第3話

今日も私は山を見渡し、祈る。

白。灰色。青。茶色。それから微かな緑。

人気のない景色の色合いは豊かだけれど、とても寂しいと感じるのは何故だろう。

どんなに目を凝らして遠くを見ても、相変わらず雪に包まれた其処からは、目当ての印は見当たらない。

けれどあんなにも待ち望んだ物が見つからない事が、嬉しい。

それが罪深い事だとは、とうの昔に知っている。


ぼんやりとした罪悪感に下を向いてしまいそうになる顔を上げる。

アレスが聡いのか私が分かり易過ぎるのか、落ち込んでいたりすると直ぐに気付かれ、気を遣わせてしまうのだ。

彼は客人で、怪我人。

あまり心配をかけたくはない。


ずるり、と岩から滑り下りると、ついこの間にアレスが蹲っていた所に小さな花が咲いているのに気が付いた。

その黄色い花は寒さの中で、春を一番に告げる花。

先々週はまだ雪に包まれていたというのに、もう蕾を綻ばさせているのか。

今年も春を告げる花が咲いた。

それは私が待ち望んでいた時期であるけれど、以前のように素直には喜べない。

嬉しいはずなのに、胸がつきりと痛んだ。





今日は自分が料理を作るから、とアレスに炊事場を追い出されたのは朝方だった。

もう歩くのにも苦労しなくなった、と報告されてどこか寂しい気持ちを抱えてしまったのを見抜いたのだろうか。

恩返しに料理を作るから、あんたは別の事でもしていろと言われた。

そういう訳にはいかないと訴えても、俺に恩を返させないつもりか、と怒られてしまったのだ。

まさか恩を返す行為を否定するつもりなんてない。

善行には善行を。

それは神様の教えの通りで、アレスがそれを実行するのは良い事なのだ。


慌てて昨日仕込んでおいた簡単なスープとパンだけを口に含むと、掃除道具だけを掴んで部屋を出た。

風が無いから身を切る程では無いけれど、冷んやりとした空気は私の身体を清めるように包み込む。

ふと顔を上げると、天井に彫られた聖女の優しい慈愛の笑みが目に入った。

それをじいっと眺め、祈りを心の中で唱えてから視線を外し、神殿の床を磨く。

春の間しか水拭きは出来ないから乾拭きだけだけれど、毎日しているからそこまで目立った汚れは無い。

小さな神殿だけれど、埃ひとつ残さないよう丹念に磨きをかけると一日がかりの大仕事になる。


冷たい石床に足をついて磨くと、滑らかな床はぼんやりと私の姿を写す。

毎日磨いた床に写る私の姿は変わっていない。

けれど、目に見えない魂のケガレはずっとずっと溜まっているのだろう。

生きている限りケガレは溜まる。

今まで本庁の人に言われたとおりに暮らしてきたのだから、そこまでは溜まっていなかっただろう。

けれど、私は人間と関わった。

一体神様はどこまでのケガレを許容してくださるのだろうか。

床に写る不安に揺れる自分の顔をもう一度だけ強く擦って、乾拭きを終えた。


飯が出来たぞ、と呼びかけられたのはそれから随分経ってからだった。

掃除道具を片付け、冷水で手を清めると、寒さに手が震えていた。

アレスの作った料理が温かい物だと嬉しいな、と勝手な期待を抱きつついそいそと部屋に戻り、机の上に並べられた食べ物を見た。

嬉しい事に、パンとスープと……これは何だろうか。

根菜というには柔らかそうで、パンと言うには肌理が細かい。

おまけに独特な、それでいて香ばしい匂いがする。

はて。こんな野菜が菜園や食料庫にあっただろうか。

嗅ぎなれない匂いに鼻をすんすんと鳴らすと、何故だか笑われた。


「ほれ、食ってみろ」

「いい匂い……これ、何のスープでしょうか?」


促されて何から手を付けようかと思ったけれど、見慣れない物に真っ先に手をつけられる程肝は据わっていない。

無難に椀に注がれたスープに口を付けると、味に癖のある、けれどとても優しい風味が口の中に広がった。

美味しくて返事をを待たずに二口目を含み。


「鳥」


とり。

とりとは、鳥だろうか。

鳥とは、あの空を飛ぶ生き物だろうか。

それが意味する事にようやく鈍い頭が思い至り、思い切り咽せた。


「とり……鳥っ!?で、では、これ、に、肉なのですか!」

「あー?エデル教は別に鳥が禁忌タブーじゃねーだろ」

「そ、そうですけれど、でも無益な殺生は禁じられて」


そこまで口にしたところで、匙を目の前に突きつけられた。

