帝国へ④
◆
馬車はグレードとしては並といった所だろう。
つまりこれまで使ってきたような乗り心地は望めない。
だが一応屋根がついているタイプである為、急な天候不順に見舞われても濡れる心配はない。
ヨハンは震動をやや気にしながら床に腰を降ろし、顔を顰めて腕を取り外した。
「痛むの?」
と、ヨルシカ。
ヨハンは義手を布で磨きながら、痛むわけではないが、と前置きして言った。
「外す時が少し気分が悪いんだ。この腕は出来が良いからつけている時の違和感はほぼないのだが、その出来の良さが災いしている。まるで生身の腕を取り外すような気持ち悪さがあるんだよ」
ああ、とヨルシカは頷き、興味深そうに義手を見つめていた。だがその目は少しぼんやりとしている。
するとヨハンは腕を嵌めこみ、ヨルシカに手招きをした。それを見たヨルシカはのろのろと四つ足でヨハンの傍に移動すると…
「少し眠ったらどうだ?俺も休む。流石に疲れた。なんだか絶え間なく誰かと、何かと殺し合っている気がする。君は信じないかもしれないが、俺も年を感じたというかな、隠居について考える事が増えてきたよ」
ヨハンは冗談を言っているのだろうか?それとも本気なんだろうか?とヨルシカは靄がかかりはじめた頭で考えるも、答えは出ず、やがてヨハンの膝を枕にして眠りについた。
ヨルシカの入眠を見届けたヨハンは、何かを思いだしたように懐から薄い灰色をした小指ほどの枝を取り出し、人差し指と親指でその小さい枝をつまんで小声で呪言を囁いた。
――息を潜めるといい
――声が漏れれば命も漏れてしまうから
――音がする、かたかたと
――それは風鳴りだろうか
――あるいはお前の骨の鳴る音か
枝をつまむヨハンの眼が妖しく光ると、枝は端からぱらぱらと灰になっていった。
しかし灰は散って消えてしまうことはなく、ヨハンとヨルシカの周囲を渦巻いていく。
それはまるで煙のように捉えどころのない灰色の靄であった。
ヨハンは術の成功を見て、ほっと息をつく。
触媒が小さすぎてあるいは不発かと少し心配だったのだ。
周囲に耳を澄ましてみるが、馬車の走行で発生する騒音がかなり小さいものとなっていた。
このくらいなら騒音で起こされる事なくゆっくり休めるだろうとヨハンは考え、ヨルシカの白銀の髪の毛を少し手櫛でとかしていたが、ややあって自身も眠りについた。
◆
ヨハンが使った術は“死に枝の術“という。
珍しい術ではなく、呪術を齧ったものなら行使は難しくはない。
早く眠らないと鬼が訊ねてくるよ…というような、いわゆる説教用の寓話というのはイム大陸のどこでも聞かれるが、ヨハンが朗じた呪言もそのようなものだ。
死に枝のギョヌギョット
西域の一部地域に伝わる、所謂鬼婆である。
クルヌという樹木は樹皮が灰色である事が特徴の木なのだが、ギョヌギョットはこの枝を持ち荒野を彷徨い歩いているのだ。
ギョヌギョットはとあるものが好物とされている。
それは親の言う事を聞かずに夜遅くまで起きて騒いでいる我侭な子供の心臓だ。
荒野を歩き、そして我侭な子供の声が聞こえればたちまちのうちにその家までいき、子供の肩をクルヌの枝で叩く。
すると我侭な子供は口から心臓を吐き出し、ギョヌギョットはその心臓を美味しい美味しいと喰らってしまうという。
なぜ荒野を彷徨うのかといえば、昔は西域では遊歴民が多く居て、そのほとんどが荒野を中心に放浪していたからだと言う。
ギョヌギョットの寓話は遊歴民の間から発生した…というのがレグナム西域帝国のとある学者は提唱している。
事実として、かつての西域で確かに遊歴民達は荒野を彷徨っていたのだが、これは不死の月魔狼フェンリークの出現により激減してしまう。
フェンリークは荒野の民をそれこそ絶滅寸前まで食い尽くしてしまったのだ。
現在では荒野の民というのは居ないわけではないがその数は往時とは比較にならない。
それはともかくとしてギョヌギョットは音に敏感で、深夜に音をたてる子供の心臓を食うという事で、転じて“死に枝の術”は術者の周辺の音を抑制するという効果を持つ。
この術のポイントは音を抑制しながらも変事があれば速やかに意識を覚醒させるという点だ。
これは鬼婆に命を付けねらわれた悪童の精神状態…つまり、音を立ててはいけない、なにかあれば逃げ出さなければいけないという2点を再現する術であり、主に官憲から追われている札付きの外道術師が好んで使う術とされている。
◆
何時間眠っただろうか?
ヨハンは極々自然に目を醒ました。
膝をみれば安らかに…まるで死んだように眠るヨルシカの姿がある。
死に枝の術はその特性上、軽い睡眠導入作用もある。名称はおどろおどろしいが、実に平和な術なのだ。
馬車はまだ走行しているようで、特に異常が発生したということもなさそうだ。
ヨハンはほっと安堵した。
いつのまにか刺客においつかれ、寝ている間に御者の首が切断された…という可能性も決してゼロではない。
外をみやればやはり陰気な空模様だ。
大陸のどこかでは魔族の襲撃が行われているのだろうか?と考えるも、頑張って防衛してくれ、と内心応援することくらいしか今のヨハンには出来ない。
(他人任せとは業腹だが、帝国ではこの事態になにか対策は打っているのだろうか)
何とかなればいいがとヨハンは思い、再び目を閉じる。
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