3.夕日に当てられて

 簡単に解決できる方法は、本当にあるのだろうか。

 病院帰り、卯月は途方に暮れていた。

 待ち時間も診察時間も心身が重たくて仕方がない。帰るまでの時間は一時間ちょっとだっただろうか。その間がとにかく長いように思えてならなかった。

 それでも何かが変わる。そう期待した上で、卯月は自分の見たものを赤裸々に話したのだ。──話したのだが。

 ため息交じりに卯月は夕日を眺めていた。

 時雨原の一日が終わろうとしている。夕日が落ちればすぐに夜だ。暗くなってしまう前にさっさと帰った方がいいだろう。それはよく分かっていたのだが、動くこと自体が辛くて仕方がなかった。

 こうしている間にも、幻覚症状は頻繁に訪れる。視界の端々にはあり得ない位置に影がちらつき、耳元では常にざわざわとした囁き声が聞こえてくる。その一部はまさしく一般的に信じられていそうな心霊現象にも似ている。崖下の公園でこちらを見てにこにこ笑う目のない少女。足元に一瞬だけ現れる手の影。遠くから聞こえてくる「おーい、おーい」という謎の呼び声。卯月の名前を親しげに呼ぶクラスメイトの声。

 大きくため息を吐いて、卯月は耳を塞いでしまった。

 クラスメイトがせっかく挨拶しても、最近は無視してしまうことが多くなった。高校はさすがに大人びた生徒も多く、事情を知っているならば尚更、わざわざ卯月を責めるような者もあまりいない。それでも、良く思われていないだろうことは分かり切っていたし、なるべく愛想をよくしておいた方が自分のためになることも卯月は痛感していた。

 それなのになぜ、無視をしてしまうのか。

 答えはただ一つ。その声が本物なのかが分からないからだ。

「……疲れた」

 霊感なのか、幻覚なのか。

 卯月にも長年判別のつかなかったこの現象も、最近は段々と幻覚だと思う方に偏ってきている。幻覚症状であれば、抑えられる方法があるかもしれない。このしんどさからすっかり解放されて、また集中して勉強することが出来るかもしれない。そんな期待をこめてのことでもあった。

 しかし、その為の一歩であるはずの病院通いは、それ自体が卯月のストレスでもあった。

 担当医は優しそうな人物だった。初診も不満や不安はなかった。一生懸命向き合おうとしてくれている。それはよく伝わってきた。だが、通いに行く時間、待っている時間、全てが終わって帰る時間、その全てが心身の負担に感じてしまうのだ。

 これから一体いつまで通えばいいのだろうか。

 素朴な疑問が大きな不安となってしまう。将来の事を思い悩みすぎて、恐ろしく、苦しくなってしまう。そのせいだろう。気づけば思考は迷路の中で迷い続け、何度も何度も何もかもが嫌だという結論にたどり着いてしまう。

 そんな卯月の絶望を煽るように、幻覚症状は発生する。

 馬鹿にするように笑う声は、耳を塞いでいても聞こえてくる。

 卯月は耳を塞ぐのをやめ、崖沿いの手すりを掴んで夕日を見つめた。高台の下には二十年ほど前に切り開かれたばかりの比較的新しい住宅街が広がっている。そしてその先には隣町があり、隣町の向こうにはまだまだ緑の残された山がある。

 夕日は山の向こうに沈んでいこうとしている。その光景はいつもならば、日々の生活で穢れに穢れた卯月の心を浄化してくれるものであるはずだった。しかし、この度はどうも心の穢れが深刻だった。

「私……一生このままなのかな」

 それは恐ろしい予感でもあった。

 医者は決して神様ではない。

 たしかに医学は年々高度なものになっていっているはずだし、精神医学もまた同じ。少しでも良い治療法、良い薬を生み出そうとする人々の英知は積み重なり続けている。卯月が生まれた頃に比べれば、たくさんのケースが救われるようになっているはずだろう。

 それでも、万能ではない。

 幻覚症状の原因をあっという間に特定したり、あっという間に抑えたりすることを期待することは出来ないし、場合によってはいつまで経っても分からずじまいで向き合い続けなくてはいけない事だってある。