迫る匙が私の鼻筋に、触れそうで触れない距離で存在感を放つ。

木製の匙だから危険な事は何もありはしないのに、その向こうに見える春の土色の瞳が酷く冷たい色を帯びていて、身体がびくりと震える。

暫くこうして二人で暮らして来たけれど、こんなにも怒った彼を見たのは初めてだ。


「無益じゃねえよ。鳥を食って俺が生きる為の糧にする。俺が生きて誰かに救いの手を差し出す……かもしれない。俺が生きる事は、こいつが死ぬだけの価値がある事だ」


そう言ってゆっくりと伏せる瞼に、冷たい色が隠される。

それに、と続ける声音はいつもと同じ温度が灯った。


「俺が手を伸ばす力になるんだったら鳥も浮かばれるだろ。ゆーえきゆーえき」


顔だけで笑いながら、驚かしたかと聞いて匙を下げるアレスに、私は何も言えなかった。

生死を語る彼の目は酷く荒れているのに、その言葉は何処までも生に貪欲。

今の流れで何故、一体何が、彼の怒りを引き起こしたのか。

一瞬で彼の怒りを煽ってしまったのは、私が何も知らないから、なのだろうか。


彼が生命を語るのは、それだけ命を食らったからなのか。

私の心がこんなにも揺れるのは、生命を知らないからなのか。

分からない。

私には、何も分からない。

彼がどんな価値観を抱いて生きているのかなんて、分からない。

でもきっと、彼は生命について、生きる事について、私よりずっと、とても真剣なのだ。


「……ごめん、なさい」


気を取り直して食べようとスープに口を付けようとして、匙の動きが止まった。

このスープに浮いた油も、見慣れない白い具も、良い香りも、つい数時間前までは生き生きと空を飛んでいた生命。


私だって野菜という命を食べている。

けれど一部を食したところでそれは完全には死なないし、何より血は出ない。

自分が生命を散らして生きているという実感を、それ程には抱けない。

なのに、知ってしまったからだろうか、このいい匂いのスープはそこにあるだけで生命を激しく主張しているように感じだ。

お前が生きる為に、自分は死んだのだと。


ぼう、とスープを眺めるだけの私に居た堪れなくなったのか、明るい日差しのような彼らしくもない、伺うように小さな声で尋ねられた。


「もしかしたらと思ったけど、やっぱ肉を食ったこと無かったか」

「はい」

「……道理でそんなに身体が小さい訳だ。無理して食わなくても良いからな。俺が、俺の為に殺した命だ。俺が全部食う」


この神殿に家畜の備蓄は無い。

きっとアレスが、私に食べさせる為に一人で山に入って捕ってきたのだろう。

それは、彼の足が完治したという事。

それは、彼の善意。

それは、彼の生き方。

色々な意味はあるけれど、そこに含まれた土台の感情は好意。

そう至った思考は、強烈な罪悪感を押し退け、私の口を動かして。



「いえ、食べます」



再び口にしたスープは、罪の味がした。





「いつからこのような準備をしていたのですか」


いつになく美味しくて、緊張する食事を終えた頃には、アレスも私も疲れ果てていた。

価値観の違いが私の心をすり減らすように、もしかしたら彼も同じものに苦しんでいるのかもしれない。

こんなにも近くにいるのに、理解する事が出来ない。

人間に触れるのは、ケガレるのは。

なんて苦しいのだろう。


「近くを飛んでるなー、って前から思ってはいたんだ。解体自体は山の方でしたから、炊事場は汚してないから心配すんな」


食器を重ね、流しに運ぶ私の背に、よく通る声がかけられる。

良かった。死骸を見るのは嫌だと思っていたのだ。


生命を食らったクセに。


頭に響いた声が私の動きを制するように鋭く煌めいたけれど、彼が私を思い遣ってくれているという感覚が、罪悪感を鈍くする。

嬉しい、と感じる心が動きを軽くする。


段々と高くなる体温が、私の身体が生きていると主張する。

苦しくて、けれども嬉しいと感じる心が、私の人間としての命を自覚させる。

いつまでも、いつまでも、こうして生命を実感していたい。

そう思って胸を押さえた。

ふと後ろを振り返り、そこに佇むアレスの静かな瞳が、私の目を覗き込むまでは。



「今日の夜、ちょっと話がある」



その言葉で、私は明日アレスが旅立つつもりなのだと知った。



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