追憶の荒野~ヨハンの場合~

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 一行は東へ向けて歩を進め、やがて砂漠地帯を抜けて寒々しい荒野へと辿り着き、少々の休憩を取っていた。

 12人はやや乱雑な車座となって各々が思い思いに身体を休めている。


「霧が濃くなってきたわね」


 タイランが呟いた。

 彼の言葉の通り、荒野全体が薄い靄の様なものに覆われていた。

 ケロッパが腰を曲げ、地面を凝視する。


「どうしたの?」


 タイランの問いに、ケロッパは首を振って答えた。


「昨日は雨でも降ったのかなとおもってね。霧が出るには天候的な条件というものがある。例えば前日雨が降ったりしたとかね。しかし地面は乾燥していた。勿論、雨が霧の直接条件であるとは限らないけれどねぇ」


 ケロッパの言わんとすることは皆が分かった。

 つまり、自然発生的な霧ならともかく、そうじゃなかったら?という事だ。ここは果ての大陸であり、人智の及ばぬ現象が起こる可能性は十分ある。


 まあな、とカッスルが周囲を見渡し、まるで犬の様に鼻をひくつかせる。この時彼の脳裏には毒霧の罠の事があった。カッスルは迷宮探索者として名を馳せているが、迷宮には玄室に一歩足を踏み入れると毒霧が吹き出すような罠も存在するのだ。


 ──まぁ、毒のようなものはない…か


 カッスルはカプラを見遣る。

 カプラはゆっくり首を横に振った。


 互いに斥候仕事には理解がある立場だ、考えている事も分かったのだろう。二人は求められている役割が同じという共通点もあってか、何かと意思疎通をとっていた。


「まあよ、警戒ばっかりしてても仕方ないわな。ほら、クロウの奴をみろよ、さっさと行くぞって面してるじゃねえか」


 立ち上がったランサックが槍で肩を叩きながらチンピラっぽく言う。彼は元異神討滅官であるのでチンピラ気質が染みついているのだろう。そんなランサックに、ザザなどは良く「品がない」などと言うが、そのザザにしてが毎夜娼婦の胸にむしゃぶりついているのだから何をかいわんやである。


 休憩を終えた一行は再び東を目指して荒野を歩きだす。


 ・

 ・

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 先頭を歩くのはカッスル、続いてクロウにファビオラ。その後ろにヨハンとヨルシカ、その後ろからはゴッラ、ケロッパ、ラグランジュ、タイランが続き、更にザザとランサック、最後尾にカプラという順番だった。


 ヨハンは眉を顰めて周囲を見回した。

 既に視界は相当悪くなっており、数メトル前方を歩いているはずのクロウ、ファビオラの背も見えづらくなっている。

 ケロッパも協会式の魔術により風を巻き起こしたが、霧を払う事は叶わなかった。この一点を以てしても、周囲に広がる霧がマトモなものではない事が分かる。


 ──気持ちの悪い霧だ。勘もなにも働かん。今が危険なのか、危険でないのか、それが判断できない


「ねえ、ヨハン。そこにいる?」


「ああ、いる。手を離すなよ」


「うん」


 霧はますます濃くなり、既に隣を歩くヨルシカの姿もボヤけてきていた。ヨハンが背後を見ると、三つの人影が見える。

 ゴッラ、ケロッパ、ラグランジュだろう。


 ──流石にこのまま進むというのは、な


 ヨハンがそう思った所で、後方からややザラついた低い声が聞こえてきた。


「おい!少し止まれ!霧が晴れるのを待たないとはぐれかねんぞ!聞こえるか?俺だ!ザザだ!…糞、どいつもこいつも…」


「聞こえる!ヨハンだ!分かった、立ち止まって少し様子を見るぞ!」


「おい!誰か!聞こえないのか!ランサック、どこをほっつき歩いている!お……」


 ザザの声は急速に遠くなっていった。

 明らかな異常な事態。


「ヨルシカ、妙な事になった。罠か、俺も知らない自然現象か…ともかく迂闊に歩き回るよりはこの場に留まって一旦様子を見たほうが…おい、ヨルシカ、聞いているのか?ヨル……」


