帝国へ⑧
◆
レナードから帝都の事情を聞いたヨハンは思った。
――頑張って欲しいな
と。
ヨハンは勇者でも勇者の仲間でもなんでもなく、国を護るべしと義務付けられた軍人でもないのだ。
降りかかる火の粉を振り払うなら兎も角、積極的に死地に足を踏み入れようとは思わない。
「余り興味はなさそうだね、術師ヨハン」
ヨハンはレナードの言葉に頷きを以って返す。
そんなヨハンの態度に飽き足らなさを覚えたのか、レナードはなおも言い募る。
「しかし、あるいは君達の力を借りる…そんな事もあるかもしれない」
帝都襲撃が成ればそんな事もありえそうだ、とヨハンは内心で顔を顰めた。
「餌はないんですか?」
涼やかな声が響いた。
ヨルシカだ。
レナードはヨルシカの方を向き、その瞳を視た。
吸い込まれるような感覚、そして拒絶。
ゴムのような樹皮の大木が何本も連なり、進行を阻む。樹皮を見ればそこかしこに毒虫が這っている…迂闊に手を触れれば刺されそうだ。
そんな情景を幻視したレナードはふぅっと息をついた。ヨルシカが口を開く。
「私の中に入っていいのは彼だけですから。それはともかく、私達は冒険者です。危機がそこまで近付いている、力を貸してほしい…では動けません」
ヨルシカの言にヨハンは頷き、横目でロイ達を見た。手を繋いで密着している。
――おそらく礼節失調の状態異常。殴れば治るが、ここでやるわけにもいかないか
そんなヨハンの内心を察知したか、レナードが中指の爪を親指で押さえるように…でこぴんの手まねをした。
「収束、弾け」
弾く。
収束された空気の弾丸がロイの即頭部に直撃し、ロイが椅子から転げ落ちた。
足元に転げおちたロイにヨハンは手を差し伸べて言った。
「生きていたか、だがまあ次があるさ」
◆
「報酬はあれでよかったかな。まあそれを差し引いても…何事もないといいのだけどね」
ヨルシカが言う。
話を終えたキュンメル邸を辞したヨハンとヨルシカは肩を並べて帝都の街を歩いていた。
ロイとマイアはキュンメル邸に宿泊するとの事だった。
ヨハンはヨルシカの手を強く握り、まるで詐欺師にでもなっているような気分で答えた。
「大丈夫だ、何もない。魔王軍は速やかに駆逐され、魔王は討伐される。そんな気がするんだ」
ヨハンは自分の人生でこれほどまでに確信がない事を言った事などあるだろうか?と内心自問自答していた。
「嘘でしょ」
ヨルシカの問いに、ふっと笑みを浮かべて空を見る。帝都に差す日差し暖色が目立つようになってきた。空の色はやや赤みを帯びている。
ただ、聖都ほどではない。
これはヨハン達はまだ知らない事だが、空色の変異は転移雲が生成されたことに伴う異常気象の一種であり、転移雲は地脈のそばでしか生成されない。帝都はゆえあって地脈から離れた場所にたてられているので、ただちに奇襲されるということはないのだ。
「何、帝都が襲撃されても帝国軍が迎撃するさ。連中がだらしなさそうだったら…どうするかな…逃げてもいい。ここはアシャラじゃあないからな…」
あの時ヨハンは逃げればアシャラに、ヨルシカの生まれ故郷に、家族に被害が出るだろうから、踏みとどまったのだ。だが帝都ベルンはヨハンにとってもヨルシカにとっても縁のない地である。
「うぅん…これはさ。まだ自分でも整理のついていない事ではあるから、話半分に聞いてほしいのだけど」
ヨルシカが前置きをした。ヨハンはちらりと視線をむけ、先を促す。
「この感情はなんなんだろうな。2つの感情がわいているんだ。1つは君に危ない目にあってほしくないし、私だって無理に危険な事をしたいわけじゃない。だから一緒に逃げたいっていう気持ちさ。冒険者が国や世界を守るなんて義務はこれっぽっちもないもの」
そうだな、とヨハンが言う。
それが普通だろう、と。
「でもね。もう一つは…うぅぅん…好いた男が敵から逃げる姿を見るのは複雑な気持ちになりそうってね…。ああ、でももし立ち向かうときは私もついていくから。私は剣士だし、君は術師だ。君の前に立って君を護って死ぬのも仕事の内だしね」
