樹神
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"澱み血の魔竜" シルマリアは、元よりこの様な悍ましい姿ではなかった。彼女はかつて果ての大陸の中心に広がる巨大な湖に住む水竜であり、彼女の全身を覆う蒼鱗は穢れなき蒼穹を想起させる程に美しかった。この世界のどの湖よりも澄んでいるその場所で、シルマリアは優雅に舞う様に遊泳し、時にはその姿を水面から覗かせて歌にも想える透き通った鳴き声を響かせていた。
いや、彼女だけではない。
果ての大陸そのものも、かつて…そう、ずっとずっと昔はこの世の楽園と呼ぶに相応しい自然に満ちた美しい場所だった。
人間もいなければ、勿論魔族もいない神代の話である。
しかしある時、島に星が墜ちた。
所謂、隕石だ。
星と大地が接した瞬間、轟音が鳴り響く。
それが楽園の終焉を告げる音である事を、島に棲む生物達は理屈ではなく本能で感得した。
隕石の衝突から暫く経つと、島の混乱は漸く収まりを見せる。
だがそれは表面上の事であった。
その日以降、島の動植物の生態系が緩やかに変質していく。
島で一番大きく、そして美しかった湖の水は血のように澱み、生物の肉体が血を生成するように、血水が血水を生成する。
そして血水が乾燥することで赤みがかった砂と化し、たちまち周囲を血臭漂う絶望の砂漠へと変えてしまった。
土壌は毒気に侵され、一瞬ごとに拡大する腐敗の波紋は島中に広がっていく。
島のあらゆる生物は、次々とまるで悪夢の中にだけ現れるような奇妙で、そして悪趣味なオブジェのような姿へと変貌してしまう。
シルマリアもそうだ。
空の欠片のような美しい鱗は、澱んだドス黒い血の様な色へと変容してしまった。
純粋さと優雅さの象徴の様な美しい姿は一変し、絶望と苦悩の象徴の様な姿となった彼女の怒りと憎しみはいかほどか。
竜種の多くは高い知性を持つ事も珍しくないが、水竜シルマリアも例外ではない。
しかし今となっては彼女の知性は狂気に侵され、歌のような透き通った鳴き声の代わりに不協和音を掻きならしつつ、血砂砂漠に足を踏み入れるあらゆる生物に襲い掛かる魔竜と化してしまった。
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シルマリアの胴体が伸び上がり、天に向かって咆哮をする。
それは聴覚神経の弦をヤスリで削り嬲るような酷く耳障りな甲高い音であった。
血砂が震え、大気に呪詛が拡散していく。
「
ケロッパが声をあげる。
多分の焦燥と僅かな恐慌の気配が滲んでいるその声は、一行に危機感を持たせる為の警告としては十分過ぎた。
「岩でもなんでもいい!物陰に隠れなさい!…いや、それでもッ…」
魔術師には当然ながら得手不得手がある。
極端な例になると、山を一つ炎で包み込む事が出来ても、樽一つに水を満たす事が出来ない者もいる。
その偏りの大きさは、特異な魔術を扱う者ほど顕著である事が多い。
この時ケロッパは遮蔽物が欲しかった。
生半可な遮蔽物ではない、雪崩を支えきる程の強固で大きな遮蔽物が欲しかった。
なぜならば、もし何の備えもなく無防備に"アレ"を生身で受け止めてしまったのならば、この場にいる者すべての命が吹き消されてしまいかねないからだ。
だが短い時間でそれだけの壁を生成することはケロッパとて難しい。焦りが冷や汗という形をとって彼の頬を伝う。
その時、後方から低い声がした。
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──果てる命、枯れる地に
──種子は眠り、されど目覚めず
──古木よ、孤独を厭うか
──然らば歌え、芽吹きの歌を
──砕けよ閑寂、溢れよ命
連盟魔術師ヨハンだ。
短刀を握り、自身の髪の毛の一部を切断し、大地へと落としながら歌うように詠唱をしている。
────『樹界顕現』
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アシャラにはこの様な伝承がある。
現在アシャラ大森林が広がっている地は、かつては荒れ果てた地だったという。一面に広がる枯れ地には獣一匹すらも見当たらない。草木は疎らに生えてはいたが、どれも枯れかけていた。
生命の息吹が失われつつあったその地だが、ただ一本の古木だけは違っていた。古木は数百、数千を生き、うっすらとだが自我を宿しさえもしている。これは木に限った話ではないが、植物でも動物でも器物でも、時を経れば経るほど神性を帯びる。
悠久を生きた古木は自我が固まってくるに従って一つの感情を覚えるようになった。
それは"寂しい"という感情だ。
古木は意を決し、永い時の流れで蓄えた力を使う事にした。
