第4話


「あれが天の杯、あっちが女神の籠、あの一番輝いてるのが聖者の竈」

「よく覚えてんのな。聞いたことあるのはちらほらあるけど、どれがどれだかなんて記憶に無いな」


中庭に布を敷いてその上に膝を立てて座り込んで、一つ一つ指をさして星座の名を紡いだ。

この神殿は神様のお住まいに一番近いから、夜のとばりが降りてしまえば神様の世界の星座までよく見える。

有名な星座しか分からないというアレス曰く、街や村では空は酷く遠く、更に街灯が明るいせいで此処ほどは星が見えないのだそうだ。


冷たい夜の空気が足先を冷やしていく。

氷のように冷たくなるけれど、心はほんのりと暖かいまま。

つい先日までのように一人で夜空を見上げていれば、心もこのつま先のように冷え切っていただろう。

これから先、幾度の夜を迎える事になるとしても、きっとこの心は暖かいままだと確信出来る程に幸せな気持ちだった。

だから。

途切れた会話の合間に意を決したように発された言葉にも、狼狽える事はなかった。


「明日には山を下りる事にした」

「はい」


吐いた息の白さが眩くて、目線を下げる。

隣に座ったアレスがちらりとこちらに目を向けて、仰向けに寝転がるのを視界の端で捉えた。


「なんだ。気づいてたのか」

「はい」


元々彼の足が治るまでは、の話だったのだ。

猟が出来る程に回復したのならば、もう山を下りる事も出来るだろう。

暫く一緒に過ごしていれば彼の性格も何となく掴めた。

本当はもっと早くに山を下りたかったのだろう。

けれどもきっと、一人でここに住んでいる私が人間と過ごして心から喜んでいる事を知って、自分の生活に戻る事に対して思うところが出来てしまったのだろう。

優しい人だから、躊躇って、機会を探って、ようやく話を切り出した。

そんな人だからお礼が言いたい。


「アレス。私、貴方に会えてとっても嬉しかったです」


身体を後ろに傾けて、目を合わせて笑う。

別れは寂しいけれど、彼が居てくれた間の事はきっと一生忘れない。

初めて聖書を暗唱出来るようになった時よりも、初めてこの神殿で春を迎えた時よりも、初めて美味しいスープが作れるようになった時よりも、ずっとずっと嬉しかった。


「……言葉も間違えなくなったな」

「ですね」


茶々を入れるようなアレスの言葉に、たった二週間程度しか前ではない出来事なのに酷く懐かしいような気持ちになった。

初めて彼に会った時は、言葉を発する事自体が久しぶり過ぎて言い間違えばかりしていた。

あの時に何を口にしたかはもうあまり覚えていないけれど、きっと相当にひどい言葉だっただろう。


「貴方を死なせます、だもんな。殺されんのかと思った」

「そんなことしませんっ!」


軽快に笑う彼に、意地になって否定を重ねようとするのを見て、また笑われた。

思った以上に酷い言葉を口にしていたのだな、と頬が赤くなって行くのを感じる。

本当はこんな風に怒って見せたいのではなく、お礼が言いたいのだ。

このまま言葉を重ねてもからかわれるだけだと思って口を引き結ぶと、笑いを収めたその人に続きを促された。

どこまでなら口にしても良いのだろうか。

そう考えながら口にする言葉は、酷くゆっくりとしたものになった。



「私は……神殿庁の中でもちょっと特別な地位にありまして。人とあまり触れ合ってはいけなかったんです」


人間と触れ合い、神様にその嘆願を祈願するのは神官のお仕事。

神様に祈願する場を整え、奉仕するのは巫女のお仕事。

どちらも人間の世界の属しながら神域を支えていく仕事。

けれども私の仕事はそうではなかったから、人と関わる事は必要最低限に抑えられた。


「物心付いた時にはここに住んでましたし、十歳になる前からは通いでお世話をしてくださった神官様も下山されてしまって、たまに来る本庁の方以外とお話した事が無かったんです。知りたい事は本を読んで知りました。でも、そこにどんな人が居て、どんな景色があるのか知らなかった」


