花咲き枯れ逝く永遠の花界

◇◇◇


ヨハンの持つ手帳が燃える。

手帳は灰となり散っていく。

そして、散り行く灰は空へと舞い上がり、粉雪の如くその場へ降り注いだ。

ヨハンの“花界”はこの行程を経て世界を上書きする。


魔族の目の前には、いつのまにか広大な花畑が広がっていた。

空は青く、風は爽やかで。

地平線の果てまで広がるのは、それは大きな大きな花畑。



対象としたのは魔族、そして樹神。

だが俺はこの術を使いたくなかった。

叶うならば俺が死ぬその瞬間まで。

とはいえ仕方が無い。


俺は甘く、同僚の話ではちょろい性格との事だ。

確かにそうかもしれない。


切り札を切らされる羽目になったのは目の前の糞魔族のせいか?

いいや、ヨルシカのせいだ。


◇◇◇


「…ここは何処だ?下賎。何をした?」


魔族が口を開く。

その様子に先程までの余裕は見られない。

樹神は沈黙している。

先刻まで見せていた狂乱が嘘の様だった。

樹神を侵した“毒”が此処へ踏み入る事をヨハンが許可しなかったからだ。


「ここは花界と言う。俺の世界だ。ところで…見ろ、美しい花畑だろう?この白い花は1年の内、極々限られた時期…春と夏の境の数日間しか咲かない。煎じれば頭痛に効く薬となる。俺の母が好きだった花だ。ここではどんな花だって望めば見る事が出来る」


ヨハンが屈み、その手に白く小振りな鈴のような花穂が連なる花を摘み取り、魔族へ見せた。


魔族はそれに答えず、掌を合わせる。

「התנהל ברעמים שואגים, נטיפי קרח ונשמת אש. לערבב יחד. תהרוס הכל」


魔法はまたたく間に完成し、雷が轟き、氷嵐が吹き荒れ、鉄をも溶かす灼熱の炎が辺り一帯を薙ぎ払う…事はなかった。

失敗でもない。

魔力の発露すらも起こらなかったのだ。


「俺に何をした!下賎。答えろ!」


魔法が使えぬならばと拳を固め、殴りかかろうとする。

しかし、その足が動く事はなかった。


「花は歩かない。勿論魔法も使わない。許可しない。手と口は…許可をしてやったが。お前が何も出来ない事を理解してもらう為に、な」


ヨハンが呟く。

この時、初めて魔族は己の頬に冷たい汗が伝っている事に気付いた。


「まだもう少しだけ時間がある。何も語らずともお前の運命は定まっているのだが、どうせこれの後は俺はもう語れなくなるだろう。折角だから聞いていけ。そして樹神よ、貴方には詫びましょう」


樹神は穏やかな目でヨハンを見下ろしていた。

樹神はこの先何が起こるのか、何とはなしに分かっていた。

だがそれで良い、と樹神は思う。

もはやこの身を穢される事はないのだから、と。



俺は優しい母が好きだった。

しかし好きだった母は父親に殺された。

理由は金だよ。


父は酒を飲み、女を買い、博打をやっていた。

それを自分の責任の内でやっているならばまだいいが、彼は家の金に手をつけてね。


母はそれを咎め、金を隠したのだ。

父は激昂し、母の首を絞めて殺した。

幼かった俺はドアの隙間からそれを見ていた。

恥ずかしい話だが、怖くてね。

だが安心しろ。

俺が成長した時、父の喉を搔っ切る事で復讐を果たしたからな。


生前の母は草花が好きだった。

彼女は茶色い皮の手帳に押し花を集めていたよ。

俺は母が好きだった。

だから母の好きなものが好きになった。

子供なら良くある事だろ?

