閑話:顔無しのドライゼン
貴方は心無い言葉を子供の前で発したりはしていないだろうか?
まだ幼いからといって油断して、舐めて、子供の前で心の無い言葉を発していたとしたら考え直した方が良い。
子供というのはこちらが思う以上に賢いのだ。
ドライゼンは不義の子であった。
戸籍上は役人であった父と商家の娘であった母の息子であったが、事実は違う。
まあ良くある事だとは言える。
当時、父であるオスカーは仕事の関係で他国へと出向いていたのだが、その国でちょっとしたトラブルが起きて帰国が遅れた。
母のアンナはオスカーの不在に魔が差して男を作ってしまい、その結果生まれたのがドライゼンである。
アンナには他に子はなく、彼女はドライゼンに対して愛情をもって接していた。
そこまでは良い。良くは無いが、そこで終わる話ならばまだマシだった。
問題があった。
それはオスカーがアンナを愛し、アンナもまたオスカーを愛していた事だ。
愛し合っているのになぜ不倫なんて真似をするのか、という疑問があるが、悲しきは人間の心の弱さよ、と言うべきか。
アンナは生来気弱な性質で、寂しがり屋であった。
オスカーの出立を笑顔で見送ったアンナは内心は不安で寂しくて仕方なかったのだ。
しかし寂しければ不倫をして良いかといわれればそれは否である。
とはいえ、そのままであったならアンナとて別に他所へ出向いてまで男を作ろうなどとは思わなかっただろう。
彼女の心の弱さに付け込んだ男がいた。
オスカーの友人、ロズである。
ロズはオスカーと同じく役人で学生時代からの友人だ。
アンナとも友人付き合いをしており、彼女が知る限りでは不器用だが誠実な良い男であった。
ロズはオスカーの不在に寂しがるアンナを友人として支えていった。
ここで終わる話ならば良かった。
問題があったのだ。
その問題とは、ロズはアンナに男女の好意を抱いていたという事だ。
しかし自身が心を決め、アンナへ愛を告白する前にオスカーとアンナが結ばれてしまった。
ロズは心で泣きながら二人の交際、結婚を祝し、二人もまたロズの友情を喜んで受取った。
だが……この状況でロズの自制心に罅が入ってしまったのだ。
いくら昔からの友人といっても平時であるならアンナはロズのモーションを一顧だにしなかったであろう。
しかし状況が悪かった。
日々優しく心を励ましてくれるロズに、アンナの女としての情が反応してしまった。
それに気付いた時にアンナはもう遅かった。
一度火が付いてしまえば後は転がり落ちるだけ。
そうしてアンナはズルズルと関係を続け、気が付けばアンナはロズの子を身ごもっていた。
アンナは子供を出産する事になる。
ロズは何を考えたか、アンナに金だけを渡して姿を消してしまった。
ロズは怖くなったのだ。
露見は勿論だが、裏切りの痛みを感じる事に恐怖を感じたのだ。
何故このような最低な下衆が痛みを感じるのか?
それはロズも彼なりにオスカーを親友だと思っていたからである。
子供はドライゼンと名付けられた。
幸いだったのはロズとオスカーの髪の色や瞳の色が似通っていた事であろうか。
産まれた子供を帰国したオスカーが抱いたとき、彼はその子が自身の子ではないと些かも気付く様子はなかった。
子煩悩なオスカー、妻を愛するオスカー。
アンナはオスカーの愛を感じる度に胸を針で突き刺される様な痛みを感じていた。
その痛みは裏切りの痛みだ。
ロズが恐れ、逃げ出した痛みだ。
自分は愛する人を騙している。騙し続けている。
そんな罪悪感にさいなまれながらも、アンナはオスカーの愛情を享受し続けていた。
アンナの胸の痛みはドライゼンの成長と共に大きくなっていく。
なぜならドライゼンはロズに瓜二つだったからである。
オスカーが抱くたびに、彼が息子を抱きしめるごとに、胸が張り裂けそうになるほどの痛みがアンナを襲った。
そこで話が終わるならまだマシだった。
魔がさして不倫をした女が罪悪感で苦しんでいるだけで済むからだ。
どこかの馬鹿二人以外は誰も傷つかない。
問題があった。
深刻な問題だ。
オスカーがドライゼンが自身の種では無い事に気付いたのだ。
いや、気付いたというよりは強い疑惑を持った、が正しいだろう。
まあドライゼンはロズに瓜二つだから疑念の1つも持たないほうがおかしい。
当然の如くオスカーはアンナに問い正し、当然の如くアンナは自身の不貞を告白した。
そして当然の如くオスカーは激昂し、アンナに……手をあげる事は無く、黙って家を出て行った。
オスカーはそれからも戻る事はなく、暫く後に離縁状だけが送られてきた。
アンナは幼いドライゼンと二人だけで生きていく事になった。
それで終わる話ならば悲惨ではあるがまだマシだ。
馬鹿な女が孤独な余生を過ごすだけで済んだのだから。
問題があった。
「あなたが生まれてこなければこんな事にはならなかったのにね……」
まだ幼いドライゼンを抱きながら、アンナは母として決して言ってはいけない事を口にしてしまった。
たっぷりの情念を込めたその言葉はドライゼンに深く深く染み入る事になる。
やがてドライゼンが論理的思考が出来る年になると、自身へ投げかけられたアンナの言葉が遅効性の毒の様に彼を蝕んでいった。
ドライゼンが母アンナを愛していた事がその毒を強めた。
あの場限りの戯言、と言うにはアンナは余りにも陰鬱に過ごしてした。朝は俯き、夜は泣き、悔恨で自死を選ぶ事も出来ない。
なぜならドライゼンがいるからだ。
アンナは弱く馬鹿な女だが、何が原因で、誰が原因でこんな事になっているかを判断する事程度は出来る。
幼いドライゼンはそんなアンナを毎日見ていた。
そして自身という存在が愛する母を苦しめているという事実に消えてしまいたくなった。
死を選ぶ事は出来ない。
死そのものも恐ろしいし、死に方も問題だからだ。
場合によってはアンナが犯人だと思われてしまうかもしれない。
ならば消えてしまうというのはどうだろう?