満天の星の光が荒野を照らすその夜、古木から"力"が荒野へと浸み込んでいく。これは自我を得る前はとうていできなかった事だ。
大地に"力"が十分に行きわたった事を知った古木は、周囲の枯れかけた木々や植物に呼びかける。
目覚めてくれ、と。
私は力を得た、それを分け与える、だから私を孤独にしないでくれ、と。
古木の願いは正しく大地へと顕現した。
枯れかけていた木々が目を覚まし、根をしっかりと張り始めた。
植物たちは種子をまき散らし、荒野に緑が広がっていく。
それは奇跡の瞬間だった。
星の光が木々を照らし、生命の輝きが広がっていく。
芽吹きの歌が森中に響き渡ると、もう荒野などはどこにもない。生命の営みが森に息づき、動物たちは安住の地を見つけたとばかりにその地へとやってくる。鳥のさえずりと風のざわめきが森を包み込み、ついに"大森林"が誕生したのだ。
奇跡を齎した古木は、いつしか樹神と呼ばれるようになる。
それが"初めの森"と呼ばれるアシャラ大森林発祥の神話であった。
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「アシャラの香りだ」
ヨルシカは目を見開いて、目の前の奇跡を眺めていた。
ヨハンの髪の毛が大地へと触れると、彼の足元を中心に急速に緑が広がっていく。
その速度は凄まじく、芽がでたかとおもうと目を疑うような速度で成長していく。
そして若木が一本、二本…それらも速度を緩める事なく成長しつづけ、一行は目を丸くしてその様子を見ていた。
「だ、大地創生…」
ラグランジュが呟き、口をあんぐりと開けた。
口の端からは唾液が伝っている。
緑は瞬く間に木立となり、林となり、森というには大分小規模だが、太く逞しい木々が一行を取り囲む。
そして鳴り響く轟音。
バキバキと木々が圧し折れ、なぎ倒される音が後に続く。
シルマリアの"歌"は極めて広範囲に渡って194デシベルもの破壊的な音圧を拡散させる代物で、それはもはや音ではなく衝撃波という形で対象へ襲い掛かる。
この194デシベルという音圧がどれ程のものか。
それは約64km離れた場所にいる人間の鼓膜を破裂させ、そしてこの星を三週回って漸く消滅するほどの音といえば分かるだろうか。
人間の聴覚が耐えうる音圧の限度は約130デシベルであり、さらに10デシベルあがれば音が倍になったと体感する事を考えれば、人間が人間である限りは決して耐えうるものではないという事も理解できるだろう。
しかし先だってシルマリアが放った"歌"はヨハンが創生した樹界により大部分が減衰、吸収された。
とはいえ、確かに木には防音の作用もあるが、それで受け止めきれるものだろうか?
普通ならそんなことは不可能だ。
だがそこには種もあれば仕掛けもあった。
ヨハンが生み出した木々は、当然の事だが通常のものではない。
というより、本質的な意味では木ですらない。
数多生える木々は纏めて一つの心象世界であり、物質界…つまりこの世界の事象で力任せに破るとなると、必要とされる力は幾何級数に跳ね上がる。
心象世界の顕現は魔術の一つの到達点であり、これを為し得る魔術師というのは非常に少ない。
魔術の業前が優れていても相性の問題で決して扱えないという者もいる。例えばケロッパなどはこれを扱う事はできない。
彼の根源は彼の中にはなく、彼の外にあるからだ。
だからといってケロッパが劣った魔術師というわけではなく、あくまでも相性の問題に過ぎないが。
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「ヨハン君は暫く動く事すらも出来ないだろう。そしてあの竜も同じ事をもう一度するには時間を要するはずだ。さて、どうするね?逃げるか、戦うかだ」
ケロッパが尋ねるが、答えは既に決まっている。
「逃げるといっても何処へ逃げる?渓谷へ戻るとして、俺たちはすでに見つかっている。あんなものをもう一度撃たれれば、岩が崩れ生き埋めになるかもな。かといってここにこもるか?いつまでもというわけにもいくまい。それなら行くしかないだろうよ」
ザザが物凄く嫌そうな顔をして言った。
一行の他の者達も異論はないようだった。
そして…
「ヨハンさんは十分な事をしてくれました。俺たちも自分の仕事をしましょう。コーリング、いけるね?」
クロウが剣に囁きかける。
歓喜の不協和音が鳴り響き、それにより心身困憊の極みであったヨハンは失神した。
「あっ!ヨハン!!ちょっと!勇者くん!」
「す、すみません…」
ヨルシカが慌ててヨハンを抱き起こしながらクロウを責めると、クロウは素直に謝罪する。
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