 ヨハンは握っていた手を見下ろした。

 その手はヨルシカのものではない。

 年の頃は30か、40か。

 肌の質感はやや草臥れている。


 ヨハンはゆっくり顔を上げた。

 目の前には見知らぬ女が立っていた。

 黒の染料で染められたシャツを着ている。

 切れ長の目、肩まで伸ばされた黒い髪の極々普通の中年女だ。

 ヨハンは彼女に見覚えはない。

 しかし女の方はヨハンを見知っている様だった。

 女がヨハンを見る目は限りなく優しく、まるで愛する息子を見るような目だった。


「ヨハン、大きくなったね…」


 §


 脳から記憶は消えても、その身に刻まれた経験が消える事はない。

 ここは追憶の荒野。

 ここには凶星の瘴気が満ちている。

 瘴気はこの地を渡る者の肉と霊の境界線を踏み躙り、過去という名の牢獄へ永遠に閉じ込めてしまう。


 §


「貴様は誰だ…?」


 ヨハンは自身の手が震えている事に気付いた。

 寒くはなく、勿論怪我を負っているわけでもない。

 しかし震えているのだ。

 心は平静そのもので、自身を見舞った異常がどんなものかを探ろうとしている。しかしヨハンの身体は平静とは真逆の状態に陥っていた。


 ヨハン、と自身を呼ぶ声のなんと甘美な事か。


 力無き身であったからこそ●●を失った。

 それは仕方がない事なのだ、弱ければ失う。

 それはこの世界の摂理だ。

 だから力を得ようとした、与えられたものでは駄目だ。

 それでは天秤は釣り合わない…

 大切なものを護る為には、喪わない為には、護る側の格というものもある。肉体を練磨し、魂を磨き上げ、自身の価値を高めた時には初めて "大切なモノ" を護る資格を得る。

 天秤だ、天秤は釣り合っていなければならない…


 ヨハンの脳に思考が轟轟と音を立てて押し寄せる。


「ヨハン、いいんだよ。もう無理をしなくてもいいの。沢山頑張って来たんでしょう?」


 女がヨハンに囁いた。


 ──そうだ、俺は頑張ってきた。二度と●●を喪わない為に、力、を


 ──●●とは何だ?


 ヨハンの思考の糸が考えてはいけない事へ伸びようとしていた。

 ヨハンは●●を知ってはいけない。少なくとも、この先まだ戦い続けようというのなら。なぜならばそれは彼の根源が定めたルールだからだ。大きな力を行使する為に捨て去る事を決めたものだ。

 思い出してしまったならば、自身の根源を裏切る事となる。

 そうなれば、ヨハンは大きな代償を支払う事となるだろう。

 自身の根源、それはある意味で肉体より、魂よりも大切なもの…存在意義に他ならない。


 裏切りの代償は大魔術の逆流。

 永遠の花界で、ヨハンは散り逝く花となるだろう。


 §


 ヨハンが踏み出してはならない一歩を踏み出そうとしたその時、凍てつく程に清冽な一閃が煌めいた。


 ずる、と女が縦に割れる。

 ぐしゃりと肉が潰れる音がヨハンの耳朶を打ち、ヨハンは悪夢から醒め、しかしいまだ悪夢の中に在る事を知った者の様な表情をした。


「いいかい、ヨハン」


 黒髪の女の血を浴び、肉を踏みつけながら銀髪の女…ヨルシカが言った。


「君が護る相手は私しかいない。よそ見をするな」


 ヨハンは自身でも理由が判然としない深く暗い怒りを覚えた。

 怒りは赤熱した電熱となってヨハンの神経回路を焼き焦がす。


 ほぼ無意識的に精神世界に坐す二柱から膨大な魔力を吸い上げたヨハンは、両の掌をヨルシカに向かって突き出した。自分でもなぜそんな事をしようとしたのか、ヨハンは分からない。

 だが、ヨハンの身体は彼自身の意思にかかずらう事なく最短の所作で "魔法" を起動しようとしていた。

 曙光にも似た光が煌々と輝き、必殺の意思を乗せた "魔法" が起動…されなかった。


 ヨルシカがまるで猫の様にするりとヨハンの懐へ潜り込み、ヨハンの後頭部に手を回し、強引に口を吸ったからだ。

 それだけではない、ヨハンの唇をかなり激しく嚙み千切った。


「うおっ…!」


 激痛がヨハンの意識を引き戻す。

 だが思わず自身の唇をおさえた。指の隙間から血がとめどなく流れてくるからだ。前傾姿勢となって痛みに耐えているヨハンの足元に何かが投げられた。それは治癒の効果を持つ水薬であった。大した効果ではないが、唇を少し切ったくらいなら十分治る。


 「ごめんよ、いつまで呆けてるのかなって思ったらちょっと苛々しちゃって」


 ──まだ苛々している様に思えるが…


 ヨハンは賢明にもそれを口に出す事はなかった。

 そして、●●が何かという疑問も既に彼の内からは消えてなくなっていた。






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 「ごめんよ、いつまで呆けてるのかなって思ったらちょっと苛々しちゃって」


の部分、挿絵があります。近況ノートにのせます。

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