4.知らない神社

 物心つく前から暮らしている町であろうと、普段から通らないような場所はやはり知らないものである。そのことを、卯月は改めて思い知った。手を繋ぐ幼児が指さす先はこれまで通った事もない道ばかりで、おおよその位置は分かるもののいったいどこがどのように繋がっているのかも想像できない場所ばかりだった。

 子どもの頃によく訪れていた商店街はすっかり寂れてしまった。けれど、知らない道ではもっと長く続いていそうな商店が残っていたりする。さらには新しい店を出しているところもあったり、個人教室を営んでいる家もあったりする。

 すっかり知っていると思い込んでいたこの町の知らない顔を見るたびに、卯月は感心してしまった。

 一本裏はこんな景色だったのか。

 そんなことをいちいち思いながら、卯月は女の子を家まで送ろうとしていた。一緒に歩くのが楽しいのか、とても楽しそうだった。本当に迷子だったにせよ、少々おおらかすぎる家庭で育ったにせよ、自分が一緒に居ることで安心してくれているのならそれでいい。それだけで、助けてもらった恩に報いることが出来ているような気がする。卯月はそう思いながら一緒に歩いていた。

 けれど、それにしては長かった。

 ほんのすぐそこに家があると思っていたのに、気づけばもう十分以上は知らない道を一緒に歩いている。

「ねえ、お家はどのあたりかな?」

 たまらず訊ねてしまったのは、卯月の家のあるあたりからだいぶ離れてしまった後のことだ。あまり来たことはない場所だが、ちらほら見かける番地プレートから察するに、一応この辺りも時雨原に違いない。とはいえ、もうずっと隣町との境を進んでいるし、このまま進めば時雨原からも外れてしまうだろう。

 結構遠い場所なのだろうかと不安になっていると、女の子は卯月の手を何度も引っ張って、とある坂道を指差した。非常に急なその坂に卯月は躊躇った。だが、手を放してくれない以上、共に登るしかなかった。

 それにしても、こんな場所があったとは。

 気づけば周囲は木々が生い茂り、時代から取り残されているかのような景色が広がり始める。坂のある位置的にも時雨原から外れてはいないはずだが、野生動物が好みそうな木々の取り残されたその場所は、はっきりと言ってしまえば、いつも通る通学路と比べてだいぶ不気味でもあった。

 車なんて通る気配もない。常に車が通り、ラッシュ時には渋滞までしている中央道付近とは大違いだ。

 それに、彼女と会った場所からもうだいぶ外れてきている。段々暗くなっていくこともあり、卯月は少しだけ焦り始めていた。

「本当にこっちに家があるの?」

 卯月が問いかけると、女の子は強く頷いて再び指を差した。

 ずっと続く坂道から脇へと逸れた場所だ。その先にはさらに鬱蒼とした道があった。およそ三十年ほど前までならば全国各地にもっとたくさん残っていただろう景色。美しいものの日が落ちると足を踏み入れるのも躊躇ってしまいそうな林道が続いている。

 引っ張られるままに共に入ってみると、その先にはのぼりがあった。赤い幟に時雨神社と書かれている。

 良かった。人工物がある。ほっとするも束の間、卯月は首を傾げた。

 時雨神社。全く聞いたことのない名前だ。そもそもこんなところに神社があるなんて知らなかった。もっと近づいてみれば苔むした鳥居が見え、その隣には同じくらい苔むした石碑があった。

「ときさめ……じんじゃ」

 どうやら時雨と書いて、「しぐれ」ではなく「ときさめ」と呼ぶらしい。

 確か、時雨原もはるか昔は「ときさめばら」と呼ばれていたという話を卯月は小学生の頃に聞いたことがあった。ということは、この神社もかなり昔からあるのだろう。苔むした鳥居、そして石碑に刻まれている日付からしても、かなり歴史ある場所のように感じられる。