そうだなあ、とヨハンは呟いた。
確信があろうとなかろうと、堂々と断言してその通りにしてきた彼にとっては珍しく煮え切らない態度だった。
「俺も、まあ、そうなんだ。この街の人間なんてどうでもいいし、何人死のうが知った事ではない。ただ、そうだなあ、ロイの馬鹿は莫迦だしどうしようもないが、アレはアレで悪人ではないし、マイアだって馬鹿だとおもうがそれも個性というかな…」
うん、とヨルシカは先を促した。
「それに、俺もどうしようもないなら兎も角、それも分からないうちから好いた女の前で情けなく逃げ出すっていうのは何だか飽き足りなくてな。俺は自分でももう少し割り切りの良い性格だと思ってたよ…」
俯いたヨハンは足を伸ばし、すれ違おうとしていた中年男性の足を引っ掛けた。
転倒した中年男性の腹を爪先で強かに蹴り上げる。男は痛みで手を開き、その手の中から小さい小袋が出てきた。
ヨハンの小銭入れである。
ただの掏りにまんまとスられるヨハンではないが……
「冒険者か。手際からするに銀等級のドブ層あたりかな。上澄み連中や、ましてや金等級なら俺は全く気付けなかっただろう。俺が金をもっているように見えたか?そうだ、持っている。術師だからな。術師は大体金を持っているんだ。ところでお前、子供の頃に玉突きをやったことがあるか?俺は今、自分が思っていたよりガキだったことに傷ついて、ちょっと童心にかえっているんだ。だから玉突きをする。玉はお前の頭さ。因みに八つ当たりでもある。この状況で掏りとは、つまり帝都から逃げ出す前に一稼ぎしていきたかったんだろう?逃げるか逃げないか、逃げないか逃げるか…俺はまだ悩んでいるというのに。ただ、逃げ場は余りない気がするのだよな…」
ヨハンは男の髪の毛を握って、石畳に何度も打ちつけた。
――ぎゃぁッ
――や、やめてくれっ
――悪かった!俺が悪かったから
――ああっ
――死ぬ!死んでしまう!
「死なない。大丈夫だ。お前も気付いているはずだ。一撃一撃が全て別の箇所を打ち付けている事に。同じ箇所を何度も打てばお前だって死んでしまうかもしれない。俺は殺す気はないんだ。ただ、その、少し考えてほしいだけだ。この状況で金を盗られてしまったら、とられたほうはどうなる?また稼げというのか?こんな異変の中で?それはない、それはないだろう」
ごんごんという鈍い音は一定だ。
やがて男も殺されるわけではなく、痛めつけられていると理解したのかわめくのをやめた。
代わりに目を閉じ、命が永らえる事を祈った。
その純粋な祈りの姿はまさに聖職者というに相応しい。
ヨハンと男はこのとき、一枚の宗教絵画に描かれてもおかしくない不可思議な聖性を放っていた。
ヨルシカは口を開けてそれを眺めている。
(なんだかちょっといい感じの雰囲気だったというか、普段は突っ張っている恋人が久々に弱い所を見せて、それを私が受け入れて…みたいな感じだったじゃないか、なのに何故掏りの頭で玉突きを…そして、なぜ2人とも神妙な様子なんだろう)
「ほら、ヨハン、死んじゃうからやめようか。殺したら流石に面倒だからさ、私も掏りは嫌いだけど、流石に殺すまでもないとおもうんだ」
ヨルシカは優しくヨハンの手を自身の両手で包み、暴行をやめさせた。
「これで充分」
その言葉と共に、手の甲でしたたかに掏りの頬を張り飛ばす。
ヨルシカの業前でそれをやるというのは、鉄板で張り飛ばされるのと同義である。
中年男はごろごろと転がり、気絶してしまった。
ちなみに帝国法では掏りに対する罪は親指の切断である。それを考えればまあ甘いといえる措置だろう。
しかし2人は厳しく処する気分にはなれなかった。帝都に危機が迫り、それに対して自分達がどう対峙していくのか。そこはかとない不安が彼等の心を覆っていたからである。
掏りごときにかかわずらっている余裕はない。
本来官憲に突き出され、親指を切断されるはずだった掏りはちょっとした暴行を受けるだけで済んだ。
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