 合う薬をひたすら探し、試していく他ないのだろう。しかし、それをしながら高校生活を送り続け、受験に耐える勇気と気力が今の卯月には足りなかった。

 卯月は手すりを掴み、崖下を見つめた。

 ここから地面までの高さはかなりのものだ。十階建てのビルよりはずっと高い。ゆるやかな崖になっているが、転げ落ちていけば大怪我では済まないだろう。絶対に取り返しのつかないことになるはずの危険な場所。

 それなのに、何故だろう。

 今の卯月にはその先が、自由の広がる解放的な世界に見えてしまった。

「ここから飛べば、楽になれるのかな」

 ぼんやりと呟いたが最後、卯月は手すりをぎゅっと掴み、無意識のうちに下を大きく覗き込もうとし始めていた。

 だが、その時だった。

 ぎゅっと腕を掴まれる感触が伝わって来たのだ。

 突然の事に驚き、卯月は慌てて振り返った。ついに始まった幻蝕症状だろうかと不安になるも、どうやらそうではないようだ。振り返ったその先には、見慣れぬ幼子が立っていた。女の子である。歳は恐らく五歳前後というところだろう。どうやら卯月が落ちそうになっていると思い、慌てて引っ張ってくれたらしい。

 その姿を見て、卯月はすっかり冷静になった。

 自分は何をしていたのだろう。何をしようとしていたのだろう。夕焼け空に当てられてしまったのだろうか。突発的かつ急速に将来を悲観して、その先へと行動しようとしたことを理解すればするほど恐ろしくなってしまう。

 もう少し、引っ張られるタイミングが遅かったならば、自分は確実にその先へと足を踏み出していただろう。この子が来なければ、自分は──。

 卯月は身震いしつつ、女の子に視線を合わせた。

「ありがとう。助かったよ」

 お礼を言うと彼女はにこにことした笑みを向けてきた。

 その顔を見ていると、ふと卯月は気づいた。

 ──あれ、聞こえてこない。

 そう、あれほど絶えず続いていた幻聴の類が一切消えているのだ。耳鳴りも、謎の声も、小波のような雑音も、嘘のように全く聞こえない。

 それに頭も妙に冴えていた。

 まだ治療は始まったばかり。可能性だってもっとある。何もかもに絶望する段階じゃないはずだ。あれほどまでに悲観していたのが何だったのか分からないほど、心が落ち着いていたのだ。

 落ち着いた今となっては、どうしてあんな選択を自分がしようとしたのか分からなくなってしまった。もしかしたら、そういうものなのかもしれない。何か些細なことがきっかけで、スイッチが切り替わるように精神状態も変わるものなのかもしれない。だが、少なくともこの度は、この女の子のお陰としか言いようがない。思い切り引っ張ってくれたお陰で冷静になれたのだ。

 ──こんなに小さな子のお陰で。

 卯月は女の子を見つめ、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。

「もう大丈夫だよ。ありがとうね」

 すると女の子は元気よく頷いた。

 そして、卯月の袖をぐいぐいと引っ張って、どこかに誘おうとしてきた。

「どこに行くの?」

 彼女は答えない。

「お家に帰りたいとか?」

 訊ねる卯月に、幼児は黙ったまま頷いた。卯月は周囲を見渡した。自分と彼女以外は誰もいない。もうすぐ夜だ。両親も心配するだろう。

 それに、この子は全く喋らない。何か特別な事情がある迷子なのかもしれないと思うと、放っておくことは出来なかった。

 夕暮れ時は少し不気味なものだ。卯月もまた、小さな子どもの頃は何処となく夕方が怖かった。会ってはならない何かに本当に会ってしまいそうな気がして苦手だった。もしかしたら、この子もそうなのかもしれない。夕暮れ時が怖いから、自分から離れようとしないのかもしれない。

 それならば、やっぱり一緒に居てあげた方がいい。命の恩人ならば尚更だ。

 卯月はそう思い、女の子に言った。

「分かった。それじゃ途中まで一緒に帰ろうか」

 すると女の子は無邪気に笑い出し、卯月の手をぎゅっと握った。その小さな手の確かな温もりに、卯月は少しだけほっとした。

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