血の日⑦
◆◆◆
「それで?一時休戦と言う事で良いのかな。ドライゼン殿」
ジュウロウが軽薄そうな笑みをドライゼンへ向けて言った。ドライゼンは今その存在感を消失させては居ない。
それはつまり、少なくとも現時点ではドライゼンにジュウロウを、ひいてはエルを殺害する意思が無い事を指し示す。いや、正確には“今はない”だ。
ドライゼンはこのジュウロウという青年が並々ならぬ相手と分かっていたし、ましてやあの過激派の首魁に至っては自身の能力をもってしても斃す事が困難であると理解していた。
なぜならドライゼンの能力はそこに居ないと思わせるだけである。先に見た様な斥力の波動などを使われてしまっては為すすべなく吹き飛ばされるだけであった。
ドライゼンはヨハンの事も危険な存在だと思っていたが、それでもこの煮立った場を一旦冷却してくれた事自体は感謝していた。
ドライゼンはジュウロウの問いに答える事はなかったが、黙って短刀を引き、アイラの前に立ち静かにヨハン達の方を見つめている。
アイラもドライゼンも、ジュウロウもエルもギルバートも、そして他の穏健派や過激派の面々も殺し合いを止めていた。
ミカ=ルカ・ヴィルマリー。
穏健派の者達は彼女をミカ・ヴィルマリーとして認識していたし、過激派の者達は彼女をルカ・ヴィルマリーとして認識していた。
彼女がどちらかの派閥の間諜であった…と言うのならば話はまだ分かるのだが…
◆◆◆
これは妙な事になった、とギルバートは探るような目で周囲を見渡す。
あの黒髪の青年が乱入してから空気が明らかに変わった。
その変化が派閥にとって良い事なのか悪い事なのか。
いや、自身にとってどういう影響を齎すのか。
ギルバートは途端にこれからどう動くべきなのかが分からなくなってしまった。
しかし、そんな思いでいるのは自身だけではないだろうという確信もある。
見渡す面々の殆どが困惑をその表情へ貼り付けていたからだ。
◆◆◆
「ミカ=ルカがどこへ行ったかは分からないが…とにかく俺が事情を説明する」
ヨハンは周囲の者にも聞こえる様に気持ち声を張りながら、ミカ=ルカと出会った経緯を話した。
なぜ共に聖都を訪れたかというその理由も。
勇者の死という知らせには穏健派の者達は憮然とし、過激派の者達は少なくとも表面的には感情を見せなかった。
『光輝の』アゼルの敗死については両派閥の誰もが驚愕していた。それまで無表情であったエルでさえもが目を見開き驚いていた。
過激派の現有戦力で『光輝の』アゼルを斃せるものは恐らくは自分を置いて他にはいまい、と考えていた。
魔族が相手であっても、まさかあのアゼルが不覚を取るとは。中央教会を乗っ取る上で最大の障害が教皇、そしてアゼルであると見做していたのだが、どうやら状況は自身が思うより遥かに剣呑であるらしい、とエルは思う。
その思考は到底8歳児のものではなかった。
だがそれには種がある。
エルという少女の精神は代々の国王のそれを継承しているのだ。
“星の記憶”と呼ばれるアステール王家の継承の秘儀は、エルをただの少女と為さしめる事を許さなかった。
先代国王が、その前の国王が、その前の、前の…アステールの歴代国王が積み重ねてきた経験、記憶をエルは引き継いでいる。
エルこそがアステール王国であり、アステール王国こそがエルなのだ。
エルが生まれた時には既にアステール王国は滅ぼされて久しいが、それでもなおエルが王国再興を熱望する理由がまさにそれであった。
彼女にとってアステール王国とは単なる名詞、単なるかつてあった国以上のものである。
そんなエルはすぐに表情を消し、内心で様々な考えを巡らせた。何か謀略が、陰謀が蠢いている…それも教皇の一派とも自身の一派とも関係の無い勢力が入り込んでいる…エルはにわかに誰が味方で誰が敵であるのか分からなくなってしまった。心の、精神の暗渠に何があるのかを正確に知る事が出来るのは他ならぬ自分自身のみだ。腹心のルカでさえ明らかに怪しい動きを見せるのだから、最早他の誰が敵であっても不思議ではない。
疑惑という名の襲火が、冬の枯れた森を焼き尽くす山火の如く広がっていこうとしていた。
◆◆◆
「もしかしたら俺達は、いやここにいる誰もが担がれたのかもしれないな」
ヨルシカを見ながらヨハンが言った。
誰もが担がれたかもしれない。
それはそうだ。
何か深刻な齟齬が発生している事をその場の誰もが感じていた。
だがその齟齬とは?
そして一体、誰が誰を担いだのだ?
