2章 夜道で出会ったもの

1.日の沈んだ帰り道

 気のせいだろうか。身体が軽い。

 背中に翼でも生えているかのようだ。

 すっかり暗くなった道を歩きながら、卯月はそれを実感した。足取りは非常に軽く、坂道を登るのも辛くない。だが、それ以上に卯月が驚いたのは心の軽さだった。あれほど体が重たかったのはやはり心の問題だったのだろう。それが何故だか軽減されていたのだ。一体何故だろう。考えた結果、思い当たるのはやはり先ほどの出来事だった。

 時雨神社。

 至るまでは知らなかったその場所はもうしっかり覚えてしまった。

 道さえ分かれば自宅からもさほど離れていないことが分かる。ネックとなるのは階段だろう。神社のあった場所から卯月の自宅までの高さはそれなりのもので、高校生とはいえ運動部でもない卯月には厳しい道のりに違いない。

 しかし、この度の卯月にはそれすらも苦にならなかった。

 あの神社は何だったのだろう。

 まさかこれがご利益というものなのだろうか。

 いや、もっと現実的な分析をするならば、あの参拝が心の区切りになったのかもしれない。卯月はそう考えた。

 卯月はまだ若い。人生経験も浅ければ、判断力も未成年相応といったところだと、卯月自身が自覚していた。それでも中学生の頃や去年の自分よりは成長しているはずだという自負もあった。まだまだ柔らかいその頭に好奇心のままに吸収してきた様々な知識が、彼女に教えてくれたことがたくさんある。その一つが、人間というものが理屈だけで組み立てられていないという事だった。

 人間は自分で思っているほどに自分の事を知らない。

 自分が思っていることを言語化してみたとしても、それが本当に正しいのかは本人にすら分からない時がある。

 言葉に出来ない部分、思い込もうとしている部分、あるいは自覚できない部分が複雑に絡み合った結果、言葉と心が裏腹になるということはよくあるのだ。だから、気にしていないと思っていたことが後々になって体の健康を害し始めたりする。

 幻覚症状に絶えず悩んでいた卯月は、特にそれを実感していた。

 そしてそれは個人差も大きいのだという事を高校生活で日々学ばされていた。

 自分はどうやら他の生徒たちよりもややこしい心を持っているらしい。見えているものが幻覚にせよ、幽霊にせよ、そこからもたらされるストレスを振り払うことが同じ年頃の他の高校生たちよりも少し苦手なようだと気づけていた。

 だが、気づけていたとしても、どうにもならないのが心の怖いところでもあるのだ。

 卯月が悩んでいたのは、まさにそこでもあった。

 誰ともトラブルを起こさず、平穏無事に日常生活を送るにはどうしたらいいのか。その方法が分からずに、心はどんどんネガティブな方に傾いてしまう。考えを止めるには、無心で何かに没頭するか、眠ってしまうしかなかった。

 だから神社でのことは、そんな卯月にとって驚くべき大発見でもあった。もしも、あの参拝がきっかけで心が軽くなったのだとしたら、理屈はともあれいい事なのではないか。これからも辛くなった時は訪れてみてもいいのではないだろうか。

 一度そう思うと、しばらく見えなかった明るい兆しが見えてくるような気がして、卯月の足取りはますます軽くなった。

 ともあれ、今日はもう遅い。

 さっさと帰って課題を終わらせて寝てしまおう。

 とんとんと幼子のように駆けながら、卯月はいつも歩く通学路まで戻ってきた。

 ここからはいつもと変わらない。だいぶ前に閉められて以来、自販機だけが立ち並ぶ駄菓子屋跡が見えてくれば、帰りついたようなものだった。

 暗い中で辺りを煌々と照らしている自販機たち。その無機質な音を聞きながら卯月は黙々と歩いていた。

「なぁん」

 声がしたのはその時だった。

 赤ん坊の声にも似たそれは、確かに猫の鳴き声だった。別に珍しいことではない。猫の室内飼いの家も増えたとはいえ、まだまだこの辺りも野良猫は多かった。時折見かける猫もいる。その猫だろうかと卯月がふと声のした方へと目を向けると、声の主は見つかったと言わんばかりにタッタッタッと駆けていった。

