2.深刻な悩み

 まただ。喧騒に混じって、人の笑い声が聞こえてくる。

 立ち止まって周囲を見渡してもそれらしき人はいない。それでも、声ははっきりと卯月の耳にずっとずっと届いていた。

 行き交うのは車ばかりだ。人も歩いてはいるが、卯月からはいずれも遠い。

 時雨原は、ほんの五十年ほど前までただの野山だったという。タヌキやアナグマなどの住まいだったこの場所も、高度経済成長期にあっという間に切り開かれ、人口二万人ほどの町丁となった。

 けれど、ここは曰くつきの土地でもある。戦時中は軍の訓練施設があったという話や、遺体安置所があったという話もある。さらに遡ればとある内乱の戦場となったという歴史もあるらしい。

 そういった歴史のためだろうか。時雨原は昔から怪談が絶えないのだ。ここは何かおかしい土地である。住まいを追われたタヌキやアナグマなどの怨念もあるかもしれない。

 では、これもまた心霊に分類される話なのだろうか。

 ──自分でもよく分からない。

 学校帰り、まだまだ明るい空の下を歩きながら、卯月は頭を抱えていた。

 そもそも卯月がこの現象に初めて気づいたのは、物心ついた頃だった。とはいえ、幼い子供というものは多少なりともあり得ない体験をするものだ。

 脳がまだまだ柔らかいせいだろうか。はたまた一部界隈の人々が言うような霊感というものなのか。卯月もまたそんな体験を度々してきたものだった。

 けれど、今はどうなのだろう。

 少女時代の終わりが近づく高校生。来年には受験も控えてピリッとした空気に包まれる最中において、長年卯月を悩ませてきた現象は殊更大きくなっていった。

 これはストレスなのだろうか。

 授業中、静寂に包まれる教室の中、耳元で「わっ」と叫ばれる現象。教室の人々の談笑に交じってあり得ない年齢の子供の笑い声が混じって聞こえる現象。小テストの最中、誰もいないはずの廊下を右往左往する人影に気を取られる現象。大切な連絡を伝える教師の手振りに合わせ、教卓からぬっと謎の手が伸びてくる現象。プリントを後ろの席に回した際に、視界の端に知らない誰かが立っているのが見えてしまう現象。欠席しているはずのクラスメイトに背後から話しかけられる現象。

 それらが全て霊感によるものなのか、はたまたストレスによる幻覚なのか。実のところ、卯月にとってはその正体なんてどちらでもよかった。問題は、この現象がどうすれば収まるのかということだった。

 集中できないためだろう。

 ここのところ、卯月はまともに授業を聞けていなかった。教師の話も頭に入らず、ノートをとる手も止まってしまい、小テストの集中は乱され、宿題にも集中できない。そんな日々が続いた結果、当然ながら叱られる機会がぐっと増えた。

 なんでやってこなかったのか、なんで出来ないのかを責められるように問いただされても、卯月にはうまく答えることが出来ない。

 ここしばらくの体験をありのままに話せば良いのだろうか。

 けれど、正直に話した結果、こちらに向けられるだろう人々の眼差しが卯月には怖かった。なぜなら、この手の相談が、過去に大きな失敗へとつながってしまったからだ。 

 小学生の頃、卯月はやはり同じような現象に悩んだ。

 授業は上の空になり、ノートはまっさらになってしまった。宿題を家でしようにも現象は自宅でも起こってしまうし、ただ起きてぼーっとするだけでその日が終わってしまうという日々が続いた。

 当然その際も親や教師に叱られて、理由を問われた際に卯月は正直に話したのだ。けれど、大人たちは誰も信じてはくれず。その様子を陰で見ていたクラスメイトの一人が他の生徒たちに言いふらしてしまった。

 結果、卯月はひどくからかわれた。からかわずに信じる者もいたにはいたが、卯月の深刻な悩みは何一つ解決しないままだった。

 現象がどうして収まったのかは分からない。気づけば幻聴も幻視も嘘のようになくなって、クラスメイトたちもすっかりその事に興味を失い、これまでのような落ち着いた日々が始まった。