だが、母の死により好きという感情が執着に似た愛へと形を変えた。


ここで少し講義をしてやろう。

お前は魔法の事ばかりで、術の事を知らない様だから。

一般的な連盟の術は、外界の逸話や伝承、信仰から事象を形と為す。

だが真に熟達した術師は自らの執着を形と為す。


分かりやすくいえば自分の内にあるモノを逸話、伝承、信仰とし、そこから力を引き出すと言う訳だ。


常人が使っても意味がないだろう。

世界より自身を優越させている認識がなければ意味がない事だ。

これは真に優れた術師であるからこそ可能な事だ。


あるものは自分の都合の良い神を創りだし、あるものは英雄に相応しい武具を創り出す。作り出されるモノには術者のそれまでの生き様が投影されだろう。


俺は常に公平であろうとした。

恩に同じだけの恩を返し、仇には同じだけの仇を返すよう心がけてきた。

そんな俺が愛着の対象…最後に残ったこの手帳…母の記憶を捧げたのならば、もはや俺が捧げたものと同じ価値のある物を差し出さねばここを出る事は叶わぬ。


ただの手帳ではない、これは俺に遺された母の、文字通りの記憶だ。

つまり、この術が終われば俺は母の事を忘れてしまうだろう。

思い出す事もない。

何故なら俺の中で、母という者がそもそも存在しなかった事になるのだから。


さて、魔族。

お前は俺に、俺が捧げた物の価値に等しい何かを捧げる事は出来るか?


◇◇◇


魔族は右腕に違和感を感じた。

見れば、腕に咲くのは一輪の花だ。

左腕を見てみる。

左腕には二輪の花が咲いていた。

赤、青、黄色。


花は美しく咲いたかと思えば、見る見る内に枯れていった。

そして、枯れた花の痕から今度は三輪の花が咲く。


咲いては枯れる、枯れては咲く花に魔族は危険なモノを感じる。

樹神を見てみればそれもまた自らと同じ様な姿だった。

樹神の全身に花が咲き乱れ、そして枯れていく。

それが、繰り返される。


「糧さ」


己を見舞う異変を険しい表情で見つめる魔族に、ヨハンが話しかけた。

魔族はヨハンを睨みつける。

どういうからくりかは分からないが、もはや声も出せなければ手も動かせない。足も動かせなくなっていた。


「お前達は糧となるんだ」


◇◇◇


そう、花は魔族を、樹神を糧として咲き誇るのだ。

しかし花の命は短い。

これは世界の共通認識である。

咲き誇った花はただちに枯れゆく。

しかし、彼らという糧がいる限りは花のサイクルがおさまる事はない。


ところで花は彼らの何を糧としているのだろうか。

血だろうか。

肉だろうか。

いや、そのどれでもなかった。


花が糧としているのは…


◇◇◇


俺に何をした


その一言すらも言葉に出す事が出来ない魔族は憎悪を憤怒、そして僅かな恐怖を目に滲ませヨハンを睨み付けた。


魔族と樹神の姿が薄らいでいる。

これは術が解けかかっているのではない。

存在そのものが薄れていっているのだ。


つまり、花が糧とするのは彼らの時間。

時間とは存在の嵩を意味する。

時間を全て失った存在は死ぬのでもなく消えるでもなく…

生まれた事そのものを無かったものとされる。


己という存在の消失を自覚する事がどれだけ恐ろしく悍ましい事か。

それは魔族の目を見れば分かるだろう。


彼らが動けなくても花はただただ咲き、枯れていく。

彼らの存在を糧として。

花が咲く度に魔族と樹神の姿が薄れていく。


「そういえば、魔族。名前を覚えてやると言っていたな。俺はヨハン。連盟の28本目の杖。【枯れる花】のヨハン。俺の敵は全て枯れ逝く。今のお前の様に」


やがて彼らという存在がふつりと完全に消えてしまった時、花吹雪が舞う。


その瞬間、ヨハンの記憶から母という存在が消え去った。

ヨハンはもう母が居た事も、母が死んだ事も、母を愛していた事も覚えていない。


記憶という愛を代償に敵対者の…それが神だろうと悪魔だろうと、例え魔王の分け身だったとしても、全てを封じ、存在を消失させる忘却の奥義。


これこそが連盟術師ヨハンの秘術。


“花咲き枯れ逝く永遠の花界”であった。

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