つかった。
たった今、自分が歩いてきた通りの方から、こちらに近づいて来る人物の姿が。
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