「ここが……お家?」

 そう言って卯月は手を繋ぐ女の子を見つめる。女の子は真面目な顔でうんと頷くと、卯月の手を引っ張って拝殿へと誘った。

 日が落ちかけている頃の神社は少し怖い。そう思いつつも、卯月は彼女に導かれるままに鳥居をくぐり、拝殿の前に立ち尽くした。

 女の子の手がそっと離れるも、卯月はそれを目で追いかけなかった。追いかけることが出来なかった。賽銭箱の向こうにある神棚が、卯月の視線を釘付けにしていた。飾られているのは白狐の置物だろうか。隣に置かれたお面もまた白狐のように見えた。

 ──お稲荷さん……とはちょっと違うのかな。

 そう思いながら、卯月はふと考えた。

 神様にはあまり詳しくないが、せっかく来たのだ。ご利益が何なのかもよく分からない神社ではあるけれど、見たところ、ちゃんと管理されている場所にも思える。とりあえず挨拶をして、ついでに健康祈願するのもいいかもしれない。

 困った時の神頼み。普段はそれほど縋らない神仏も、本当に困り果てている今ならば何のためらいもなく拝むことができてしまう。

 卯月は鞄から財布を取り出した。病院帰りの事もあり、中にはたいして入っていない。小銭入れを開けて見ると、手前に綺麗な五円玉が見えた。

 五円。ご縁。

 手に取って、卯月は見つめた。穴の開いたその黄銅貨には、実った稲穂が描かれている。穴の周囲の歯車も、稲穂の下に広がる水面も、改めて見てみるとそれぞれに今の卯月の悩みに通じる意味があるように思えてならなかった。

 日頃の幻覚症状に疲れた卯月の悩みを、この神社の神様はどのように見るのだろう。そう思うと、背中を押された気分になった。

 たとえ何の意味もなかったとしても、気晴らしくらいにはなるだろう。五円玉をつまみながら卯月は賽銭箱の上を見た。どうやら鈴はないらしい。気を取り直し、卯月は賽銭箱に向かって五円玉を軽く投げた。

 カランと響く綺麗な音を耳にしながら、卯月はひとり手を合わせた。

 ──早く良くなりますように。

 色々と考えた末の願いの言葉はそれだった。幻覚症状であろうと、霊感によるものであろうと、卯月が願っていることはこれだけだった。

 これのせいで挙動不審な言動が増えてしまっている。

 これのせいで受験勉強すら疎かになっている。

 これのせいでクラスメイトなど周囲との人間関係がぎくしゃくしている。

 その全てをすぐにでも解消したかった。

 簡単には解消できなかったとしても、どうすればいいのかを示して欲しかった。噛み砕いて言えば、生き方のヒントが欲しかったのだ。

 いつの間にか閉じていた目を開き、卯月は正面を見つめた。拝殿はとても静かだ。それに、本殿など他の建物は何処にもない。近くにあるのは石像や石碑だけで、清掃用の用具すら見当たらなかった。

 ここは誰が管理しているのだろう。管理者がいないにしては、神棚も綺麗だし、白狐の置物や隣の置かれたお面もまた汚れてはいない。酒瓶が置かれているあたり、誰かが来たのは確実だろう。

 疑問を覚えた直後、卯月はふとここに来た経緯の事を思い出した。

 そうだ。あの女の子は何処へ行ったのだろう。

 たしかここがお家だと言ったはずだったのだが、それらしき建物はどこにもない。家に帰る前に参拝したかったのだろうか。そう思って卯月は周囲を見渡した。

「あれ……?」

 だが、周りの何処にも幼児はいなかった。

「え……どういうこと?」

 途方に暮れながら、卯月はただ周囲を見渡していた。手を何度も握り返し、一緒に来た時の感覚を思い出す。確かに手を繋いでいた。確かに一緒に歩いていた。ここに来るまでは、彼女は確かに一緒にいたはずだった。

 では、何処へ行ってしまったのだろう。

 ぶるりと寒気が走り、卯月は鞄を抱きしめた。

 きっと一人で帰ってしまったのだろう。卯月が黙って願っている間に、退屈だったに違いない。そう思うことにして、卯月は拝殿を速やかに離れた。

 ひとりぼっちになってみれば、ここはさらに不気味だった。

 今日はもうさっさとお家に帰ってしまおう。

 そう思いながら、卯月はおおよその感覚で家を目指して歩き出した。

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