本棚に入った本は、聖書やそれに連なる散文詩。

人間の成り立ち、神様の成り立ち、人間の世界、神様の世界、人間の罪、神様の恩恵。

知りたい事の原点はいつだってそこにあった。

知りたい事の枝葉は、いつだってそこには無かった。

けれど、私が与えられた本以外に知識を求める事は許されていなかったし、それを求めようとも思わなかった――アレスに会うまでは。


「だから、この国にどういう人が暮らしてるのか。どんな風に幸せを紡いでいるのか。それを知れて、凄く嬉しい」

「そんなもん、下に降りてから知れるだろ」

「いいえ。アレスから聞けたから嬉しかったんです。本当に、ありがとうございました」


彼の口から語られる人々の暮らしは厳しくとも生き生きとしていた。

神様の恩恵に包まれながら世界は今日も幸せを紡いでいる事を、本当の事を、教えてくれた。

きっと、本に描かれた神話めいた言葉では、一生人間というものがどんな風に生きているのか、私は一生知ることが無かっただろう。


「今度は自分の目で見ろよ。その方が楽しい」


私の語った言葉意味を気にする風でもなく、目を瞑って笑う彼の声に、そうですね、と言葉が漏れた。

きっと、彼が見てきた世界を私の目に移す事は難しいだろう。

けれど、こうして誰かと語らう未来が来るなんて、一月前の私は考えもしていなかった。

未来は神様しか知らない。

そう出来る未来があるかもしれないと考えるだけで、笑みが口から零れた。


「次はどこに行くのですか?」

「西……いや、海がいいな。ここの冬は寒かったし」


海は暖かいのだろうか。

視界一面の波打つ塩辛い水が、海だと本で読んだ。

船に乗って、風に任せて、どこまでもどこまでも行くのだろう。

私に語ってくれた世界よりも、遥かに広い世界を見るのだろう。

目を閉じれば、彼が楽しそうに海を渡って、新しい世界に興奮する様子が目に浮かぶ。

きっとその隣に私が居る未来は無いけれど、その旅路は善いものであるだろう。

そういう未来であってほしい。

たとえ神様がその未来を望まないとしても、私だけはそう祈っている。


「また此処に来る」

「え?」


いつの間にか起き上がったアレスが、胡坐をかいて肘を付きながら私の目を覗き込んだ。

春の色をしたその瞳が、心なしか翳っているように見えたのはきっと気のせい。


「あんたは恩人だからな。気が向いたら土産持ってきてやるよ。人魚の真珠でも、空魚の干物でも」


いつかアレスが語っていた海の秘宝。

それを手に入れられるのは海賊の王や、海の豪商だけだと語っていた宝だというのに。

そんなものを土産にすると言って笑う様子に、そこまでする程の恩だったろうかと思いながらも笑みが浮かんだ。

その土産を期待する事は叶わないとしても、心臓が優しく波打ったのを感じた。


「私も春が来たら山を降りるんです。だからきっと、もう会う事はありません」

「………なんだ、そっか」


そっか、とアレスがもう一度呟いて立ち上がると、大きな伸びをしながら立ち上がった。

自分よりも大きな身体の向こうに見える夜空は、先程よりも闇を深くしている。

もう寝なくてはきっと明日の出発に差し障るだろう。

私もそろそろ立ち上がろうか、と姿勢を崩すと、ぽつりと頭上から低い声が降ってきた。


「ここに留まるなら、忠告したいことがあったんだけど。無駄になった」

「なんでしょうか」

「一つ、人を信じすぎるな。一つ、男を軽々しく家に入れるな。一つ、お人好しも大概にしとけ」


冷ややかな瞳と、皮肉気な笑みの忠告が、本気で呆れているのだと主張していた。

けれど、その忠告が意味する事が私にはよく分からなくて首を傾げた。

そんな私の様子にまた肩を震わせながら笑い、手を引いて立ち上がらせてくれて。


「でも、お陰様で命拾いした。ありがとな」

「こちらこそ。とても楽しかった」


握った手の温かさが、私の手の冷たさを緩和する。

春のような温度を私の心の奥底に焼き付けて。


「で?山降りてどこ行くんだよ」

「本庁です」


一瞬押し黙り、その後にあんた、本当に雲の上の人なんだな、とお腹を抱えて笑った彼の顔には何処にも陰りは無かった。



そうして。

短い春の始まりに、青年は神殿を後にした。

短い春の終わりに、私も人の世界に降りて行く。



岩陰に咲く花も種類が増え、彩りが豊かになってきた。

それを横目にいつもと同じように巨岩をよじ登る。

そこから眺める景色はいつもと同じで、緩やかに春に染まる山が見えるばかり。

けれどその遥か彼方に、かつて夢見て止まなかった青い煙が立ち昇るのを見た。

今日が、《その時》だった。