 その姿が自販機の光にはっきりと照らされて、卯月はぴたりと足を止めてしまった。

 ──黒猫だ。

 途端に頭を過ぎったのは、クラスメイトたちの噂話だった。

 黒猫が飼い主らしき女性のもとに走っていくところを見たという話。それは、不審な事故で亡くなった全ての人々が生前に見たという光景だ。

 ──嘘でしょ。

 そう思いたかったものの、視界の先では鳥肌が立つほど噂通りに事が運んだ。猫は楽しそうにアスファルトの地面を走り、卯月の通ろうとしている先へと向かう。そこに人がいることに卯月は初めて気づいた。猫が駆け寄ると、飼い主らしきその人物は音もなくしゃがみ、優しく抱き上げる。その顔に猫は何度も頬擦りをした。その人物の顔は見えなかったが、猫は本当によく懐いているのだろう。その安心しきった猫の方の表情は、卯月のいる場所から見えた。

 ──これは……もしかして幻覚?

 頭を抱えながら卯月は思った。

 考えてみれば、時雨神社に向かってから今の今まで現れなかったことの方が奇跡だったかもしれない。名前も知らない女の子と共に歩いたことや、神社で参拝したこと。それらがトリガーとなって心の安定に繋がったのだとしても、完全に全てが治まるには時間がかかるはずだろう。それならば、いつまた発作が現れてもおかしくはなかった。

 それに、今見ているのは知っている噂の幻影。まさに今日、クラスメイトたちが話していた怪談話の再現なわけだ。それが幻覚として現れる可能性だってゼロではない。

 いやむしろ、卯月はこれが幻覚であることを心から願っていた。

 だって、幻覚でなかったとすれば、それは本当にここにいるという事になる。現実にいる人間だというのならばそれもまた良いだろう。何も問題はない。いやそうではなく、卯月はもっと違う、そしてもっと悪い可能性を恐れていた。

 もしもこれが噂の化け猫だったなら──。

「あ……」

 卯月は思わず息を飲んだ。猫がこちらを見つめている。その視線に気づいたのか、抱きかかえていた人物もまたゆっくりとこちらをふり返ってきた。

 その顔と目が合った瞬間、卯月は青ざめてしまった。

 女性だ。いや、そこまではいい。単なる偶然かもしれないから。その容姿と表情が異様にやつれていて不気味であることもまた、何とでもいいように解釈できる。しかし、これはどうだろう。女性がこちらを見て、何かをぶつぶつ言っている噂通りのこの光景を、どう捉えるべきだろう。

 しばらく茫然としていた卯月ははっと我に返った。

 そして、思わず頭を下げようとして、直前で思い出した。

 会釈──つまり頷くことがいけないのではないか。

 それは小学生たちの導き出したという仮説。取るに足らない怪談。卯月だってそう思っていたはずなのだが、頭を下げることはどうしても出来なかった。

 いくら現実主義者であったとしても、幽霊という存在に懐疑的であったとしても、この場面ではきっと誰だって同じようにしただろう。理屈はよく分からなくとも、誰だって縁起が悪いとされることは避けたがるものなのかもしれない。

 結局、卯月は頭を下げることをやめ、そのまま前を通り過ぎていった。自販機の音だけが響く中、その煌々とした明かりだけに照らされながら、卯月は視界の端に女性と黒猫の視線を感じていた。

 走っていくことも躊躇われる中、やっとの思いで通り過ぎると、妙な汗が噴き出てきた。

 刺すような視線を背中に感じながら、卯月は恐る恐る振り返ってみた。そして、そのまま呆然と立ち尽くしてしまった。

 そこにはもう、猫も女性もいなかった。

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