 授業も宿題もテストも、これまでのように問題なくこなせるようになって、親も教師もすっかり関心を失ったのだ。

 けれど、あの時のことは今も卯月の心にしこりとして残っている。親も教師も信じてくれなかったこと。嘘をついていると決めつけて、頭ごなしに叱られたことやからかわれたことが心の傷となっていて、この現象を正直に話すことを躊躇わせた。

 結果、卯月は叱られ続けることとなり、叱られるたびに心は閉ざされていった。そして無気力になるその態度すら、叱られた。

 卯月は焦っていた。

 進学するなら、そしていい大学に行きたいなら、早いうちにこの現象地獄から抜け出さなくてはならない。

 そうでなくとも、進学先を変えるにしたって、就職するにしたって、この状態でまともな暮らしができるはずもない。

 それは分かっていたのだが、まだまだ未熟な子どもである卯月には限界もあった。

 霊感だとしても、幻覚だとしても、この状態のままではいけない。

 しかし、どうしたらいいのだろう。どうすれば、変わることができるのか。

 親や教師に叱られたとしても、卯月はもはや辛くなかった。辛いとすれば、収まらないこの幻覚症状だった。脈絡もないそれらの現象が、何を伝えたいのか、何を意味しているのかが分からないこともまたストレスだった。

 そして、その答えを周囲の者たちが分かるはずもないという現実が、辛かった。

 ──頭が痺れる。

 歩いているうちに、どんどん幻聴が大きくなっていった。

 吐き気を覚えるほどに重たい騒音は、卯月が少し前に聞いた工事現場の音である。そして俯いたときに一瞬だけ目の前に浮かんだ悲痛な女性の顔は、地方ニュースに映っていた死亡事故の遺族のものだった。

 ならばこれは記憶の断片の再放送なのだろうか。

 言わずもがな現在の時雨原はこれまでになく不気味だ。立て続けに起こった死亡事故は暮らしている人々の表情をどうしたって暗くする。その陰鬱な空気もまた知らず知らずのうちに心を乱しているのかもしれない。卯月はそう思いつつ、頭を抱えて深呼吸をした。

 卯月が深刻な悩みを抱えていることに最初に気づいたのは、学校の養護教諭だった。

 まずは正直に話してほしいと促され、ようやく打ち明けることが出来た結果、卯月はひとまず専門医に相談することとなった。その現象は卯月の嘘や冗談などではなく、幻覚症状であるかもしれない。その可能性を指摘されて、ようやく親や教師は卯月を叱ることをやめた。その代わり、クラスメイトを含めて腫れ物に触るような扱いを受けるようになり、卯月はますます焦りを強めていった。

 早く元に戻らないといけないのに。

 坂を下り、卯月は隣町を目指す。黙々と進むその足も、少しだけ重たかった。気が重いのか、はたまた誰かに掴まれているのか。今のところ、幻覚症状は幻視と幻聴だけのようだが、いつ幻触や幻臭まで広がってもおかしくない。仮にこれが本物の霊感なのだとしても、同じことだ。広がれば広がるほど、日常生活すら怪しくなっていく。それが、卯月は嫌だった。

 ──薬をもらったら、少しはマシになるのかな。

 ぼんやりとしながら、卯月は病院へと向かう。坂を下りきると、病院の看板が見えてくる。それを目印にあまりよく知らない隣町を歩いていくと、病院の建物も見えてきた。

 ──誰かいる。

 ふと足が止まる。病院の玄関に続くスロープの前だった。俯き加減にたたずむその人物は確かにいるのに捉えどころがない。顔があるはずの場所があやふやなのは、卯月が直視を避けているからだろうか。我慢してそこへ向かっていき、俯いたまま前を通り過ぎる。そして病院へと入る際、視界の端に映るはずのその人物はどこにもいなかった。

 ──相談したら、少しは良くなるのかな。

 卯月はそんなことを思いながら、病院へと入っていった。

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