残っていた根菜を全て堆肥置き場に捨てる。

それが終わったら自らの修道服を鋏で断ち、何枚もの布巾を作る。

雪とその布巾を金属の盥に入れ、日光のよく当たる中庭に置いた。

雪が溶け、水となる。

その間に床に敷いた敷き布を剥がし、これもまた中庭に干す。

袖を捲り上げ、絞った布巾で床を念入りに、念入りに拭きあげる。

塵一つ、曇り一つ無いように。

そこに映る自分の顔は、遥か頭上の聖女様の彫刻と同じように穏やかな顔をしていた。


全ての床を磨き上げた頃には、私の衣服は一等綺麗なモノが一枚のみになっていた。

そして、掃除に精を出した為に沢山汚れてしまったこの身体が一つ。

でも、これでいい。

身体に着いた汚れを落とす為に、湯を使う必要がある。

良く日に干して乾燥させた敷き布を巻き上げ、火を付ける。

足りない火力を補う為に本棚の本を全て火に入れて、薪がきちんと燃えるように火を調節する。

大きな盥に再び雪を入れて溶かし、ぬるま湯にまで温める。

汚れた衣服を脱ぎ、それを火にくべてから盥に半身を漬ける。

身綺麗にし、一等綺麗な衣服を纏うと、ついに私に残された物は盥と鋏と身に纏う衣服のみとなった。


清貧であれ、執着する事なかれ。

私という存在を、最小限にすべし。

この神殿に入った際に教えられた言葉。

それはつまり、私は何も残してはいけないという事だ。


人は、人との間で自己を確立するのだと、私を指導した神官は言った。

人と関わり、人に影響を与え、人に影響され、共鳴し、新しい何かを生み出す。

そうして自らという器に水を満たして行くのだと言う。


故に、私には名前が無い。

故に、人と関わりを持たない。

故に限りなく無に近い、人間の世界から隔絶された存在。

空っぽの器を満たすのは、神のご意思のみ。

その為の存在なのだ。


最も神に近い存在である為に、人間である事を許されない。

それが、神嫁シンカだ。

――たとえ、私が神嫁失格だとしても、私はそういう存在だ。



空が茜色に染まり始めた頃、ようやく待ち人が神殿の扉を開いた。

支度を整えた私を見ると平伏し、慇懃な言葉で用件を伝えた。


「神嫁様。長きに渡るお勤め御苦労様でした。本殿へとお連れします。こちらをお目元におかけください」


この山を下り、本庁へ行く。

そこで私はケガレた身体を捨てて、魂を神様へと捧ぐのだという。

人間の世の安寧を願い、神様への信仰を誓う為の神様の花嫁。

ずっとずっと、それに疑問を抱かずに生きてきた。


待ち人が差し出した雪のように白い被り物は、聖衣の一つだ。

以前の私なら躊躇いなく被っていただろう。


「……あの。一つだけお願いが」


けれど、アレスと出会ってから気付いてしまった。

世界を知らぬ私が一体どうして彼等の安寧を祈願出来ようものか。

何も知らない私が、どんな未来を、どんな幸せを、神様に願うと言うのか。


「神のご意志に沿うものであれば」


彼は、自分の目で世界を見れば良い、と言っていた。

だから。



「道中、目隠しを外していても良いでしょうか?」

「――申し訳ございません。神嫁様の瞳に世俗の穢れを映す事は、禁忌でございます」



これは、罪だ。

彼が目を輝かせながら、語ってくれた世界が、目を閉じればそこに広がっている。

私は神様の意思を満たす為だけの空っぽな存在なのに、世界を知ってしまった。

きっと、これは神官殿の言う通り罪深い事なのだ。

神の器たる神嫁が、世界をその身の内に抱いてしまった。

神様以外の存在を、その身の内に焼き付けてしまった。


私は世界を知らなかった。

私は浅ましい人間だった。

彼に会うまで日々山々の向こうを見つめながら、生きたいと、自由になりたいと心の何処かで考えてばかりいた。

だから、世界に生きる人の為に祈れなかっただろう。

きっと、贄として捧げられる時には恐怖で神を呪ってしまっていただろう。人を呪ってしまっていただろう。

けれど今は、私が彼の生きる未来を支えられるなら、とても嬉しい。

彼の生きる世界を支えられるなら、とても嬉しい。

この感情が罪である事は知っている。



「分かりました。それではどうぞ本庁までの道、宜しくお願い致します」



それでも、彼の幸せを祈りたい。

懺悔の言葉は、その後神様に告白しよう。


そして彼が語った色鮮やかな世界を抱いたまま、私は山を下りた神様に嫁いだ

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神様の花嫁 かんなぎ @kannagi

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