自分がこの世から綺麗さっぱり消えて仕舞えれば、誰にも迷惑をかけることなくアンナを喜ばせてあげられるのではないか。
ドライゼン少年は毎日毎日強く強く思った。
消えたい、消えてしまいたい、死ねない、だから消えたい、と。
思うだけでは足りないと神にも祈った。
法神教の教会へ赴き、熱心に祈りを捧げたのだ。
そしてある日、幼き少年の純粋な思いは術として形を成した。少年の願いに応える様に、少年はその日を境に存在感を薄れさせていく。
最初は近所の人に挨拶をしても返されない程度だった。その時は大きな声を出せば気付いてはもらえた。
しかし、段々とドライゼン少年の存在消失は術としての強度を高めていく。
アンナがたびたびドライゼンを見失う様になったのだ。
“たびたび”はすぐに“常に”へと変わった。
ある日アンナはドライゼンが目の前に立っていても気付く事が出来なかった。
それを見届けたドライゼンはその頬に涙を一筋流し、生家を去っていく。
悲しみで心は張り裂けそうだったが、苦しみの元凶たる自身が消えたのだからきっと母は幸せになってくれるだろう。
幼いドライゼンは家を、母を捨てた。
しかし、愛ゆえに捨てたのだ。
この先どう生きていくか、その答えも決まっていた。
自身の願いを叶えてくれた法神に仕えるのだ。
心からの祈りに応えてくれた偉大なる法神に余生を捧げるのだ。
ドライゼンは教会の扉を叩く時、気づいてもらえないのではないかと不安だったが、幸いにも神父は心得のある人物であった。
これは余談だが、中央教会の聖職者は皆一定以上の法術を扱う事出来る。この世に術体系は様々あるが、法術と言うのは護りに優れた術体系だ。
気配を察知するといった類の術は法術に於いては初歩の初歩である。
また、彼らの如き神父はどれ程老いていようが、街のチンピラ程度なら容易く撲殺出来る程には業前を磨いている。
なぜそこまで鍛えているのか?
力無き正義は無力であるからだ。
幼いドライゼンはボロボロと涙を零し事情を語った。
神父は清潔な布でドライゼンの涙を拭い、彼を教会に受け入れる事を決めた。
そこで彼は“力”の扱いを学び、法神への熱烈な信仰を強めていく。
やがて法神の意に反する者達をもっとも多く殺した審問官、『顔無しの』ドライゼンとして恐れられる様になる。
この一連の話は問題だらけだが、最後にひとつだけ救いがある。
ドライゼンの母であるアンナだ。
彼女は消えてしまったドライゼンを探し回った。
彼女にとってドライゼンは確かに己の罪の結実の様な存在だが、それでも愛する息子である事には違いがなかった。
日々の生活は苦しみに溢れ、後悔の海に溺れそうになりながらもなんとか浮き枝に捉まり凌いでいるような状況ではあったが、その苦しみの原因はドライゼンではなくあくまで過去の自身の愚行であるとアンナ自身も自覚していた。
あちらこちらを探しまわり、それでもドライゼンが何処にもいないと知ったアンナは、ある日、空が青く綺麗に晴れ渡った日に家で首を吊って死んだ。
救いと言うのはドライゼンがこの事実を知らないという事だ。いち早くこれを知った神父が手を回し、証拠を隠滅した。
ドライゼンには母親は別の街へ移ったと伝えた。
それを聞いたドライゼンは寂しそうにしながらも母の幸せを祈り、より熱心に修行を積んだという。
『顔無しの』ドライゼン。
一般的な法術は一通り扱えるが、何より恐ろしいのは自身の存在感を消失させる彼固有の術式である。
彼を恐れ、守りを固め、悠々と真正面から歩いてくる彼に気付けずに首を掻き切られた異端者は数知れない。
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