追憶の荒野~クロウの場合~

 ■


 ──ここは


 クロウは真っ暗な場所に居た。

 足元だけが辛うじて見える。

 そう、革靴を履いた自分の足先が。


 ああ、そうかとクロウは思った。

 自分はクロウではなくシロウなのだと。

 見れば黒い革鎧ではなく、ぺらぺらのネクタイ、草臥れたスーツを着ているではないか。

 でも、とシロウは自身の腰を見た。


 ──何か、大切な何かが欠けている様な気がする


 シロウはスーツを叩き、埃を落とし足を前へと進めた。

 まるで何年も放置してたまったかのような埃の量だったが、シロウが違和感に気付く事はない。


 暗い昏い一本道をシロウは歩く。

 ここは暗いから他の道は、と見渡してみても何もわからない。


 シロウは恐る恐る道を外れてみようと思ったが、不思議と気力が萎えてしまった。


 仕方なく前へ、前へと進んでいく。


 1時間か、1日か、或いは1年か?

 時間の感覚は失われてシロウはただ前へと進んでいった。

 体力は疲弊の極みに達し、しかし自分は前へ進まなければならないのだという強迫観念めいた想いが湧いてくる。


 だが


 ──もうだめだ、これ以上前へ進めない、疲れてしまった


 シロウの体力が遂に尽きてしまう。

 すると肩に誰かの手が置かれた。


 ──後ろに誰かいる


「誰ですか?」


 シロウが振り向くと、そこには自身と同じ様な服装をした女性が立っていた。先程まで足元しか見えなかったが、その女性の姿だけはくっきりと見えた。いつかどこかで見た事があるような…


「母さん…?」


 女性は頷き、シロウに優しく微笑みかけた。

 シロウには洋子という名の母親がいた。


「大丈夫、シロウ。あなたはまだ頑張れるよ。ほら、後ろを見て」


 洋子は暗闇の向こうを指し示す。シロウがそちらを見ると、そこには中年男性が立っている。シロウの義父、浩二だ。


「シロウ、ほら、向こうを見てみなさい。皆頑張っているだろう?」


 浩二が闇の向こうを指し示して言う。

 視線を向ければ、今自身が歩いている道の外にも沢山の道が敷かれていた。道にはシロウと同じ様な服装、つまりスーツの男女が彼と同様に歩を進めている。


 表情を苦悶に歪めている人、無表情の人、笑顔の人、泣いている人。色々な表情の人々があちらこちらに居て、皆一様に前へ前へと向かっていた。


「皆、一緒よ。辛いのはあなただけじゃないの。大丈夫、シロウは優秀だから。頑張れば一番になれるからね」


「そうだぞ、シロウ。大丈夫だ。俺だって若い頃は大変な時期もあった。だけどふんばって乗り越えてきたからこそお母さんと知り合えたし、幸せな家庭を築く事が出来たんだ。頑張りなさい。まずは今日を頑張るんだ。まずは今日、それを積み重ねていきなさい」


 ──頑張る…もう頑張っているのに?


 シロウは項垂れ、しかし頷き、再び前へと歩み始める。

 シロウは両親が好きだった。好きな両親に失望されたくなかったのだ。両親の期待に応える事が生き甲斐だった。


 だから勉強を頑張り、受験を頑張り、大学生活を頑張り、就職競争を頑張り、一流企業へ就職しても頑張り続けた。


 ある日、母が離婚をした。

 好きな人が出来たらしい。

 そして好きな人であるところの、義父の浩二と結婚をした。

 そこからシロウの人生の何かが少し狂った。


 仕送りの要求が増えたのだ。

 生活が苦しいらしい。

 シロウの給料は一流企業なりだが、それでもぺーぺーの内はそれなりといった所だ。しかし、その中から金を捻出し、実家へと送った。


 しかし、仕送りの要求は減る事がなかった。

 それでもシロウは頑張った。

 義父はともかく、母が好きだったからだ。


 シロウは頑張った


 頑張った

 頑張った

 頑張った

 頑張った


 ──もう、頑張れないよ、母さん


 シロウが電話でそう伝えた時、洋子は言った。「大丈夫、シロウはまだ頑張れるよ」と。


 丁度、今の様に。


「いい子だね、シロウ。大丈夫、まだ頑張れる筈だよ、だって母さんの子供なんだから」


 ──『それを決めるのは、お前じゃない』


 ■


『それを決めるのは、お前じゃない』


 女の声が闇に響く。

 そして一本の漆黒の長剣が闇を引き裂き、斃れるシロウの胸を貫いて地面に縫い留めた。


 柄頭には、黒い簡素なドレスを着た一人の女が立っていた。

 女は音もなく地面に舞い降り、斃れるシロウの頭を踏みつけながら言う。


『これは罰。私を忘れた事への』


 ねえ、と女が屈みこんでシロウに囁いた。


『私の名前は?』


 シロウは口の端から血を流しながら、喘ぐ様に女を見つめる。

 激痛がシロウの神経回路を灼熱させ、とても答える事などは出来なかった。


『私の名前は?』


 再びの問いに、やはりシロウは答える事ができない。

 端的に言って死にかけていたからだ。

 シロウの命の灯は急速に輝きを失いつつあった。


 ──こんな死に方は嫌だな


 それはかつてシロウが抱いた思いでもある。

 そして、それより遥かに強い思いも同時に抱く。


 ──こんな暗い場所で寂しく死ぬなんて。僕は、もっと違う形で死にたいな。皆が僕を想い、涙し…ああ、ならそう死ねる様に頑張ろう。今度の人生は頑張ろう。シロウはもういない。僕は、俺はクロウだ


『ねえ、私の名前は?』


「コオオオォォォリングッ!!!」


 クロウは自身を貫く剣の柄を握り、叫び、引き抜いた。

 すると、先程までクロウの傍にいた女の姿が搔き消える。

 剣に膨大な魔力が集中していく。


『そう。そして私からクロウを奪おうとする事は、罪。私のクロウに纏わりつく過去の亡霊よ』


 剣から昏い声がなおも響く。


 ──死、ね


 クロウを爆心地として真っ黒な魔力が迸り、拡散し、荒野に広がる魔霧を、母の影と義父の影、前世の澱もろともに飲み込んでいった。


 追憶の牢獄は現実世界でもあるし、精神世界でもある。

 例えばクロウが歩んでいた真っ暗闇の一本道などは精神世界だが、コーリングが地面に縫い留めた時は現実世界へと位相をずらしている。彼我の狭間の境界がアヤフヤだからこそ、現在と過去の双方を参照し惑わせる事が出来るのだが、この時クロウから発された魔力が周辺を汚染する事で、もはや追憶の荒野は機能不全に陥った。


 しかし、果たしてそれは十全な攻略といえるかどうか。

 例えるならば、骨折の痛みを火傷で誤魔化すようなものだからだ。


 ■


「おい、ザザ…なんだか死にたくなってきたけど大丈夫か?」


「俺もだ。勇者の仕業らしい。土地の全域に呪いをかけたそうだ。本当に勇者なのか?」


 荒野をゆく勇者一行はクロウ以外はムッツリと押し黙って、何かを我慢している様子だったという。


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