そもそも担がれた様な気こそするが、何をもって担がれたとするのか…
その場の者達の視線がヨハンに集まる。
「そもそもだが、なぜ中央教会の穏健派と過激派が
殺し合っているのかが良く分からない。法神教の教義の解釈が違うだとか、そう言う理由があったとして、いがみ合うのはわかるがなぜ殺し合う?…ああ、少なくともこの場は見る限りでは過激派が押し入ってきたからだと言うのは分かるよ。しかし、会いたいというのなら会わせてやればいいではないか。同じ宗教の信者同士なのだから。穏健派はなぜ殺し合ってでもそれを止めるのだ。それに、お前達はもう随分前から暗闘を繰り広げているじゃないか。そして…そして、教皇はなぜ出てこないんだ」
ヨハンの言葉に誰もが答えられなかった。
そうだ、なぜ教皇猊下はいらっしゃらないのか。
そうだ、なぜここまで我々は憎み合っているのか。
その場を一瞬の沈黙が支配し、それを破ったのは蒼い髪の少女だ。
「私は教皇猊下を廃する積もりです。それはこの中央教会と言う組織を掌握し、レグナム西域帝国を打倒し、アステール王国を再興する為です。ですが、元々は教皇を廃する積もりまではなかったのです。力ずくではありますが、教皇猊下には立場を退いて頂き余生を過ごしてもらうつもりでした」
エルはそこで言葉を止め、周囲を見渡す。
その目の奥には疑惑と言う名の隠しきれない暗い炎が燃えている。
「過激派と呼ばれる者達のほぼ全てが自身の望みの為に教会を利用とする者達ばかりでございます。ですが、そもそもそれを受け入れたのは、招いたのは教皇猊下ではありませんか。いえ、そこまでは良いとして、過激派の者達はなぜ数が増えないのかと疑問に思った事はありませんか」
エルはそこで口をつぐみ、先ほどドライゼンが喉を掻き切った過激派の者の死体へ歩み寄り、見開かれた目を小さい手で閉じてやった。
エルは冷徹だが冷酷ではなかった。
「我々は少数派ですが、当初は過激派の者達のほうが多かったそうです。なぜ数が増えるどころか減っていくのか。それは教皇が、いえ、穏健派の皆様が我々に手を下しているからです。もう何人もの仲間達が貴方方に殺されている…貴方方が動くという事は、それはつまり教皇猊下の指図でしょう?」
白銀色に瞬く閃光が、まるでアーク放電の如くエルの表皮から放たれた。
それは彼女の感情の昂ぶりを意味する。
「教皇猊下は我々の死を一体何に“使おう”としているのですか?」
エルの言葉に激したのは穏健派のとある中年男性だ。
経験な聖職者であり、戦を専門とする者ではなかったが、それでも身をもって過激派の暴虐を止めようとする信仰と勇気に溢れた者である。
「馬鹿な!我々の同胞に事あるごとに手を掛けてきたのは貴殿らではないか!異神を奉じる風習のある地域で異教徒虐殺をしたりなど…」
それを皮切りに、穏健派の者達と過激派の者達が激しく言い争う。怒気と殺気が交じり合い、危険な化学反応を起こそうとしていた。
◆◆◆
「なるほど、ヨハンの言っていた“担がれていた”っていうのはこれのことなんだね」
白銀の髪を持つ女剣士…ヨルシカの言葉に視線が集中する。その圧力にヨルシカはややたじろぎながらも、言葉を続ける。
「だって、皆が皆、自分達こそが被害者だと思って相手を加害者だと責め立ててるじゃないか。こんな雰囲気だったら手を取り合って話し合うなんていうのは無理だよ。私が思うに…これまでに二つの派閥で和解をしようみたいな話が出た事があるんじゃないかい?その度に何か事件なり事故なり、強い反対の声がどこからかあがったりして話が潰れたりしたんじゃないか」
ヨルシカの言葉に他の者達は少し頭を冷やし、コレまでの事を思い返して見ると思い当たる節が多々ある。
そんな様子を見ていたヨルシカは更に言葉を続けた。
「ヨハンが言う“担がれていた”っていうのはさ、加害者を誤認させられていた…のではないかなっておもってね。単刀直入に言うけれど、君達を争わせようとしていた第三勢力みたいなものがいるんじゃないのかな…って私は思うんだけど、どう思う、ヨハン?」
ヨルシカの言葉にヨハンは頷いて答えた。
「俺もそう思う。俺も彼女にならって率直に言うが、消えたミカ=ルカ・ヴィルマリーが…、つまりは過激派にとってのルカ、穏健派にとってのミカが何か核心的な事を知っているんじゃないのか?そして繰り返すが、なぜ教皇猊下は出てこないんだ。穏健派といえども中央教会のトップだろう。二つの派閥が殺し合うのを座してみているというのはどうなんだ?形だけでも止めようとするのがトップの仕事ではないのか」
ヨハンがやや苛立ちながらに言う。
ヨハンという男はその気質として、役割を十全に果たさない者を厭うする所がある。
良くも悪くもルールに縛られた男なのだ。
だがその苛立ちは次の瞬間、烈日に照らされる一握の雪の如くに溶け去り、最大限の警戒を乗せた視線を法の間の奥…教皇の私室へつながる扉へと向けた。
ヨハンだけでは無い。
エルなどの一部の者を除く、その場の殆どの者が名状し難い悪寒に襲われていた。
そして響き渡るのは、声。
――彼女に文句を言っておかないとね、面倒だからといって何でもかんでも寄越すな、と
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